ピリッとした痛みが唇に走った瞬間、ああまたかと指を這わせた。指先にうっすらと赤が乗っているところを見るに、やはり唇が切れてしまったようだ。直前まで周回に勤しんでいたアプリゲームを一時的に取り止めて地味な痛みに顔をしかめる。すると、同じテーブルの向かいに座って写真の選別をしていたなのかが顔をあげた。
次の星に到着するまでのゆったりとした時間が流れるラウンジでの出来事であった。
「列車の中って空調が効いてるから乾燥するよね。うわ、痛そう」
「うん。実際結構痛い」
「保湿しないとだね。……そうだ。ウチ、リップ持ってるよ!」
持っていると言ったそばからどこだっけと服のあちこちを探し始めたなのかは、少ししてようやく一本のリップを取り出した。小さく細長い筒状のそれは、シンプルだが可愛らしいデザインである。
「完璧とは言えないけど、塗るだけでも結構変わるよ。これ、二本セットで売ってたから余ってる方をあげるね」
男の自分が持つには少し可愛らしすぎる気もするが、これを塗るだけで痛みが少なくなるならとリップを受け取った。
「本当にいいのか?」
「うん。可愛いし安くてお得って思って咄嗟に買ったんだけど、気分で色々使うからもう一本はもて余しちゃう気がしてたんだ。だから使ってくれた方が嬉しいな」
「そっか。じゃあ遠慮なく」
早速受け取ったリップの蓋をあけた。白い断面が見えるが、使ったことがないそれにさて次はと視線でなのかに訴える。底が回るようになっているから、動く方向に回すようにとレクチャーされたので、その通りにした。一度にたくさん出さないよう気を付けて。出しすぎたら反対に回せば引っ込む、とも。
彼女の言う通り一気に回さず、中身が一、二ミリ出てきたところでストップさせて、再びなのかを見た。彼女はどこから取り出したのか、穹に渡したものとはまた別のリップをいつの間にか手にしていた。
「塗って見せるから、ウチの真似して」
繰り出されたリップを慣れた手付きで唇へと滑らせるなのかに習い、穹も自分の唇へリップを乗せた。そして軽く一周。最後に上唇と下唇を擦り合わせるように動かして馴染ませる。
「どう? 引き連れる感覚がマシにならない?」
「……そう、だな。なんかそんな気がする」
「まだピンと来ないかな」
「唇に何か乗ってる違和感の方が強い」
「初めて使うからかも。そのうち慣れるから大丈夫。痛いよりはマシな筈だよ」
たったこれだけの作業であの痛みが少なくなるなら簡単な話だ。何事も痛くない方が良いに決まっている。初めは違和感が強かった自分の唇も、ゲームの続きに熱中してしまえば忘れてしまえた。
それから暫くして顔をあげた穹は、視界の端で妙な表情をしているなのかを捉える。自分の顔を見て「やらかした」という顔をしていた。
「……ごめん。ウチが渡したの色付きリップだったみたい」
なのかが何を言っているのかよく分からないが、その口振りから察するに想定外の事が起きているのは伝わってきた。
ややあってなのかが差し出した鏡を見てぎょっとする。鏡の中の自分、その唇だけがやたらと彩度が高い。鮮やかなオレンジ色に染まった唇は血色が良く見えるだけではなく、照明の光を受けて不自然な程に艶めいている気さえした。
なんだこれ、というのが穹の率直な感想だ。初めに確認した限りでは無色透明のリップだった筈だが、なのか曰くどうやら体温で色が変わるリップというものが存在するらしい。なんのためにそういう品があるのか、化粧品初心者の穹は考えても分からなかった。
「こうしてみるとアンタって結構化粧映えする顔だったんだね」
両手の人差し指と親指で四角くかたどり、中に穹を納めて眺める姿はなのかの趣味を彷彿とさせた。普段からカメラを持ち歩く彼女は可愛いものが好きで良く撮影しており、車掌のパムが被写体としてよく犠牲になっている。
「まぁ、俺は可愛いから」
「はいはい。……ちゃんとメイクしたらどのくらい盛れるんだろう。気になるなぁ」
人差し指と親指で出来た額縁の中を覗きながらうんうん唸るなのかを見ていると冷や汗が出てくる。嫌な予感がした。
「俺はパムじゃないぞ」
「それはそうだけど! ウチのナナシビトとしての開拓心がこう……、そうだ!」
何か穹にとって面倒くさくなることを思いついたらしいなのかは、ハッとしたように顔をあげたかと思うと周囲をうかがう。そしておもむろに穹の耳へ口元を近付けると、ある提案を囁いた。
「思わず丹恒がキスしたくなる仕上がりにするから、メイクさせてくれない?」
なのかの誘いは見事に穹の好奇心をくすぐり、断る方に傾いていた天秤を水平にしてしまった。片側に乗せられた条件が魅力的すぎる。
突如話題に出された丹恒の名前に、なのかの向こう側でヴェルトや姫子と会話している白と翠の姿に視線を向けてしまう。タブレットを眺めながら意見交換をしている顔は真剣そのものだ。普段であれば資料室に引きこもっている、もといアーカイブの整理をしている筈の丹恒だが、今は珍しくラウンジにその姿があった。
タイミングが良いのか悪いのか。ちら、と視線を向けたその瞬間に丹恒と視線が交わった。とりあえずへらりと笑った穹に答えるかのように丹恒も薄く微笑む。
会心の不意打ち。喉の奥からあがりそうになる声をグッと押さえると、代わりに変な音が鳴った。
自然と視線がその唇に引き寄せられるのを、天を仰いで物理的に阻止する。
「そ、れは。とても、好奇心が、疼くというか……でも……」
「交渉成立だね! 早速ウチの部屋まで行こ!」
「待った、まだ」
まだ了承した訳じゃない――。そう言いたかったのになのかは穹の手を掴んで立ち上がるようせっついた。はやくはやく。ぐいぐいと引っ張る彼女の勢いに流され、穹は席を立った。
* * *
なのかに手を引かれてラウンジから出ていく穹の後ろ姿を見送った。直前に一瞬かち合った彼の視線は助けて欲しいと言っている気がしたが、あくまで相手はなのかだ。それに列車の中ならそう悪いことになりはしない。自分の用事を優先しても問題ないと丹恒は判断した。あまりにも戻りが遅いようならその時は助け船を出せばいいと考えて。
そう思ったのが数十分前。アーカイブに記録する資料について、ヴェルトと姫子に意見を求めていた丹恒の用事が終わっても二人はラウンジに戻ってこなかった。丹恒はしばし考え、とりあえず穹にメッセージを送る。何をどう聞くか迷って安否を尋ねるざっくりとした文章になってしまったが、意外にも穹からの返信はすぐに来た。
――大丈夫なような、大丈夫じゃないような。
どうにも要領を得ないメッセージである。丹恒は訝しみつつ話を続けた。
――どういう意味だ。
――説明が難しい。
――なのかの部屋にいるんじゃないのか?
――うん。
――すぐ行く。
――深刻な感じじゃないから。無理に来なくても大丈夫。
無理に来なくても。その一文を見て丹恒は無意識の内に眉間へ皺を寄せていた。
仮にも恋人という関係性に落ち着いているのに、そう言われてはい分かりましたと素直に従えるだろうか。特に穹は他人の困り事には敏感だが、なぜか自分の事は後回しにしがちである。穹がそういう性分だから、その分なるべく自分がフォローしたい。
資料室前の扉までやって来た丹恒は足を止めたが、そのすぐ隣の扉を見る。なのかの部屋はすぐそこだ。突撃するか数秒悩んで丹恒は最後のメッセージに「もうすぐ着く」と返してスマホをしまった。
ドアをノックすると扉の向こう側でどたばたする音が聞こえて来た。慌てふためているようにも聞こえるそれに疑問ばかりが浮かぶ。一体何をしているんだ。
体感的に二、三分程かけて扉が開き、普段通りのなのかが出迎えてくれた。
「お待たせ。何かあった?」
「穹を借りたくて来たんだが、いいか」
「うーん。ウチは問題ないって言うんだけど、本人的には問題アリみたい」
「どういう事だ?」
穹とやり取りしたメッセージが思い出されるが、なのかが言わんとしている事が分からない。迷うように視線を彷徨わせた彼女だったが、とりあえず入って、と言われたのでその通りにした。
なのかの部屋には何度か入ったことがあるが、可愛いものが好きな彼女らしい部屋である。色合いもさることながら、置かれた小物も全てが可愛いで埋め尽くされている。その中でも目を引くのは次々に写真を映し出すモニターだろう。少々無骨にも思える何枚かの画面には、なのかがこれまでの旅で撮り溜めて来た画像を数秒ごとに切り替わりながら映し出している。
そんなモニター達の前に目的の人物は座っていた。しかし様子がおかしい。
「穹?」
どういう訳か両腕を顔の前にかざして見られないように隠している。更にその向こう側では大きく顔が背けられていて、そのような態度に出られるとは思っても見なかった丹恒はあっけにとられた。
大方なのかが何かしたのだろうが、彼女はやれやれと腰に手をあてている。
「美少女の名にかけてウチがプロデュースしたんだからもっと自信持ってよ!」
「だって、俺からしたら善し悪しが分からないし……」
「ウチが可愛いって思う出来なんだから十分信用できるでしょ? アンタは可愛い!」
相変わらず顔を隠したまま自信なさげな穹と、それを励ますなのかという不思議な光景を目の当たりにした丹恒は、呆気に取られたまま置いていかれるばかりだ。
「でも、確かに最初のリップのまんまじゃちょっとイメージと違うんだよね。……ウチの手持ちじゃアンタに合いそうなリップがないから姫子にも聞いてくる!」
「そういう問題じゃない。リップの色がどうとかってレベルの話じゃないんだ……!」
悲しいかな。穹の訴えが届く前になのかは部屋を出ていった。主が不在の部屋に残された二人の間に沈黙が落ちる。
「それで、何があったんだ」
「なののうっかりで、色々……」
「ああ……」
詳細までは分からずとも、なのかのうっかりでだいたい納得出来てしまった。彼女のそそっかしさは星穹列車では周知の事であったし、開拓の旅でもそういった場面は多々ある。主に発揮されるのは発言での部分で、だが。
「それで、お前はいつまで顔を隠しているつもりだ」
「俺だってずっとこうしてるのは嫌だ……。どこか変でも笑うなよ」
「分かった。笑わない」
そう前置いてから穹は顔の前で視線を遮っていた腕をおろす。普段通りの穹を思い浮かべていた丹恒は、その顔に化粧が施されているのを見て驚いた。
「化粧したのか」
肌はより滑らかに。色を乗せた瞼は眼差しすらも強く、美しくする。唇はよりはっきりと鮮やかに色付き、かつ艶があった。僅かに見える耳の色を見るに、頬の血色が良いのはチークの効果だけではないのかもしれない。
「うん。このリップを塗った時になのの好奇心を刺激したみたいで、メイクさせてほしいって」
穹はおもむろに背後のカウンターへ手を伸ばして、放置された道具の中から可愛らしいパッケージのリップを手に取った。化粧を施したなのかの趣味を思えば、穹の顔が比較的可愛らしい仕上がりになっているのも頷ける。
直前の二人の会話を思い出しながら丹恒は納得した。化粧慣れしていない穹が自分の顔がどうなっているのか分からなくて、丹恒への返信があのような曖昧なものになったのだろう。
「断っても良かったんだ。なのかも無理強いはしないだろう」
「そこは勢いに押された。それに俺の方も利害が一致したというか、好奇心が勝ったというか」
「好奇心?」
わざと気になることを言っておいて、それ以上は語らなかった。手にしたリップを所在なさげに眺めるばかりで、いつもは真っ直ぐに見つめてくる金色の瞳が伏せられた睫毛の向こう側で自信なさげに逸らされているのが気になった。
化粧をした穹は新鮮で、彼が何も言わないのをいい事に丹恒はしばしその顔を眺めていた。瞼に乗せられた陰影と色が目元をより華やかに見せていて、それでいてどこか女性らしいといえば良いのか。特に程よく血色があり、かつ潤んだ唇は逸らしても視線がそこに戻ってしまう。それに、化粧をした穹の姿なんて初めて見る筈なのに、どういう訳か既視感がある。
穹と過ごしてきたこれまでの記憶を掘り起こす。特に視線が吸い寄せられるのが唇なのだから、ただ華やかだからと片付けてしまうのは乱暴な気がする。
思い出そうとする内に脳内で再生される記憶があった。最低限の照明だけが淡く光る薄暗い部屋で、乱れたシーツの海に体を横たえる姿。肩で息をする穹の唇は濡れていた。
――そうだ。艶めいた穹の唇は、深いキスをして濡れた時のそれに似ている。そこに気付いた瞬間、酷い罪悪感に襲われた。穹本人にその気はないだろうに、自分の浅はかさを呪いたくなった。
化粧を施された穹の顔を脳内で一人四苦八苦しながら眺めていた丹恒は、伏せられていた瞳が不意にこちらへ向けられて心臓を跳ねさせた。まるで丹恒の脳裏に一瞬でもよぎった考えを咎められているようでバツが悪い。
「この色、丹恒の方が似合うんじゃないか?」
「は? ……急にどうした」
「塗ってみようよ。これ」
そう言って自分の唇を指した穹が言わんとする事を察して丹恒は息を詰まらせた。
今日の穹はおかしい。積極的というか、妙な強引さがある。顔を隠している時は自信なさげに小さくなっていたのに、今は席を立ってキスを迫ってくる。そんな普段の彼にはない艶やかさがどうにも慣れない。
それとも自分がおかしくなってしまったのだろうか。ただ化粧をするだけならどうという事はないのに、変に意識してしまうのは先程よぎった不埒な考えに由来するのかもしれない。
鼻先が触れ合いそうな程、至近距離まで近づいて来た穹はそこで止まった。てっきり彼からキスをしてくるのかと思ったのだが、金色の瞳がじっと丹恒をうかがうように見つめている。
煽ったのはお前だろうに、ここまで来て焦らすのか。
暴れる心臓をそのままに表面上は平静を装って、唇に触れるだけの優しいキスをした。間違って触れてしまったと言い訳出来そうな、一瞬だけ触れるキスをして丹恒はすぐに身を引いた。これ以上は化粧を大きく乱すと思ったのだが、穹は不服そうに唇を尖らせていた。
「もっとちゃんとしたい」
「だが化粧が乱れる」
「乱れたら塗り直せばいいんだからさ。丹恒の好きにしてよ」
そんな悪魔のささやきにも似た穹の誘いに生唾を飲み込んだ。たが、これはおかしくはないだろうか。丹恒の冴えた部分が落ち着けと制止をかける。
もしかしたら一連の行動は、誰かからの良くない入れ知恵ではないだろうか。丹恒が把握する限りではハニートラップを教えるような知り合いは穹の周りにいない筈。しかし、普段を思えばらしくない穹の行動は丹恒に良くない妄想を抱かせるに十分だった。
誰だ。穹に変な入れ知恵をしたのは。
瞬間、自制していた心が反転し、蠱惑的に艶めく穹の唇に自分のそれを押し当て、招きいれるように薄く開いたあわいから舌を差し入れた。
一度越えてしまえば、あとはより深く、沈んでいくだけ。
* * *
「それで、どっちからしたの?」
戻ってきたなのかは穹と丹恒、双方の唇を見て尋ねた。乱れた穹の唇をぬぐって整えている丹恒の唇にも同じ色が乱暴に乗せられている。
仕方がないなと呆れたように言うなのかの顔は嬉しそうでもあって、状況と反する彼女の反応に丹恒は戸惑ったのだが、穹はつられたように笑っていた。
「ミッションは半分達成で、半分未達成かな」
「えーっ、ショック。可愛く仕上げたつもりだったのに! 丹恒ってば結構奥手なんだ」
「どういう意味だ」
「化粧が乱れるからって躊躇ってた」
「あ、成る程ね。そこは考えてなかった!」
目の前で交わされる会話の端々から、丹恒はこれが二人の計略によるものだと次第に理解していった。
そうか。自分に迫って来た穹は、なのかと何かしらの約束があったから不自然に強引だったのかと一人納得する。
穹はともかく、なのかにまで遊ばれたのだと理解した瞬間にどっと疲れが押し寄せて、丹恒は呆れと共にため息を深く吐き出した。
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