ak1r6
2024-03-09 21:17:28
8808文字
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すきすきだいすき超愛してる

RL和解直後ヒロコウ前提のコウヒロ
しつこく「俺のこと好き?」と訊いてくるヒロ(攻自認)と、様々な思いから「好き」と言ってやれないコウジのラブコメ
※タイトルは舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』のオマージュですが、ストーリーの展開は同作の内容には関係ありません

 すきすきだいすき超愛してる




 1

 ヒロの髪が揺れるのを見るたびに、コウジは母の花器を思い出す。コウジが小学生の頃、母がテレビボードの横に置いた花瓶。そこに活けられた秋の花々のことを。大ぶりな花のひとつが、特にコウジの目を引いた。花器の中でいっそう誇らしげにしていたその花は、瑞々しく力強い曲線を描いてオレンジ色の花弁を天に伸ばしていた。「大きな花びらだね」と興味を示した幼いコウジに、母は微笑んで「花びらじゃないのよ」と言い、図鑑を開いて見せた。そうしてコウジは、それが銀葉樹という植物で、花を包むように配される偽物の花びらのような葉を「 ほう」と呼ぶのだと知った。
 数年後、コウジが中等部で出会った親友——速水ヒロの頬は、常につややかな ほうに覆われていた。彼の ほうが乱れるのは、ごく限られた場面だけだった。たとえば、プリズムショーをするときや、声をかけたコウジを振り返り微笑むときに。ヒロが大きく頭を揺らすときにだけ、髪が揺れて、普段は覆い隠されている耳がわずかに見え隠れした。コウジは揺れながら優美なカーブを保つそれを見るのが好きだった。あの黄金色のステージでコウジに向けて頭を下げたときも、 ほうは力強いカーブを描いたまま、ヒロの耳を あらわにしていた。
 それから数ヶ月後、コウジはそれがヘアワックスで固められたものではなく、彼の生来のものなのだと知った。謝罪を受け入れて親友の家に泊まるようになったあと、寝起きのヒロの髪は、いつもあのカーブを描いていたからだ。コウジは和室の床に寝そべったまま、卓袱台 ちゃぶだいの向こうに見えるベッドの上で眠るヒロを、眠気の残る目で見やった。
 昨晩は、結成したばかりのコウジたちのユニット"Over The Rainbow"で披露するショーの相談に熱が入って、カヅキと一緒にヒロのアパートに泊まったのだ。泊まったといえば聞こえばいいが、実際は眠気に任せて畳の床で眠っただけだ。コウジはぎこちなく固まった背中をほぐながら部屋を見渡す。
 このごろは春めいて日の出が早くなったとは言え、窓のすぐ側まで隣地の建物が迫っているこの部屋は朝でもほの暗い。コウジは薄暗がりのなかで、畳の上に転がったスマショや、卓袱台に下半身をつっこんで眠るカヅキの頭などを踏まないよう注意深く歩き、ベッドの横へひざまずいた。
「ヒロ、起きて。きょう仕事早いんでしょう」
 肩を揺すると、同じリズムでガタガタとビールケースが揺れた。ヒロが目蓋をぎゅっと閉じる。「ん……」とむずがるような小さな息を漏らしてもぞもぞと身じろいだヒロは、やがて指で目頭を擦り「おはようコウジ」と掠れた声で身を起こした。ぐっと伸びをして、ぱっちりと目を見開いた薄茶色の瞳がコウジを捉えて微笑む。
「俺のこと好きだよな?」
 まるで、「よく眠れた?」とでもいうような、朝の挨拶として自然に発せられたその言葉を聞きながら、コウジはヒロの顔を眺めて感心していた。寝起きの油っぽさとは無縁の、ニキビひとつない滑らかな頬。その曲線に沿って、完璧なシンメトリーを描いた髪がやわらかに覆っている。地球の重力はヒロのために存在するようだった。
 まじまじと顔を見入るコウジに動じることなく、ヒロは美しく微笑んだ。無言で見つめ合うふたりの間にしばしの時間が流れたあと、コウジは返事をしていないことに気づいて、ヒロに微笑み返して唇を開いた。
「微妙かな」
「『微妙かな』!?」
 ヒロがあげた素っ頓狂な大声に驚いて目覚めたらしいカヅキが、卓袱台に膝をしたたかに打ち付ける鈍い音が、コウジの背後に響いた。




 2

 ヒロが苦労して予約したという流行りのカフェは、鬱蒼と茂った木々にとり囲われて、ちょっとした隠れ家のような趣きだった。店内はテーブルの間に衝立 ついたてがなく広く見渡せる上に、たくさんの客に溢れていて、とても隠れ家として使えそうには無かったが。遠くからヒロをチラチラと見て、興奮した様子で囁き合う女性客と、目の前のヒロがメニューを片手にしきりに何か喋り、店員を呼び止めてオーダーするのを、コウジはぼんやり眺めた。
 和解してから、ヒロはたびたび「俺のこと好きだよな」と確認してくるようになった。ヒロの生い立ちを知った今では、そう訊きたくなる彼の不安はよくわかる。最初の頃こそ「うん」「そうだよ」「大切な友達だよ」と丁寧に返していたコウジだが、こうも頻繁では流石に辟易してきて、今朝のように曖昧な返事をすることも多くなってきた。このごろはヒロの望む返事から程遠い言葉ばかり返すようになっている。自分でも、意固地になっていると思う。もちろんヒロのことは友人として好きだ。好きだと言ってやることに、何の問題もないはずだ。それでも、飽きず尋ねてくる彼へ「好きだよ」と返すたびに、コウジの中で大切な何かが剥がれ落ちていく感じがした。それは多分、古い傷を覆う瘡蓋 かさぶたのようなもの。むかし未熟な心が抱えていた、ヒロへの切実な想いや願いのようなものが。
 未熟だった頃。そういえば、中等部の頃も、ヒロに「おれのこと好き?」と聞かれたことがあった。親友へ抱く恋心を必死に隠しているつもりだったコウジは、自分の好意を知られていたのかとひどく驚いた。狼狽するコウジにヒロは薄く微笑んで、微笑みの形を保った唇のまま「俺のこと、好きになっていいよ」と続けた。コウジは火照った顔をぎこちなく縦に動かした。ひとつ頷くだけでも、決死の覚悟だった。恋愛対象外の友人から好意を向けられると嫌悪感を抱くものと聞く。あの頃は、彼に気持ち悪がられたら生きていけないとすら思っていた。だから絶対に隠し通すつもりだったのだ。
「ほんと?」と返すヒロの嬉しそうな顔を見て、コウジの頬はひどく火照った。「すきだよ。ヒロのことが、だいすきだよ」たどたどしく言いながら、これ以上体温が上がったら死んでしまうのではないかと密かに心配になった。「ヒ、ヒロは」と尋ねるコウジの喉はからからに乾いて、声はいびつに裏返っていた。ヒロが小さな頭蓋を縦に振った。頷きひとつで、想いが通じ合えたことがわかった。涙がでるほど嬉しかった。
——コウジ?」
 声をかけられて追憶から顔を上げると、あの頃よりも少しだけ成長した青年が、頬杖をついてコウジにウィンクを寄越していた。
「俺のこと、好きになっちゃった?」
 ウィンクから溢れでるハートを浴びて、げんなりする。
 こう何度も確認が必要になるということは、中等部の自分たちは、何ひとつ通じあってなどいなかったということだ。決死の覚悟で頷いた過去の自分に同情する。……哀れなのはあの頃の自分だけではない。一度答えたことを何度も尋ねるというのは、自分は現在 いまもずいぶん失礼なことをされているんじゃないだろうか?
……さぁ……
「サーモンのスモーブローセット、アスパラと卵のスモーブローセットでございます」
 コウジの間延びした声は、料理を運んできた店員の快活な声にかき消された。彩り豊かなオープンサンドを載せた大ぶりな平皿が、コウジとヒロの間に並べられる。
「ね、コウジ、俺は好きだよ! コウジも俺のこと好きになっただろ?」
 ヒロがしつこく尋ねてくる。カフェでゆっくりプリズムショーの構想を練るはずが、すっかりいつもの流れになってしまった。
 何と返そうが、どうせまた同じことを訊かれるのだから、いちいち真剣に返してやる必要なんかない。面倒になって「はいはい、そうかもね」とあしらう。コウジの投げやりな様子にも構わず、ヒロは「じゃぁ、両思いだな」と言って嬉しそうにテーブルに身を乗り出してきた。遠慮のない顔がぐっと寄せられてくる。普通の友人が取る距離ではない。たとえば、キスする直前の恋人のような。からかわれているのかもしれないが、中等部の頃ならいざ知らず、今のコウジには動揺するような可愛げはない。ヒロが邪魔で皿の上のパンをカットしづらいな、と思うだけだ。睫毛の一本一本を確認できるまで近づいたアーモンド型の目がコウジを見る。ヒロの薄茶色の目が、昼の陽光を帯びて艶めく。万華鏡のような虹彩の中に、コウジの顔が映り込んだ。
「キスしていい?」
「だめ」
 間近に寄せられたヒロの顔を押し戻して、カットしたライ麦パンとサーモンを口に放り込む。ハーブの効いたドレッシングは酸っぱっかった。
 オープンなカフェで行われたこのやりとりは、居合わせたヒロのファンによって、当然SNSに投稿された。愛NGを掲げていたヒロのファンはさぞ怒り狂うだろうと気を揉んだが、コウジの予想に反してSNSは全く炎上しなかった。
 ヒロは日頃からインタビューなどでコウジとの関係を「もうラブラブって感じです!」と茶化したトーンで広言していたので、彼のファンは、単なるファンサービスの一環として受け取ったらしい。炎上すれば少しは溜飲がさがるものだと密かに期待していたコウジは、スマショを握ってがっかりした。
 『ヒロ様の失恋!? お相手はまさかの……』と題され、二人の顔が寄せられた写真がヘッド画像に設定されたニュース記事をタップする。好意的なコメントが興奮した様子でいくつも並んでいるのをげんなりした気分で見ていると、画面上部の通知欄に、涼野いとからのメッセージが表示された。
『随分楽しそうだね。来週の、わたしとのカフェの約束も覚えてるといいんだけど』
 ヒロと彼のファンにとってはファンサービスの一環なのかもしれないが、つきあい始めたばかりの彼女の目線は棘棘しく、痛い。致命傷になりうる。込み入った関係とはいえ一介の友人に過ぎないヒロのために、可愛い恋人の不興を買うわけにはいかなかった。
 コウジはやむなく、ヒロに「1m以内接近禁止」令を出すことにした。
 ヒロのショックを受けた顔を見て、コウジは苛つきを覚え、同時にどこか安堵もした。そう感じた自分について、彼との茶番がストレスになっていたのだろう、と自己分析した。ヒロは不服そうにしながら、意外にもきちんと接近禁止令を守った。昼休みは1m離れたところでコウジ手製の弁当を食べ、アスレチックコアで手を繋ぐ振りは腕をぴんと伸ばして1mを確保した。制作中の曲を確認するとき、いつも片耳ずつ分けていたイヤフォンでは1m離れることができなくて、コードの長いイヤフォンを求めて二人で電気店を探し回った。
 ビールケースからきっかり1m(畳の幅より少し長いので、メジャーで計る必要があった)離したところに布団を敷いて寝た夜、コウジは悪夢を見た。あの日の夢だった。
 夢の中で、緑色の制服姿のヒロは「俺のこと好きになっていいよ」と微笑んだ。すべてを赦し惹きつける、心を揺さぶる声。その声に促されて、コウジは心の中心にあるものを明け渡した。ヒロは美しく微笑んで頷いた。そのとき、頬の上の髪がふわりと浮いた。突風だ。吹き荒れる風がヒロの髪を束のまま大きく揺らして乱した。ヒロの顔が見えなくなる。もう少しで隠されていた耳が見えるというとき、目が覚めた。手探りで携帯端末を開くと、午前2時を少し過ぎたところだった。
 深夜のアパートは暗い。遮光カーテンの隙間から漏れる街の光をたよりに窓の下を眺めると、ぼんやりとヒロの輪郭を捉えることができた。穏やかに上下する胸。揺り起こせば、いつもと同じように、寝起きに相応しくない整った笑顔を浮かべて自分を好きか尋ねるだろう。コウジは音を立てないよう慎重に携帯端末を畳に伏せた。
 どうか、ヒロが目覚めませんように。夢の中の自分があんなに焦がれていたヒロの声を、今は、どうしても聞きたくなかった。このまま冷蔵庫の稼働音が、永遠にこの部屋を満たしていてほしかった。
 ——『コウジ。おれのこと、好き?』
 ヒロは、中等部で交わしたコウジとの会話など忘れているだろう。だから屈託無く尋ねられるのだ。あるいは、コウジが何を思い、どう感じるかなんてことに、興味がないのかもしれない。
 あのとき、コウジは心の底から、ヒロのことが好きだった。ヒロのためなら何でもできると思っていた。これが大人の言葉で言う「愛」なのだと思った。ヒロだって、コウジの問いに頷いて見せたように、コウジのことを好きだっただろう。
 けれど、ヒロの「好き」が意味するものはコウジとは違った。彼の「好き」は、「便利」の言い換えに過ぎなかった。そんなのは、偽物の愛だった。
 
 コウジがヒロを好きだと言った翌日、ヒロはデビューソングを彼の作品として発表した。




 3

 そのまま、穏やかな日常が続いた。コウジがヒロの1m圏内に入らなくても、カヅキやヒロと過ごす生活に大きな支障は生まれなかった。1mの距離を保ったまま、3人は一緒に昼食を取り、一緒にレッスンを受け、一緒に寮の風呂に入った。ヒロに例の質問をされる頻度が下がったことで、コウジは苛々することが少なくなった。1m。これがコウジとヒロにとって、ちょうど良い距離だったのかもしれない。思えば、自分達は近づきすぎて互いのことが見えなくなったり、遠ざかりすぎて自身を見失い、傷つけあったりしてきた。きっとこれからは、ヒロと穏やかな関係を築いていけるだろう。
 ある日の風呂上がり、寮の脱衣所で服を着ていると、ヒロを挟んで反対側に並んで立っていたカヅキがふとヒロを見て言った。
「お前、服の趣味ちょっと変わったよな」
 そうかな? コウジは鏡の前に座ってドライヤーを手に取り、ヒロの服装を思い出そうと記憶を辿った。白いワイシャツに薄手のカーディガン、水色の襟付きシャツ、ワイシャツにニットのカーディガン……。いま鏡の中で髪を乾かしているヒロは、首元のゆったりした部屋着のシャツを着ている。言われてみれば、少しラフな格好が増えたのかもしれない。
「優等生はもういいかなと思ってね」
 ヒロが芝居がかった仕草で両肩を上げて笑った。図星らしい。本当にカヅキは人のことをよく見ている。たいてい的を射ており、それでいて傷つけることは言わない。こういうところが多くの人を惹きつけるのだろう、とコウジは感心した。
 ……ヒロの服か。中等部のころは、どんな服を着てたのだっけ。古い記憶を手繰り寄せようとして、コウジは愕然とした。
 記憶のどこにも、制服姿のヒロか、エーデルローズのレッスン着のヒロしかいないのだ。コウジは、高等部に上がるまで、ヒロの私服を見たことが無かった。
 考えてみれば、あの頃はヒロの私生活を一切知らなかったし、知ろうともしていなかった。学校と放課後のレッスンで、毎日精一杯だった。コウジが自宅に招いたときも、ヒロは華京院の制服でやってきた。休日はいつもレッスンがあるからと言って遊ぶ暇はなく、その言葉を疑問に思う事はなかった。コウジはヒロのことなんか、何も知らなかった。ヒロが見せていた、ほんの表層を除いては。だから彼が裏切ったとき、彼がどうしてそんな行動をしたのか、想像しようともしなかった。
 ——「好き」だなんて、どうして言えていたのだろう。コウジは、いったい彼のどこを好きだったのだろう。
「コウジー、俺たち先に行ってるからな」
 髪を乾かし終えたカヅキが、ヒロと連れだって脱衣所を出て行く。コウジはドライヤーのスイッチを切り、鏡に映る、脱衣所に一人とり残された自分を見た。
 あの頃のコウジには居場所が無かった。音楽を、心を、見つけてくれる人がいなかった。孤独でどうにかなりそうだった。そんな時に現れた、自分の才能を讃えてくれるヒロを、渇望していた言葉を惜しみなく与えてくれるヒロを、好きだっただけなんじゃないのか。思考を深めるにつれて、鉛の塊を飲み込んだように胸が重くなる。口の中を苦味が走る。
 愛が偽物なのは、コウジの方だ。




 4

 それから、コウジは入浴するたびに突然叫び出したくなるような夜が続いた。湯船に浸かってぼうっとしていると、羞恥と自己嫌悪と裏切られた辛い記憶が、代わる代わるコウジに襲いかかった。実際耐えきれずにうめき声が漏れてしまうことがあったので、カヅキやヒロと入浴の時間をずらすようにした。
 中等部の頃、ヒロはコウジの身勝手さを見透かしていたに違いない。だから、「好きになっていい」なんて——まるで酷いことに対するように——許しを与えていたのかもしれない。もしかすると、和解してからあんなに自分を好きか訊いてきたのも、コウジの好意の意味を確認していたのかも……
 そう思うと顔から火が出るほど恥ずかしく、まともにヒロの顔を見ることができなくて、彼を避ける格好になった。特に二人きりだとほぼ確実に「あの質問」を浴びせられるから、ヒロと会わなければならないときは必ず誰かが同席するように仕向け、二人で過ごすことを徹底的に避けた。プリズムショーの打ち合わせがあってもヒロの部屋に行くことは避け、寮の食堂で行うようにした。夕方になればヒロとの相部屋には帰らず、母を口実に実家へ帰宅した。
 ヒロの手がコウジの腕を掴んだのは、ヒロを避け始めて二週間ほど経った日の放課後のことだった。
 寮の廊下でヒロを見かけ、慌ててきびすを返すと、気付いたときには腕を真後ろに引かれていた。転んで尻餅をついたところをヒロの両腕に囲われ、たちまち壁に背中が押しつけられた。
「ちょっとヒロ、1メートル……
 文句を言う舌が止まる。見上げたヒロの顔は、何の感情も浮かんでいなかった。何も映していない瞳。その目の暗さがコウジを怯ませた。コウジの表情を見て、ヒロが口の端を持ち上げた。
「俺のこと、もういらなくなっちゃった?」
 口の端の片側だけを歪ませる笑い方が、少し前のヒロそっくりだった。コウジは密かに焦りを感じた。答えを間違えてはいけない。せっかく修復した自分たちの関係が、コウジの一言で簡単に傷ついて壊れてしまうだろうという予感がした。
 目を合わせられなくて、目線を落として必死に考える。何と言うべきか分からない。ヒロの腹部と、その背後にある廊下の床を目線が彷徨う。
 どれほどそうしていただろうか。いっそ寮生の誰かが、できればカヅキあたりが通りかかってくれないかと願いはじめたとき、俯いた頭の上で「くくっ」と空気の漏れる音が聞こえた。音はだんだん大きくなって、コウジはようやくそれがヒロの笑い声だと分かった。
「ああ、そうか、そうだったんだな」
 何かに納得したふうのヒロは、コウジの左手を掴んで、自身の腰に導いた。笑ったせいで上気した頬に、媚を帯びた微笑みを浮かべた彼の顔。彼の胴体。ギターを弾くために硬く変質したコウジの指が、柔らかいニットの裾に潜り込んで、細身の締まった腰を這う。
「コウジならいいよ」
 俺の身体、使っていいよ。
 笑いを含んだヒロの声が耳の穴からコウジの中に侵入して、ぐちゃぐちゃに傷つけかき乱しながら頭の中を走りまわった。羞恥と憤りで、かっと頬が火照るのを感じた。
 嫌いだ。
 ヒロのことが、心底 いとわしいと思った。
 卑屈で媚びるふうでいて、自身を人質にコウジをコントロールしようとする厚かましさも。人の話を聞かないくせに、何もかも知っている様な顔で傷ついた表情をするところも。コウジとの友情を、世間に晒して売り物みたいに扱うところも、コウジと同じかたちの愛を渡してくれなかったところも。ひどい振る舞いをするくせに、なぜかこちらの罪悪感をあおる整った顔も、全てを見透かし赦すような傲慢な声も、心を乱す髪の匂いも、速水ヒロを構成する、何もかもが。
 コウジの唇に触れようとゆっくり近づいてきた顔を強く睨みつける。コウジの嫌悪のバリアに堰き止められるよつに、ヒロが動きを止めた。
 ため息をついて、目の前の肩が下がる。
……悪かった。もうしつこくしないから」
 目を逸らしたヒロの声を聞いたそのとき、コウジがヒロに「好きだよ」と言ってやる度に剥がれていったものの最後の一片が、べちゃっと地に落ちるのがわかった。
 立ち上がったコウジの左手がヒロの襟首を掴んで乱暴に引き起こす。右手を亜麻色の髪の下に差し込んで後頭部をわしづかむ。怒りにまかせて、目の前の唇に自身の唇を押しつけた。唇に覆われた歯が硬くて痛い。逃れようとする唇を追いかけて封じる。
「ちょ、コウ、んーっ」
 ヒロは口の中で何かもごもごと文句らしいものを言っていたが、意地になってますます強く頭を引き寄せた。しばらくすると諦めたのか静かになったので、口を解放してやる。目を白黒させているヒロの顔を見て、それでも気が収まらなくて、頭を軽くはたく。薄茶色の髪がさらに乱れる。
 息を、大きく吸う。沸き上がる憤怒で鼻の付け根が灼けるように熱く、吸った空気が通るとつんと痛んだ。そのせいだろう。コウジの叫びはほとんど涙声だった。
「大好きだよ! 当たり前だろ!!」



 乱暴に突き放すと、ヒロは不様 ぶざまに尻餅をついた。いつも隙なく整えられている髪も服も、ぐちゃぐちゃだった。
 そのとき、コウジは自身から剥がれ落ちていったものの正体が分かった。 ほうだ。コウジの苞。コウジの中心を覆い隠していたもの。
 ヒロを床から起こしてやって、乱れた髪を手櫛で整えてやる。
 髪の隙間に覗くヒロの耳は、血の色を透かしていた。
 その朱を見て、コウジは数年前から育ててきた鬱憤を、ようやく、ほんの少しだけ晴らすことができたのだった。













(了)