その日はこの町にしては珍しく、吹雪のない穏やかな雪空だった。静寂の中しんしんと足元に積もる雪は、毎日会う内に募らせてしまった少年への慕情と重なる。
今日は天気がいいから、と少年に誘われて高台へ来ていた。町を一望できるこの場所は変わらず一面の銀世界で。視界が晴れている分、普段と比べてより一層その広大さを我々にひけらかしていた。
隣にいる少年は眼下に広がる白銀の果てを見つめながら規則的に白い息を吐いている。地面に屈み腿と腹の間に手を挟んで、風が吹く度体を縮こませている少年の様子を見ていると、そうまでしてこの景色を見たがる理由を問いたくなる。腰を降ろして少年と目線を合わせてみても、見飽きた白がそこにあるだけで彼が何を考えているのかなど分かりそうにもなかった。
近頃の私は少年の行動や思考を知りたいという感情が自然に浮かび上がってしまうほど彼に興味を抱いてしまっているようで、そんな自分に気づきながらもその思考を止められないでいた。
そして興味と同時に湧き上がる、彼に触れたいという衝動が毎日少しずつ私のどこかを狂わせていた。
私の隣でただ前を見つめている少年は、春を思わせる桃色の毛先に雪の結晶を纏わせているが振り払おうとする様子もなくじっと佇んでいる。その色は雪解けの季節を待つあえかな春の花を思わせた。寒さに震えるその花を壊さないように指先でそっと雪を払ってやると、こちらに視線を向けた少年は「ありがとう」とライラック色の目を細めた。そしてその下で弧を描く唇に、私の視線は無意識に吸い寄せられる。
彼と時間を共にするなかで、私は幾度となくこの控えめな唇に触れてみたいと思うようになった。今は寒さのせいで薄い色をしているが、暖かな場所で健康的に色づく少年の唇は白い肌に際立って色香を纏う。「ハーデイ」と名前を呼ぶ唇が柔らかな響きを奏でて綻ぶ度、その感触を想像してしまう。
無彩色の銀世界そっちのけで横顔を見つめていると、不意に少年が私へと顔を向けた。
目と目が合い、邪な視線に気づかれたかと内心ヒヤリとする私に気づく様子もなく、少年は口を開いた。
「ハーデイは寒いの苦手?」
何を言われるのかと身構えたが切り出されたのはただの世間話で、ほっと胸を撫で下ろす。少年に邪な感情を抱いていることに気づかれ距離をとられるのは、死神としての責務を果たすという点でも個人的な感情としても避けたいところだった。
「寒さか。もう慣れてしまったから苦手という程ではないが、得意という訳でもないな。寒い時は寒い」
「そうなのか」
寒いと言葉にしてしまったばっかりに、体が思い出したようにぶるりと震える。比較的穏やかな天気とはいえ、冷えきった冬の空気は触れる肌をピリピリと容赦なく刺していく。寒さを振り払おうと目を閉じたほんのひととき、その一瞬の隙を狙ったかのように顔を近づけてきた少年の動きに、視界を閉じていた私は気づけなかった。
細かく震えていた唇に湿ったぬくもりが訪れて、反射的に目を開く。見慣れたはずのライラック色が見慣れぬ至近距離で視界に映し出される。すぐ目の前にあるのが少年の顔で、唇に触れるぬくもりが彼の唇であると気づいた時には、その柔らかな感触は既に離れた後だった。
今が夢か現か混乱した脳が懸命に状況を処理をする間、呼吸も瞬きも忘れて呆然とすることしかできない。少年を映した視界がダイヤモンドダストのようにちかちか光る。
「っふふ、ハーデイのそんな顔初めて見た」
きっと間抜けな顔をしているだろう私を見て、少年はくすくすと楽しそうに笑う。
「どうして……」
零れ落ちた言葉は自分でも驚くほどか細くて頼りなかった。思わずキスの理由を問うてしまったが、訊いてどうするというのか。私はどんな答えを求めているのだろう。
私の疑問を聞いた少年は小さく首を傾げた。
「町のみんなは仲の良い人といつもしてるよ。そういうものじゃないの」
常識だと言わんばかりにさらりと告げる少年に絶句して思わず頭を抱えそうになった。彼は挨拶と同じように特別な感情なくこんな風に人に触れてしまえるのか。自分の胸に落胆の影が落ちたのを感じ、どこか期待していた自分に気づいてしまって恥ずかしい。
「それに……」
「それに?」
少年の言動ひとつひとつに情けないほど動揺している自分がいる。彼が更に何を伝えようとしているのか、唇から目が離せない。
「ハーデイが寒そうにしてたから。人を温めるなら人肌が一番っていうだろ?」
少年の手が甲に触れる。少年の懐で寒さから守られていたその手は、氷のように冷えていた私の手に穏やかな温もりを与える。熱を揉み込むようにぎゅうぎゅうと手を握られ、温もりにほどけそうな心は穏やかなだけではいられなかった。
彼は寒そうにしている人がいれば誰にだって分け隔てなくキスをして寄り添い、自身の体温を明け渡すのだろうか。想像しただけで胸が詰まって息苦しくなる。私の吐いた深い深い溜め息が、恨めしいほどに澄んだ冬の空に向かって白く伸びていく。
「少年。誰彼構わずこんなことをするのはやめた方がいい」
「え、しないよ。ハーデイだけ」
「……は?」
自分の耳を疑った。彼の中の常識をどう正そうかと考えていた思考は瞬く間に霧散して、彼の言葉だけが頭の中で乱反射する。
「ハーデイにしかしないよ」
無垢な唇で止めを刺すように告げられた言葉に、退路を断たれた心地になった。もう一度言われるまでは私の都合のいい聞き間違いだったのだと、なかったことにしてこれからも素知らぬ顔で過ごせたかもしれないのに。引き返せなくなってしまう。
特別だよと言われた気がして、その特別が彼の中でどれだけの比重であるかも分からないままに、それでも愛しさが溢れ出して止められなかった。理性が押し流されて、衝動が突き動かすままに少年へ手を伸ばした。
「少年」
「なに?」
少年に絆されて顔を出した欲望が、寒さを和らげようとしてくれた彼の優しさにつけこもうとしている。
「もう一度、しないか」
少年はぱちくりと大きな目で瞬く。何のことだろうと言いたげな表情に、「まだ、寒いから」と補足しながら薄桃の唇を親指で撫でると、合点のいった顔で頷く。
「いいよ」
ためらいもなく答えて目を閉じた少年は小さく弧を描いた唇を差し出す。そのあまりの無防備さに呆気にとられる。自分の欲望がすんなりと叶っていく様に、諸手を挙げて飛びつけるほど素直ではなかったが、眼前の魅惑的な唇を見逃せるはずなどなかった。理性はとうに決壊している。
頬に添えた指の冷たさに少年の瞼がぴくりと震え、唇の隙間から白い吐息が薄くこぼれる。その吐息すら逃すまいと、覆い被さるように少年の唇を包んだ。改めて味わう唇の感触に全身の肌が歓喜に粟立つ。柔く食むように唇を擦り合わせていると次第にふたつの唇が同じ温度へと変わっていく。
共に未来を迎えることを許されない私たちが、こうして同じ熱、同じ呼吸を共有しているこの瞬間が悲しいほどに愛しい。
酸素の限界を訴える少年の手のひらが私の手に重なる頃には、寒さを和らげるという当初の目的も寒さすらも忘れ、唇が滲ませる熱に夢中になっていた。
後ろ髪を引かれながらも唇を解放すると、深く息を吸った少年の桜唇からころころと笑い声がこぼれる。
「っふ、あはは。あついね、ハーデイ」
花開くようにほんのりと赤く染まった少年の頬に、一粒の雪が舞い降りて淡く輪郭を溶かしていった。
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