俺の生まれ育った町では決して晴れることのない雪が降り続いていた。永遠に和らぐことのない寒さは植物も動物ももちろん人も、この地のすべての心と体を痩せ細らせていく。常に食糧難と隣り合わせのギリギリの生活に嫌気がさして町を出ていく人が後を断たない。この町に残って暮らしている人達の表情も町を覆う空みたいに曇ってる。暮らしづらくて寂しいところかもしれないけれど、生まれ育った町だから愛着はある。このまま町がなくなってしまうのは嫌だった。みんな雪解けを待っている。春が訪れるのを願っている。俺だってその内の一人だった。だから、この教会を訪れた。
町の外れに建つ大きな教会。周りにほとんど建物がないからより一層その存在感が引き立っている。立派な教会に見えるのに訪れる人はほとんどいない。町の人たちはここに近づきたがらないし、話すらしたがらない。重く暗い灰色の景色にそびえ立つそれは不気味に思えなくもない。それでも俺はここに、神さまに縋るしかなかった。
俺は深く息を吸って、大きくて重たい扉を開いた。
「こんにちは、誰かいますか?」
俺の声がだだっ広い室内の壁に吸い込まれる。体を半分覗かせて辺りを見回すけれど、人の気配は感じない。中へ足を踏み入れると、風のない室内は外よりもずっと暖かかった。俺を祭壇へと誘うように壁に真っ直ぐ並べられた燭台に灯された火がここの温度を保っているのかもしれない。
カーペットの上を進むと自分の足音が壁に反響してやけに大きく聞こえる。本当に誰もいないみたいだ。お祈りだけだから誰もいなくても問題はないけれど、この広い空間に一人だけというのも落ち着かなくて、足を動かしながらきょろきょろを視線を動かしてしまう。
進むうちに足元に綺麗な光が差し込み、足を止めて見上げた。視線の先には壁にはめられた大きなステンドグラスがあった。青を基調にした色とりどりのガラスは、外から差し込むかすかな光を集めて教会の床に美しい光の模様を描いていた。
日常とかけ離れた神聖な景色に、ここなら神さまに届くような実感があって、俺は指を組んで目を瞑った。永遠の雪の終わりを、春の訪れ与えてくれるように神さまに祈った。
「……おや、珍しい」
突然頭上から声が降ってきて反射的に身を固くした。指をほどいてゆっくりと見上げると黒装束を纏った長身の男が立っていた。
全く気配がしなかった。近づいてくる足音さえ聞こえなくて、まるで瞬間移動したかのように一瞬でそこに現れたみたいだった。人の気配に気づけないほど祈りに集中していたのだろうか。
白い肌の端正な顔立ちに添えられて目立つ真っ赤な瞳はステンドグラスとはまた違う美しい光を放っていて、吸い込まれるように見つめてしまう。夜の雪のように静かな佇まいの割にっきりとした存在感は、どこか別の世界の人のようだ。
俺にこの教会の成り立ちを教えてくれる心地いいテノールは滑らかに耳の奥に入ってくる。不思議な人だと思った。今まで出会った人とは違う、奇妙な雰囲気を纏っていた。
これが、俺とハーデイの出会い。
俺の『永遠』の始まり。
俺は自分の宣言通りに毎日教会に通った。毎日続けることが信仰のしるしだと、祈りの強度を担保してくれると信じていたから。
それに、ハーデイは毎日俺を出迎えてくれた。変わらずそこにいて迎えてくれる人がいるという事実は教会へ向かう俺の足取りを軽くした。
そんなある日、祈りを終えて顔を上げた俺は礼拝堂の隅っこにある扉に気づいた。この広い礼拝堂にはさらに奥があるらしい。
「この先には何かあるんだ?」
「案内しようか」
「入っていいのか」
「もちろん、立入禁止のエリアもあるが、大抵はここを訪れた人が自由に出入りできるようになっている」
言いながらハーデイは扉を開いていく。覗き込むと扉の先には長い廊下が伸びていて、片側は窓が並び、もう片方には壁に沿っていくつか扉が並んでいる。
「この教会、こんなに広かったんだな」
開け放たれた先の初めて見る場所に世界が広がるような心地がして、未開の地を切り拓く冒険者にでもなったかようなわくわくとした高揚感が沸き上がる。きょろきょろと興味深く周りを見回していると、くすりと笑い声が降ってきて俺は動きを止めて振り返った。
「はしゃぎすぎだ」
「ご、ごめん」
落ち着きなく舞い上がっていたのを自覚して急激に恥ずかしさが込み上げる。
「いや、気にしなくていい。そんなに喜んでくれるとは思わなかった」
「う、馬鹿にしてるだろ」
口角が上がったままのハーデイをキッと睨み付けるが効いていないようで、ハーデイは優しい目線を寄越してくる。からかっているようには見えなかった。
「してないさ。案内し甲斐がある」
「っ、もういいから早く案内してくれ」
ハーデイから注がれる温い視線に背筋がむず痒くなって逃げるように一歩進んだ。顔が熱くてしかたない。
「まずはここからかな」
俺の横を通りすぎたハーデイが一番手前の扉に手をかける。開いた扉の隙間からこぼれる微かな明かりが与える好奇心に手を引かれるように光の方へ爪先を進めた。
最後に案内してくれたのは書庫だった。見て回った部屋の中で一際大きいそこにはところ狭しと壁のような本棚が立ち並んでいて、うっかり足を踏み入れたら迷ってしまいそうだ。部屋の中央にはテーブルと一対のソファーが置かれていて、そこでじっくりと本が読めるようになっているらしい。
「ここの本全部読んだのか?」
「全部とまではいかないが大半には目を通したと思う」
「そうなんだ。すごいや」
「ここに来てしばらく経つからな」
「どれくらい?」
「さぁ、忘れてしまったな」
それにしたってこれだけの量の本、数年やそこらで読み切れるとは思えない。見た目からそれほど大きく変わらないと思っていたハーデイの年齢が気になって訊ねると「君が想像しているよりずっと長く生きてるよ」なんて言ってはぐらかして、視線を遠くに向けた。
好きな本を探しておいで、と背中を押されて話を逸らされる。あまり触れたくない話題だったのかもしれない。
俺はハーデイが提案するままに本棚の前に立ち、たまたま正面にあった本を手に取った。ずしりと重たくて、落とさないように両手で支えるようにして抜き出す。分厚い表紙に覆われた本は古いものなのかところどころの文字が擦りきれて薄くなっている。本のページを開くと埃っぽい匂いが鼻を刺した。これが古い紙の匂いなのかもしれないけれど、本に馴染みのない俺にとっては知りようもないことだった。
ページを開くまでもなく分かっていたことだけれど、俺と本の間には大きな問題があった。
「……読めない」
ページにびっしりと並んだ文字。その中のたったひとつすら俺には何を表しているのかさっぱり分からなかった。ずっと見つめていると線がぐにゃぐにゃと形を変えて目が回りそうになる。
「なんて書いてあるのかさっぱりだ」
「そうか、君にはこの文字が……」
ぱたんと本を閉じて表紙の文字をなぞる。手の中にあるこれがどんな内容の本なのかすら俺には見当すらつかない。
目の前の棚に収められているものだけでなく、ぐるりと見渡して見える範囲全部が同じ雰囲気の本のようだから、きっとこの部屋にある本で俺に読めるものはないんだろう。
「せっかく案内してくれたのに悪いな」
「いや。……少し待っていてくれ」
少しの間顎に手を当てて、考えるような素振りをしたハーデイはつかつかと迷いなく部屋の奥の方へと歩いていった。その先でカタカタと棚の中で本が動く音がいくらかしたと思えば、数冊本を手にしたハーデイが戻ってきて、俺の傍にあるテーブルに並べて置いた。そのどれもがさっきの分厚い本とは違う平べったくて大きな本だった。表紙に書かれた文字は変わらず読めないものだったけれど、その下には絵が描かれていて、それが表紙のほとんどの面積を占めていた。
「これは?」
「絵本と呼ばれるものだ。文字よりも絵に比重が置かれているから、文字が分からなくとも絵だけで物語がなぞれるようになっている。これなら君にも読めるんじゃないか?」
並んでいるうちのひとつを手に取ってぱらぱらとページをめくる。ハーデイの言う通り、数行の文字に対してページのほとんどが絵で埋め尽くされている。風景だけでなく登場人物の表情も大きくはっきりと描かれていて、文字が読めなくても大体何が起こっているのかが理解できる。けれど。
「俺はあんたに読んでほしい。これがどんな話かちゃんと知りたいんだ」
ハーデイは俺の言葉に考え込む素振りをした。困っているようにも見える。
「嫌なら無理にとは言わないけど」
「いや、構わない。読んであげるよ」
「えっ、本当?」
返事の代わりにハーデイは俺に笑いかけて自分の隣の席をトンと叩いた。飛び込むように隣に腰かけると、ハーデイは本の表紙を開いてそこに書かれたタイトルを読み上げた。
物語が始まる期待感で大きく息を吸った後みたいに体の真ん中が膨らむ。ひとつも取りこぼさないように目と耳を大きく開いて次に訪れる光景を待った。
細い指先が紙を撫でて、絵本のページが捲られる。
「はるか昔の話だ。とあるところに──」
ハーデイの声が物語を紡ぐ。唇からこぼれるテノールは全てを包みこむ夜のような心地よさがあった。俺は身を委ねるようにその声に耳を傾けた。
「──こうしてこの国に永遠の平和が訪れましたとさ。おしまい」
ハーデイの声で物語に幕が降りる。最後のページは見開きいっぱいに広がる鮮やかな世界で大勢の人々が微笑んでいる。
「永遠、か……」
胸に広がる満足感に浸っている俺とは対照的にハーデイの赤い瞳は睫毛の影が落ち、どこか憂いを帯びていた。
「君は永遠とはなんだと思う?」
「永遠って、ずっと続くって意味だろ?」
「それはそうなんだが……」
俺の答えにハーデイは苦笑を返した。どうやら望んでいた答えじゃなかったらしい。
ハーデイはそれきり黙って、開いたままの最後のページに書かれた文字をなぞっている。繊細な指先は同じ文字を何度も往復していて、指先でかき混ぜられるその言葉がハーデイの頭の中を支配しているようだった。
「それが『永遠』?」
「え?」
顔を上げたハーデイは何を言われているのか分からない様子で俺を見つめたまま固まるから、俺はハーデイの指の下に隠れた文字を指し示す。お互いの爪の先がぶつかった。
「この文字が永遠って意味なのか?」
「……ああ、そうだな。ここからここまでが永遠を意味する単語だ」
紙の上を滑るハーデイの指先をじっと目で追った。
「ハーデイにとって永遠って何?」
聞くと、紙の上の指がぴたっと止まる。
「さあ。なんだろうな」
顔を上げると、ハーデイはどこか遠くを見つめていた。途方のなく続く道のずっと先を眺めているようだった。
「こんなにたくさん本を読んだハーデイでも知らないことがあるんだ」
「長く生きていてもたくさんの書を紐解いても分からないことはまだまだある」
「その口ぶり、本当に年寄りみたいだ」
やけに年寄りくさい言動をからかって笑い飛ばしたのに、ハーデイは特に反論するでもなく、ただ口角をあげた。その瞳は凪のように落ち着いていて奥にある感情が見えない。予想していたのと違う反応が返ってきたことに戸惑って、口を閉ざす。ぽっかりと開いた沈黙に、触れちゃいけないことに触れてしまったようなバツの悪い気持ちになって視線を落とす。
「永遠とは、なんだろう」
本に落ちた声は掠れていて、息が詰まった。囚われている横顔を見ていると胸がぎゅっと苦しくなる。
「その本の中にあんたが求めてる答えがないことくらい俺でも分かるよ」
本に置かれた手に指を添えるとハーデイの赤い瞳が大きく開かれる。
「だから、俯くくらいなら話そうよ。俺はあんたとこうして話す時間が楽しいんだ。ずっと続いてほしいと思うくらいに」
「俺はハーデイのことをもっと知りたい。話してよ。それで時々こうやって本を読んでくれよ」
「それって、私ばかり話していないか?」
「バレたか」
にやりと笑ってみせると、くく、とハーデイが喉を鳴らした。つられて俺も笑い声をこぼす。心臓がとくとくと穏やかな音で暖かな血液を全身に運んでいく。
こうやって安らかな時間をハーデイと重ねていけたらいい。永遠の冬を終わらせるためにここを訪れたけれど、ここから始まる永遠だってあってもいいはずだ。
ある日、教会に行くとハーデイの姿はそこになかった。いつもなら入ってすぐの礼拝堂にいるか、奥の廊下をぐるりと一周する間に出会えるはずなのに、今日はどこにもいなかった。
仕方なく俺は書庫に入って時間を潰すことにした。ハーデイが見繕ってくれた絵本たちを抱えて読書スペースのテーブルに広げる。この中の何冊かは読んでもらって内容は理解していた。しかし、相変わらず文字の読解はからっきしで、まだそれをなぞるだけではほとんど言葉の意味を汲み取ることはできない。
今日は読んだことのない絵本のページをひとつずつめくっていく。ハーデイに内容を教えてもらう前に、イラストだけを見て書かれている物語を想像するのも楽しかった。静かな部屋に紙の擦れる音だけが響く。
本の中には春も夏も秋も冬も、喜びも哀しみも幸せも、俺の世界にあるものもないものも全部があった。
そして、ハーデイから渡された絵本はどれも最後のページは色鮮やかで楽しげなイラストが描かれている。そしてその傍らにはいつも『永遠』の文字があった。きっとこの本のどれもが末永く続くハッピーエンドを迎えているのだろう。せっかく困難を乗り越えるのだから、終わりは優しくて暖かいハッピーエンドがいい。本を開いて物語を追う度にそう思いながら、白い雪が溶けた後の鮮やかな春の景色を夢物語のように思い浮かべていた。
ハーデイの真似をして紙の上の『永遠』を指でなぞっていると、不意に扉の軋む音が耳に入った。目を向けると見知った黒装束の切れ端が見えた。ハーデイだ、と勢いよく立ち上がった俺の前に現れたのはハーデイと同じ黒髪の、けれど違う男の人だった。ハーデイよりも短くさらさらと流れる髪を揺らしながら、本棚を物色しながらその間を縫うようにこちらへやって来る。
「こんにちは」
声をかけると驚きに開いた眼と視線が合う。その赤色はやっぱりハーデイとよく似ていると思った。
「こんなところに人なんて珍しい。祈りを捧げるなら向こうだよ」
夜を謳うような儚げで柔らかな声が礼拝堂を示す。
「お祈りは終わったんだ。今はハーデイを待ってる」
「ハーデイ……あぁ、あいつなら今出てるよ。そろそろ帰ってくるんじゃない」
「じゃあ、このまま待たせてもらおうかな」
男は俺の言葉に特に返答をするでもなく黙って対角線の椅子に腰かけた。何も言わないということはここにいてもいいということだろう。
「あんたも神父さんの代わりに派遣された人なのか?」
この教会でハーデイ以外の人に出会うのは初めてで、つい気になって声をかける。すると男は話しかけられるとは思っていなかったのか、驚いた顔を俺を向けた後、眉間に皺を寄せて重いため息をついた。
「……ああ、そうだよ。そういうことになってる。あんたはどうしてここに来ているの」
面倒くさそうな態度を見せた割に会話は続けてくれるようだ。悪い人ではないように思えた。
「俺はこの町に春をもたらしてほしくてお祈りに来てるんだ」
「ふぅん。あいつとはどういう関係なの?」
「あいつ……、ハーデイのこと?」
「そうそう」
「ハーデイは友達だよ。俺の知らないことをたくさん知っていて話していると楽しいんだ」
「友達、ねぇ……」
男は一瞬眉をひそめたけれど、すぐに表情を切り替えてくつくつと肩を揺らした。
「ねぇ、人の友情は永遠だと思う?」
男の赤い瞳がギラリと重たい輝きを灯したように見えた。テーブルに肘をつき、首を傾げて問いかける男が纏う空気は変わらず敵意のない穏やかさを感じるのに、じっと心の奥底を睨み付けられているようだった。どこか試されているような心地がして、答える前に一度唾を飲んだ。
「俺は、そう思うよ。お互いがそう望む限り友達でいられるって」
「そう……」
答えると、男は口角を上げてゆっくりと目を伏せた。目蓋の裏に隠れていく赤色は安堵したようにも、寂しげなようにも見えた。「何かあったの」と声をかけようとした時、部屋の中に風が流れるのを感じた。
「何をしている」
冷たい声を浴びた背筋がゾッと凍った。たった一言で室内の空気までも一気に凍って、温度がぐっと下がった気がした。
「……帰ってたんだ」
男は肩を竦めて声の主を見遣った。その視線を追って振り返ると険しい顔をしたハーデイが部屋の入り口に立っていた。
「何をしていたのかと訊いている」
俺をかばうみたいに俺と男の間に立ち塞がったハーデイから先程と同じ冷たい声が発せられて、改めてびっくりした。聞き慣れたハーデイの声とは全く違ったから。
「何にも。ただ世間話をしていただけ。ねぇ、そうだよね?」
「え、あぁ……うん」
ハーデイの陰から顔を覗かせた男から同意を求められて反射的に頷く。ハーデイの放つ威圧感に気を取られて話をほとんど聞いていなかった。嘘はついていないはずなのにどこか後ろめたい気持ちになる。
「本当に? 何もされていないのか?」
ハーデイが男から俺へと視線を移す。俺に向けられる視線と声音はいつもと同じように柔らかくて、ほっと息を吐く。同時に無意識の内に張り詰めていた肩の力を抜いた。
「うん。話、してただけ」
もう一度頷くとハーデイが纏うピリピリとした空気が和らいだ。
「そんなに気にかかるなら目を離さなければいいのに」
ため息混じりにそう言った男はいつの間にか扉の近くに移動していた。ハーデイは何か言いたげに口を開いたけれど、男はさっさと部屋を出て影へと溶けるように姿を消した。
「友達じゃないのか?」
「そういうのじゃない。ただの仕事仲間だ」
男が去った後も扉を睨みつけるハーデイに問いかけるとそっけなくそう返ってきた。
「ハーデイと俺はこれからも、春が来てもずっと友達だよね?」
「……!」
男との会話の名残に引きずられてこぼした言葉にハーデイの表情が強張った。見上げたハーデイの赤い瞳が揺らぐのに合わせて俺の心臓も不安に揺れる。もしかして違ったんだろうか。
俺を見て悲しげに目を伏せたハーデイの真意は分からないけれど、ハーデイを困らせてしまったことは空気を吸い込む肌を通して伝わる。確かに突然訊かれても困るよな。言わなきゃよかった。
「……もちろんだよ、少年」
硬い表情のままのハーデイがそう答えてくれた後も俺たちの間にはぎこちない沈黙が横たわっていた。心臓が毛羽立って息苦しい。喉の奥に詰まった空気の出口を求めて俺は言葉を探した。
「……さっきまでハーデイはどこに行ってきたんだ?」
「町の見回りだよ」
「そっか……。なぁ、今度それについていってもいい?」
「あぁ、構わないが」
「よかった。美味しい店を知ってるんだ。ハーデイに紹介したいな」
「それは楽しみだな」
ふ、とこぼれた息に、俺たちの間で張り詰めていた糸が緩んだのを感じた。ハーデイの表情がいつも通りの穏やかさを取り戻したのを見て俺もやっと息を吐き出した。
明日は町へ行こう、とハーデイが誘ってきたのはそれからいくらか経っての頃だった。
町へ行く前に寄りたいところがあるからとハーデイが指定した集合時間は夜明けに等しい時間だった。そんな時間に何をするのかと訊いたけど、当日になってからのお楽しみだと言われた。
まだ暗い中から町外れの教会まで足を運ぶことに躊躇いがないわけではなかった。けれど、ハーデイから何かを提案することはほとんど初めてのことだったから、それが嬉しくてハーデイの誘いを受けた。それに早起きは苦手じゃなかった。
その日は予定よりも少し早く目が覚めた。楽しみで気持ちが昂っていたのかもしれない。浅い眠りの表層を漂っていたような気がする。目の裏に残る微睡みを外へ追い出すようにベッドの上で大きく伸びをした。窓の外はまだ暗く、闇の中で地面に積もった雪が白灰色に薄ぼんやりと浮かんでいた。
支度を終えて外に出た瞬間、鋭い冷たさが全身を刺して体が震え上がる。わずかに残っていた眠気もすっかりと消し飛ばされた。寒さが深いからかそれとも暗がりの中だからか、吐く息の白さがいつもよりも濃く重たそうに見える。
空はまだ眠っているのか雪は降っていなかった。世界は微睡みの中にあり空気は気怠い重さを纏っていたけど、視界が開けていた分、いつもより早く教会まで着いた。天に向かって伸びる教会の屋根が見えて、歩く速度が早まる。
「ハーデイ、おはよう」
待ち合わせ場所である門の前に人影を見つけて、思わず駆け出していた。ハーデイのもとにたどり着く頃には少し息が上がってしまった。
「おはよう、少年。朝から元気だな」
俺を見て微笑むハーデイに、自分がまた無意識にはしゃいでいたことを自覚して体の内から熱が込み上がってくる。ハーデイといると心が擽られて、自分も知らない心の扉を開かれていくみたいで、顔を見るのが照れくさかった。
「今日は少し歩くから、途中でバテないようにな」
そう言ってハーデイは歩き出した。その背中についていく。夜も明けきらない暗闇の中を二人で進んでいくのは奇妙な感覚だった。世界の目を盗んで逢瀬を重ねているのような、甘美な秘めやかさが心臓の裏側を擽って、それは確かな高揚感を帯びていた。
俺たちの進む道は次第に鬱蒼とした木々に覆われはじめた。針葉樹林が道に沿って立ち並び、その奥はところ狭しと木々に埋め尽くされ、遠くになればなるほど深い闇が口を開けている。辛うじて舗装されているこの道を外れてしまえば遭難は免れないだろう。空を見上げても、雪を被った深緑の尖った先端がずっと高く積み上がって、遥か頭上で夜空の黒に溶けている。闇に囲われていることに気づくと、ぞっと背筋に寒気が走った。
更に暗さを増した景色に引きずられてまたひとつ空気が重たくなったような感覚をおぼえる。曲がりくねったなだらかな坂道をハーデイと二人歩いて、後ろを追う俺だけ息が上がっている。出口は見えなくても、ハーデイと一緒なら怖くなかった。
「もう着くよ」
ハーデイの声で目覚めたかのように目の前に光が射した。金色の光だった。
開けた視界には空が広がっていた。珍しく晴れている。金色は明け空の色だった。
空が近い。山道の中を随分と登ってきたのだ。
もう少し奥へ進むとしばらく真っ白な地面が続いたあと、その先の道がぷつりと途切れて、崖になっている。その向こうに、雪に沈む町が見えた。
俺はその冷たくて寂しい景色を知っていた。俺が生まれて今まで生きてきた町だ。一面の銀世界は綺麗な景色だと言えなくもないけれど、この景色から抜け出したいと願っている俺にとっては無情な現実を突き付けられているだけにしか受け取らない。風がなく無音であることも侘しさを加速させる。みぞおちの辺りにむかむかとしたものが溜まっていくのを感じて、唇を噛んだ。
「わざわざこんなところにまで登って町を見下ろして、あんたは何がしたいんだ」
「見てほしいのはそっちじゃない。少年、顔を上げて」
優しい声に呼ばれて、言われるがまま顔を上げた俺は言葉を失った。
世界に光の雨が降り注いでいる。雪じゃない。金色の空にキラキラと無数の光の粒が浮かんでいる。
無音の浮世離れした景色にこの世界に自分以外が存在が消えてしまったんじゃないかと、動けなくなる。振り向いてハーデイの姿がどこにもなかったらどうしよう。この景色に拐われてしまっていたらどうしよう。
神々しいほどの静けさに襲われて足の底から這い上がってくる心細さに、手探りで自分以外のぬくもりを求めた。腕を振り回すまでもない距離にあった指先を握る。ああ、良かった。一人じゃない。振り向いて、黄金に照らされるハーデイの黒いシルエットを確認して、ようやく胸を撫で下ろした。
「すごく、綺麗だ」
感嘆の息を吐いた瞬間、それが魔法のようにキラキラと輝き出して俺はまた驚いた。いつもは煙のように立ち上って消えていくだけの吐息が、今は空気を舞う宝石と同様の輝きを放っている。
息を吸って肺にツンとした冷たさを感じれば感じるほど、次に吐く息が強い煌めきを生む。息をすることがこんなに楽しいことだなんて初めて知った。
呼吸の喜びを知ったのもつかの間、空からはらはらと雪がちらつき始める。今日もまた雪が目を覚ましてしまったらしい。光の粒が輝きを失って見慣れた白い靄に変わっていく。
「ちょうどよかった」
美しい光景との別れを惜しむ俺の隣で呟かれた言葉にむっと恨めしい視線を向けたが、それには気づかないハーデイは俺が握りしめている指先を視線の高さまで持ち上げた。
「ほら、見てごらん。ここにある花が見えるか?」
「花?」
耳に入った単語に心を浮き立たせて辺りを見回すが、それらしきものはどこにも見当たらない。ハーデイの手の中にもその先にも、自分の足元にも、雪がもたらす真白しかない。俺が知っている景色と何も変わらない。花のような愛らしい彩りはどこにもないじゃないか。
「ここだ」
苛立ちを募らせながらもそれでも諦めきれず、きょろきょろと宛てなく視線を彷徨わせる俺にくすりと笑みをこぼしたハーデイが指で示したのは俺の袖口だった。
舞い落ちた雪の粒が触れて溶けるだけの、いつもと変わらない布切れ。
「何もないけど」
「舞い降りた雪をじっくりと見てみるといい」
「えぇ……ハーデイってば俺をからかってる?」
今さら雪をじっくりと見たところで何も変わらないよ。そう口にしようとした時。
「あ」
袖に降りた雪が溶ける直前、それが繊細な模様をしていることに気づいた。気づいた直後に形を失くしてしまったそれが、どんな形をしているのかちゃんと確かめたくて、空を見上げる。空から落ちてくる雪を行く先を注意深く目で追って、ハーデイの肩口に落ちた粒を覗き込むように顔を寄せた。鼻先にハーデイの腕が触れそうになる。
「……花、だ」
目を凝らして見つめた雪は均等に六つに枝分かれした整った形をしていた。ちょうど、開いた花を上から眺めたような。
降ってくる粒のどれもが同じように花開いた結晶の形をしていた。毎日辟易としながら眺めていた、いや、身近にありすぎて詳しく観察しようとも思っていなかった雪がこんなにも綺麗な形をしていたなんて。
色のない花。けれどこんなにも美しい。
凄まじい勢いで膨らんでいく驚きと感動に胸が詰まって言葉も発せないまま、ハーデイを見上げると、目を細めて頷く。それもまたこの上なく嬉しかった。言葉にできない俺の気持ちすら汲み取って受け止めてくれる。ハーデイは心の暖め方を知っているみたいだ。雪を溶かして春を呼び覚ます日だまりのように、どんな風に触れれば俺の心が花開くように綻ぶのか、全部分かっているみたいだ。
明日も明後日もずっと先の未来でもいつだって思い出せるように、ハーデイと見た光の粒を、雪の結晶を、小瓶に閉じ込めて部屋に飾っておけたらどんなにいいだろう。思い出は雪のように溶けてなくなりはしないけれど、いつまでも色鮮やかに残ってはくれないから。
この空が光輝いて眩しかったこと、吸い込んだ空気がとっても冷たかったこと、握った手は大きくて細かったこと、それが同じ温度だったこと。
今この体を巡っている愛おしさの全てがこのままの形で胸の奥を灯し続けてくれるように、目を閉じて思い出の輪郭を何度もなぞった。
俺の世界の形を変えてくれたハーデイも、同じ気持ちだったら嬉しい。繋いだ手の縁を親指でなぞると、優しく握り返してくれた。隙間が埋まった肌の温度に心臓の奥がきゅうと鳴いた。
お祈りを終え、ハーデイを探して廊下を歩き回っていると曲がり角の先で見慣れた黒装束が目に入った。思わず歩く速度を上げて曲がり角に差し掛かった俺はそこで急ブレーキをかけた。
角の先にいたのはハーデイだけじゃなかった。隣に長い銀髪の男がいる。初めて見る顔だった。同じ服を着ているからおそらくハーデイの仕事仲間の一人なんだろう。
二人で窓辺にもたれて何かを話している。ここからじゃ距離が遠くて何を話しているか分からない。けれど、真剣な様子で語らうハーデイの顔は俺の見たことのない表情で。時々考えるような仕草をするものの、会話は途切れることなく続いている。
ハーデイと対等に話すことが出来ている銀髪の人が羨ましいと思った。
俺はハーデイの話す言葉が時々難しくてよく彼を困らせてしまうから。俺が知らない言葉に首を傾げる度にハーデイはその都度言葉の意味を教えてくれる。その度に話の流れが途切れて、ハーデイとっては会話しづらいんだろうと思う。今みたいにスムーズに会話が進む方がハーデイにとってストレスが少ないに違いない。
この間出会った男の時と違って今のハーデイから鋭い剣幕を感じない。むしろ、楽しげに話をしているようにも見えた。
多分、銀髪の人はハーデイと対等の存在、ハーデイのともだち。
俺にとってハーデイはほとんど唯一の友達だけど、ハーデイにとって俺は複数いる友人の一人でしかないのだと思うと途端に胸が痛んで、その痛みから逃げるようにその場を立ち去った。
その寸前に銀髪の人と目が合った気がしたけれど、呼び止められることも追いかけられることもなかった。
教会から飛び出して雪道を走り抜ける間、俺を苛む胸の痛みはひとつの事実を浮かび上がらせた。
教会へ足を運ぶ目的が変わっていたこと。
最初は本当に純粋に春を望んで祈りを捧げていた。けれどいつの頃からかハーデイと会って話せることが楽しみになって、その比重は次第に大きくなっていた。教会に近づくにつれハーデイの顔を思い浮かべて足取りが軽くなっていたここ数日の心境を思い出す。
目的が神さまへ祈りを捧げることから友達に会いに行くことにすり変わっていることに気づいてしまった。一体いつから。いつから俺は春よりもハーデイを求めるようになっていたんだろう。祈りを聞き届けてくれる神さまは不純物の交じった祈りなど冒涜だと切り捨てるだろうか。恐ろしくなって、帰るなり布団の中でうずくまって強く目を閉じた。
祈りよりもハーデイに会いに行くために教会に通いつめている自分は神さまに背いている気がして、教会に着いたものの後ろめたさから入るのを躊躇してしまう。
教会の大きく重たい扉が今日ばかりは自分を拒絶しているような気がして、ぼんやりと扉を見上げた。
しんしんと雪を吐き出し続ける灰色の空は分厚い雲に覆われて、あの雲の先にいる神さまに不純物が混じった俺の祈りなんて届くのだろうか、と考え始めると途方に暮れて、意識が空に吸い込まれそうになる。
やっぱり祈りを捧げられるような心境にはとてもなれなくて、中には入らず手前の墓地をふらふらと彷徨う。
適当な墓標の前に屈んで上に積もった雪を手で払う。何かの絵が書いてあり、きっとお墓の主を示す記号なのだろうけれど俺にはさっぱり分からない。俺が死んだら誰かがお墓を作ってくれるんだろうか。俺の亡骸がここで眠っているという標を、俺がこの世界に存在していたという証を刻んでくれる人がいるだろうか。
実感の湧かないのない妄想に自嘲する。
お墓を作ってもらえる人は幸せなんだろうな。それだけ誰かに愛されていたということなのだから。
ハーデイに頼んだら俺のお墓を作ってくれるだろうか。でも、きっとハーデイの方が年上だから、遺される俺が作ることになるのかな。そもそもお墓ってどうやって作るんだろう。
取り留めのない思考を巡らせることはひとときの間、俺を寒さと罪悪感から解放してくれた。歪に形を変え始めた自分の心を見なくてもよかった。
「そこで何してる!」
厳しい声が雪混じりの風の音を切り裂いて俺の背中に刺さる。
責めるような言葉からは俺がここにいることを認めないかのような気迫めいたものを感じて、体が強張る。どうしてここにいるのかと詰問されているようで、神さまへの祈りを教会へ訪れる口実にしている不敬な信者だと罵られているようにも感じられた。
怖くて振り向けなかった。振り向いた先に恐ろしい顔をした神さまがいるんじゃないかって、俺を罰しにやってくるんじゃないかってそう思うと屈んだ姿勢のまま体が固まってしまったみたいに動けなくなった。
吹雪く風に当たって体はみるみる温度を失くしていくのに、ばくばくと跳ねる心臓だけが灼熱のように熱を帯びる。
雪を踏みしめる音が近づいてくる。カウントダウンみたいに一歩ずつ確実に、断頭台があちらからやってくる。恐ろしくてぎゅっと固く眼を瞑っていると、やがて俺のすぐ隣で足音が止まった。
「少年」
肩に触れられて大袈裟に体が跳ねる。俺の肩を揺すりながら掛けられる声はよく知った声で、眠りから覚めるときのように俺はおそるおそる目を開いた。
白い景色に浮かぶ黒いシルエットと真っ赤なふたつの瞳。浮世離れした綺麗な顔立ちは神さまみたいにこの世のものじゃないみたいだったけれど、でも俺の知っている顔だった。
「ハーデイ……」
俺が答えると、強ばっていたハーデイの表情が緩んだ。さっきの鋭い声は俺を罰しにきた神さまでもなんでもなく、ハーデイの声だったのだと知って、全身の筋肉が緩む。
どうしてハーデイがここにいるんだろう。教会の前だからいてもおかしくないんだけど、そうじゃなくて、どうしてわざわざ外の様子なんか見にきたんだろう。俺の邪な感情を見透かして叱りに来たんだろうか。
名前を呼んだ後の言葉が続かなくて、黙ったままハーデイを見上げることしかできない。謝らなくちゃいけない気がして、だけどハーデイに対して何を謝らなくちゃいけないのか分からなくて、頭の中で単語だけがばらばらに泳いでいくだけで、次第に気が遠くなってくる。
「少年? っ、少年!」
「え、と、……なに?」
大声をあげるハーデイにかくかくと体を揺さぶられて意識が引き戻される。再び目が合うと、ハーデイの唇からほっと息がひとつこぼれた。
「意識があるならちゃんと返事をしてくれ。寒さで朦朧としているんじゃないかと心配になる」
「心配……?」
思ってもない言葉に首を傾げる。叱られると思っていたのにほとんど反対の言葉を告げられて頭の中で言葉がうまく繋がらない。ハーデイの赤い瞳が俺を気にかけるように動いているのに気づいてようやく合点がいく。
「心配してくれたのか? 俺のことを」
「当たり前だろう、こんなに冷たくなって。この気温じゃ凍え死んだっておかしくないんだぞ」
「ごめん、なさい……」
窘めるハーデイの口調を受けてやっと俺の口から謝罪の言葉がこぼれる。このまま溜め込んでいた罪の意識の全てを吐き出して懺悔したかった。
けれど、何から懺悔すればいいのかまとまらなくて中途半端に開いた唇を震わせていると、そこから振動が伝播したように全身が震えだす。寒さを自覚した体が熱を取り戻そうと全身の筋肉を急き立てていた。
「怒っているわけじゃない。そんなに怖がらないでくれ」
焦りの表情を浮かべたハーデイに体を引き寄せられて膝が雪の中に沈んだ。あやすように背中を撫でさする手の感覚に、抱き締められたのだと知る。
違う。違うんだ。怖いわけじゃない。
伝えたくても勝手に震える唇は俺の言うことなんて聞いてくれやしない。雲みたいに千切れながら浮かんで消えてく自分の白い息をただただ眺めるしかなかった。
ハーデイの柔らかな漆黒の髪が鼻先に触れて、言葉の代わりにハーデイの肩に顔を埋めた。目を閉じて深く息を吸い込むと、脳裏に夜露に濡れた教会の光景が浮かぶ。ハーデイには教会の匂いが染み付いている。俺もいつか同じに匂いを纏うようになるのだろうか。それとも、そうなる前に春が来るのだろうか。
一回り大きい体に身を委ねていると、心許なかった体の内側が満たされて柔く解きほぐされていくのが分かる。平穏を取り戻した心臓が熱を押し出そうと一定のリズムで脈打つ感覚が蘇ってくる。
ハーデイの抱擁を享受する体から次第に震えが抜けていくのが、彼の勘違いを肯定しているみたいで悔しかった。
震えが止まったのを見計らって体が離される。名残惜しさにハーデイを見上げていると頭を撫でられた。その動作にどんな意味があったのかは分からない。たまたま手が当たっただけかもしれない。髪についた雪を払ってくれただけかもしれない。けれど、ハーデイが穏やかな瞳で見つめ返すから、どこか許されたような心地がして体から力が抜け落ちそうだった。
「なかなか君が来ないから外の様子を見に来たんだが、こんなところにいるなんて思わなくて驚いてしまったよ」
「俺を、探しに……?」
返事の代わりに頬や額にハーデイの手のひらが当てられる。俺の温度を確かめるみたいに。俺の肌を暖めてくれるみたいに。ひたりとくっつく肌が心地よくてうっとりと瞼が重くなる。
「とにかく早く中に入ろう」
手をとって立ち上がらせてくれたハーデイの手の温度の暖かさに鼻の奥がツンと痛んだ。俺を想ってくれて、あたたかい場所に連れていってくれるハーデイの優しさが凍えたからだへ痛みを伴いながら染み渡っていく。目の縁が急速に熱をもって、そこからこぼれ落ちたぬくもりに気づかれてしまわないように慌てて目元を強く擦った。熱くてひりひりする。
中に入ればこの手を離さなければならないことがひどく悲しいことのように思えて、胸が引き裂かれそうに痛む。ずっと教会の扉にたどり着かなければいいのになんて考えが過ってしまう。
小指をハーデイの指の間に滑り込ませて強く握ってみてもその時はあっという間にやって来て、焦燥した様子のハーデイによって俺たちの指先はあっけなくほどけていった。
暖炉の前に促されて、体温が元通りに戻っていく過程で肌を刺す痛みは少しずつ溶けていったけれど、胸に残ったぬくもりはジンジンと俺に消えない痛みを与え続けた。
"友達"って、こんなに暖かくて嬉しくて、痛みを伴うものなのかな。
自分のことのように俺の体調を心配してくれて、手を引いてくれて。深い優しさと居心地のよさを与えてくれるハーデイだけど、それはきっと俺だけに向けられるものじゃない。頭の中にはある日見かけた銀髪のシルエットが浮かんでいた。
俺にとってハーデイは大切なかけがえのない友達だけど、ハーデイには他にも友達がいる。俺は等分されたそのうちのひとつにしか過ぎない。俺にとっては目が醒めるような思い出も、ハーデイにとっては些末で、思い出にもならない出来事のひとつなのかもしれない。胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。今まで知らなかった胸の痛みだ。
俺はきっとこれからハーデイの優しさや微笑みが俺だけのものであればいいのにと心のどこかで思い続けてしまうだろう。
叶わない願いを抱えていくのは苦しい。けれど、ハーデイがくれるぬくもりも思い出もそれに付随する痛みも、この凍えた町でハーデイに出会わなければ知ることのなかった色彩なのだと思うから。
俺はハーデイと過ごすことで雪に埋もれた人生に色と温度をつけていくよ。たとえその熱に身を焼かれるような痛みを味わうとしても。それが生きるという痛みだと思うから。
じゅくじゅくと心を浸食する痛みに目を伏せて、ハーデイがくれたホットココアを一口啜る。それはいっとう甘くて熱くて、触れた舌にじくじくと灼けつく痛みを残していった。
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