海の見える公園で私たちは並んで水平線を見つめていた。春先の潮風はまだ少し冷たいけれど、ここまで歩いて火照った体にはちょうど心地のいい温度だった。この場所ははこはくくんが案内してくれた。
柵の縁に腰かけるこはくくんから微かな鼻歌が聞こえる。ご機嫌そうな様子に何だか私の心まで弾むようだ。彼にとってお気に入りらしいこの場所に私を連れてきてくれたことが嬉しい。
「今日は風が強いなぁ。寒ない?」
「うん、大丈夫だよ」
私が答えるとこはくくんは安心したように目を細めて、また海の方へ目線を戻した。ささやかな優しさすら私の胸の真ん中を焦がしていく熱になることを目の前の彼はきっと知らない。
風に吹かれる彼の横顔は春の日差しを受けてきらきらと輝いている。その髪色も相まって、桜が揺れているように思えて美しさに見とれてしまう。桜みたい、なんて伝えると自分の名前にあまりいいイメージを持っていない彼は困ったように笑うのだろうけど。困らせたいわけではないけれど、そんな顔も見てみたいと思う気持ちもある。どんな表情の彼もきっと魅力的だ。
海の向こう、そのまた遠くへと向けられた視線は凛々しく頼もしい。好きだと思う気持ちが春待ちの蕾のように膨らんでいく。
「こはくくん」
口からそろりとこぼれ落ちてしまった名前にどきどきと音量を上げていく心臓の音が、私の体の温度を高めていく。好きな人がこんなに近くにいる。今なら届くかな。届いてしまうかな。
「好き」
祈るように告げた言葉はか細く震えていた。
「……ん? いま何か言うた?」
潮風にのせた告白の言葉は波の音に掻き消されてしまったらしい。
柵から降りたこはくくんが、首を傾げながら一歩こちらへ近づく。それだけで私の心臓は倍速で走り出してしまう。この状態でもう一度同じ言葉を言えるのだろうか。けれど、走り出した気持ちはそう簡単に止められなかった。
彼を意識した薄桃色のスカートの裾をぎゅっと握って、深呼吸する。潮の香りが私の体を包み込んで、ざざぁっと優しい波の音が私の背中を押した。
「……すき」
ちゃんと伝えられると思ったのに、さっきよりも近づいたこはくくんの整った顔だちに気圧されて掠れた吐息になってしまった。
「堪忍っ、もう一回」
顔の前で手を合わせたこはくくんが私の唇のすぐ近くまで耳を寄せてくる。これ以上距離が縮まると肌と肌が触れてしまう。鼻先をくすぐっていた潮風の香りはすっかりこはくくんの匂いに塗りつぶされてしまって、目の奥がくらくらと熱をもって揺れる。
こうなったら、あの海の向こうにまで届いてしまうくらいの大声で叫んでしまおうか。限界にまで膨らんだ羞恥心で自棄になって大きく息を吸った。肺に潮風とこはくくんの香りが混ざった空気が入り込んで体中が沸騰しそうだった。
す、とすぼめた唇に柔らかいものが触れて、私の叫びはどこかへ吸い込まれてしまった。出口を失った空気が喉の奥で「んぐ」と音を立てた。
咄嗟に目を開けると視界いっぱいにこはくくんの顔があって、私は何が起こったのか分からず息を止めた。
キスをされたのだと気づいたのは、優しい手のひらが私の髪を撫でた時だった。理解してもなお、いや、理解したからこそ私は指一本動かせなかった。呪いにかけられてしまったみたいに体も思考もすべて固まってしまった。
きっと唇が触れていた時間はほんの一瞬だったのだろうけど、私には何秒にも何十秒にも引き伸ばされて感じられた。髪を撫でる手が肩まで降りた頃に、唇を押し潰す柔らかさが離れていく。
「わしも好き」
にやりと口角を上げる唇が、私の心臓を震わせるざらりとした声で囁いた。背中を屈めて私の顔を覗き込む瞳は楽しそうに細められている。悪戯に成功した子供のような表情で、それは、アイドルの仮面を外した男の子の顔だった。
「何度も聞かせてくれておおきに」
肩から腕を伝って降りてきたこはくくんの手のひらが私の指先を柔く包む。
全てを理解した私の足元からあぶくのように熱が沸き上がって頭のてっぺんまでを震わせた。腰が抜けてタイルの上にへなへなと座り込んでしまった私の頭上で、くつくつとこはくくんが肩を揺らす気配を繋いだ指先を通して感じる。
波の音は遥か向こうへ遠のき、自分の鼓動の音に飲み込まれてしまった。吸い込んだ空気はむせ返るような甘さを孕んでいた。
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