強風にあおられた雪の粒が教会の窓を叩く。今日は雪の降りやまぬこの町でも珍しいほどの猛吹雪だった。今日は町の見回りの予定も取り止めて、礼拝堂の手入れに切り替えた。
足繁くこの教会に通いつめているターゲットの少年も、さすがに今日ばかりは家の窓から吹雪く町並みを眺めていることだろう。現に少年がいつも姿を現す時間帯は過ぎていて、曇天は夜に向かって徐々に色を濃くしていた。
雪の吹き荒ぶ音を遠くに聞きながら長椅子の背に薄く積もった埃を払っていると、教会の扉が音を軋ませながら開いた。轟音を立てて吹雪が教会の中に吹き込み、停滞していた空気が掻き混ぜられる。髪をなぶる風に乗って刺すような冷気が肌に襲いかかって、不快な感覚に扉の方を睨み付けると、この町には珍しい春色が視界に入った。それが少年の髪だと気づくのには数秒を要した。彼の頭に積もった白い雪が春色の多くを隠していたからだ。
「少年……」
「あ、ハーデイ。こんにちは」
思わぬ来客に声をこぼす。はっと顔をあげた少年は鼻や頬を赤く染めた顔ではにかんだ。
「呑気に挨拶している場合か。こんな天気の中で何故来たんだ」
「こんな吹雪くらいどうってことないよ。本当はもう少し早く来るつもりだったんだけど、思うように歩けなくて」
「まったく。今日くらい家で過ごせばいいだろう」
髪や服についた雪を軽く払うだけの大雑把な少年に呆れながら、残った雪の粒を取り払う。頭を左右に降って水分を散らす姿はまるではしゃいだ後の犬のようだ。直後、少年の体がぶるりと小刻みに震えた。
「っくしゅ。あぁ、服が結構湿っちゃったな」
「こんなに身体を冷やして凍死したらどうするんだ。早く着替えた方がいい」
雪解けの雫を纏った赤ら顔を包みながら指先で雫を拭うと少年はくすぐったそうに目を瞑った。
「ハーデイってば大袈裟だなぁ」
くすりと息をこぼして全く取り合う様子のない少年に苛立ちを覚える。私が手を下す前に死なれては困るのだ。自分を雑に扱うきらいのあるところは看過できない。
「ハーデイの手だって俺と同じくらい冷たいじゃないか。寒いの?」
少年が私の手をとって首を傾げる。確かに、先程まで猛吹雪に晒されていた少年の凍えた手と私の手はそれほど温度が変わらない。普段なら私の手の方がうんと冷たいのだろう。だが、これは寒さのせいではない。私はヒトの体温をもたないだけなのだ。
「私はそういう体質なんだ」
「そうなのか。寒くないならいいんだ」
私の答えに少年はぱっと手を離して横を通り過ぎ、礼拝へと向かう。ぽつねんと宙に取り残された自分の手を見てふと疑問が過った。もし「寒い」と答えていたら、少年は一体どんな行動をとったというのだろう。
濡れて重くなった服を引き摺りながら時折身を震わせる少年の小さな背中を目で追うが、もちろん答えは返ってくるはずもない。
少年が床に膝をついて祈りを捧げると教会に静けさが戻ってくる。少年がやってくる度、ここはにわかに騒がしくなる。慣れ切った静寂が崩されることを煩わしいだけだと感じなくなったのはいつ頃だっただろうか。
祈る背中へ点々と続くカーペットのシミを目で辿り、ひとつ溜息をついた。
私が礼拝堂の手入れを終えても少年はまだ祈りを続けていた。今日は不自然なほど長い。今日に限って特別強い思いでもあるのだろうか。随分と集中しているようで私の視線にも気づかずに一心に祈りを捧げている。ぽたり、ぽたりと少年の春色の毛先から雪解けが不規則に滴るのを横目に私は少年の右斜め後ろ、彼から一番近い長椅子に腰かけて本を開く。
こんなに健気に祈る少年の願いすら神さまは叶えてくれやしない。君が生きている限り春は来ないのだと、そう伝えたらどんな顔をするのだろう。
彼に絶望を与えるまでの道筋を思い描きながら、少年の横顔を見つめる。それにしても少年の肌がいつもより赤みを帯びているように思える。室内に入っていくらか時間が経っているというのに、冷気にあてられた赤みが引いていないのだろうか。注意深く観察すればするほど記憶の中の少年の肌の色が上書きされて、違和感が曖昧になっていく。
頭の中で膨らんで思考を支配していく雑念のせいで読書に没頭できそうもなく、開いた頁を閉じる。少年が顔をあげたのもほとんど同時だった。
「今日は随分と長かったな」
「……そう? どうしてか頭がぼうっとしていて……そのせいかな」
私の声に振り返った少年はワンテンポ遅れて答えた。奇妙な間だった。親密といえる関係ではなくとも、直感的に少年の様子がおかしいことに気づけてしまう。
「よいしょ、っと」
少年が重たそうに身体をもたげながら立ち上がる。濡れた服の重量のせいだけなのだろうか。瞬きすらも気だるそうに繰り返す少年がふらふらとこちらに歩いてくる。
「それに今日は何だかやけに眠たくって……あっ」
少年が声をあげるのが早いか否か、躓いた身体が姿勢を崩して膝を折る。
ごほっ、と少年が大きく咳き込んで、静かに漂っていた教会内の空気がざわめく。げほっ、ごほっ。湿った咳は一度や二度では治まらず、それどころか激しさを増して少年の呼吸を奪っていく。耐えきれずに長椅子の肘掛けにしがみつく少年の喉から時折微かな呻き声が漏れる。
「少年っ」
手の中の本を思わず放り投げて、ひゅうひゅうと喘鳴を吐き出す少年の傍に膝をつく。声をかけて身体を揺すっても項垂れた少年からは返事のひとつもない。彼の咳と私の声が交互にこだまするだけだ。
少年の身体を抱き起こすと、脱力した身体の全ての体重が両腕にのしかかる。何度も呼び掛けるとようやく少年が薄く目を開いた。
「ハーデイ、聞こえてる。ごめん。からだが、うごかなくて」
小刻みに震える唇から発せられる言葉は今までになく弱々しい。唇は色を失っているのに肌は火照ったように上気している。汗の滲む額に手を当てると指先が焼けるほど熱かった。少年の視線は遠く天井に投げられていて焦点が定まっていない。
少年は何かを話そうとして微かに唇を動かすが音にはならず届かない。何度か繰り返すと力尽きたのか少年は再び瞼を重く閉じた。もう一度名前を呼ぶ私に少年は咳ひとつ返すだけだ。
少年を早急に手当てしなければ生死に関わる。発熱で衰弱していく少年を前にそう判断した私は彼の身体を抱き抱えて走る。向かうのは教会内の私の部屋。とにかく早く服を着せ替えてベッドで休ませなければ。そう考えるより早く身体が勝手に動いていた。
少年の服から染み出る氷のように冷えた感触が抱えた両腕に届く。らしくない焦燥感に駆られる私にとって、少年が断続的にこぼす咳だけが唯一、彼の生存を知らせてくれるものだった。これまで意識したことのなかった自室までの距離がやけに遠く感じた。
自室のベッドに少年を横たえ、濡れた服を剥いていく。手の届くところにあった自分の寝巻きを掴んで着せ替え、少年の身体を布団にくるめる。脱力した人間の着替えがこんなに労力がいるなんて知らなかった。知る機会も必要もなかった。内側にこびりついて拭えないもどかしさと胸のざわめきに心を乱されるならむしろ、知らない方が良かったと思えるくらいだ。
真っ赤な顔で浅く短い呼吸を繰り返す少年の寝顔は険しい。咳を吐き出す動きで大きく跳ねる華奢な身体が痛々しいとさえ思ってしまう。人間は病ひとつであっさりと命を落としてしまう。脆弱で繊細な命を前にして浮かぶ感情は苛立ちに近かった。
「う、ぅ」
呻きながら身を捩る少年をただ眺める。人間の看病の仕方なんて知らない。
ひとまず浮き出た汗を拭ってやる。ひどい発汗を見るに少年は暑さを感じているのだろうか、被せている布団は逆効果なのだろうか、と思案する。書庫に行けばヒトの病への対処が記された書物のひとつやふたつ見つかるのだろうが、悠長に探している猶予はなさそうだった。
たかが人間、たかがいちターゲットにどうしてこんなに気を揉まなければならないのか。私が君の命を奪うまで滑稽な祈りを続けてもらわなくてはいけないのだ。こんなところであっけなく命を落としてもらっては困る。
決して彼の身を案じているわけではない。使命を果たすために彼の存在を欠くわけにいかないのだ。沸き上がる焦燥はそこから来ているに違いない。乱れる自らの胸中をそう意味付けていると、少年の荒い吐息の隙間から微かな音が聞こえた。うわ言のように何か言葉を繰り返している。
少年の目尻から雫がひとつ線を描いて零れ落ちる。汗なのか涙なのか区別はつかない。衰弱した身体で一体何を伝えようというのだろうか。
ベッドの傍に屈んでその声を拾おうと試みる。
どうせ助けてだとか苦しいだとかそういう類いの言葉だろう。死神を前にした人間の口から散々聞いた言葉だ。極限状態に陥った人間が吐く言葉は大抵予想がつく。
期待をもたないまま、浅い息を繰り返す少年の口元を注視する。耳をそばだてる私に壁の向こうから一向に衰える気配のない吹雪の轟音が聞こえてくる。蹲るように体を折り畳んだ少年の乾いた唇が再び戦慄いた。
──さむい
僅かに空気を震わせた吐息は、普段の快活な彼からは想像もできないほどか細く、心もとない音だった。暗闇の中でただ純粋に他者を求めるような不安と孤独に濡れた音が私の鼓膜を伝って胸の中へと滴り落ちる。目の前にいるのは、命を奪う熱に独りで耐えようとする憐れでいたいけな一人の少年だった。
想定外の揺らぎに不意をつかれて思わず胸の上でもがく手へと指を伸ばす。寒いと言う割に滾るような熱さをもった小さな手はすかさず私の指に絡まって、宙ぶらりんだった私の手はあっという間に捕らえられてしまった。
藁をも掴むというのだろうか。何もできない私の手を少年は縋るように握る。肌を通して伝わる熱で左手が焼かれて溶けてしまいそうだ。触れたことのない体温だった。
悪夢に魘されているかのように呻き声をこぼす少年の火照った頬に触れる。手のひらの温度よりもずっと熱く、じとりと湿っている。命を燃やす温度だ。
少年の身体もまた熱で溶けてしまうのではないかと、乱れた思考が起こり得ない事象を空想する。この熱に全身を蝕まれながらなお、生きようともがくのか。脆弱な命がもつ残酷な生存本能が恐ろしく感じると同時に、懸命に抗う姿が健気だとすら思えてしまう。人間が家畜に注ぐ愛情に似ているのかもしれない。
もはや雪解けで濡れたのか汗で濡れたのか分からない春色の前髪を掻き上げて、現れた丸い額にそっと手のひらを乗せる。血の通わぬ冷えきったこの手の温度で少しでも熱が中和できればいいと、それは些細な祈りのようでもあった。
それが通じたのか、少年の眉間に深く刻まれていた皺がふと緩んだ。まるで心地よさを拾ったようだった。
「……はーでい、」
少年の唇から熱でとろけた声がこぼれる。耳を疑った。目を覚ましたのかと顔を覗き込むがその瞼はまだ重く閉ざされている。
和らいだ寝顔で手のひらに擦り寄られると心を許されてしまったようで、鳴りようもないはずの胸の奥がどくりと脈打つ感覚に襲われる。ずくずくと心臓の裏側が少年から放たれる熱に侵されていく。
立て続けに揺さぶられている自分の心を無視できずに深く息を吐く。これ以上の深入りはまずいと脳の隅が警鐘を鳴らすのに、少年が握って離さない手を振りほどく気になれなかった。情けなさに脱力する。
少年が離してくれないからだとこのまま留まる言い訳を浮かべて、直後に一体誰に対しての弁解なのかと自嘲する。他人に見られる心配のない自室の出来事で私が繕わなければならない人物なんて一人しかいない。
『断罪の死神』に言い訳をする『ハーデイ』はなんて滑稽だろう。届かぬ祈りを捧げ続ける少年よりずっとずっと滑稽だ。溜め息混じりに乾いた笑いが零れる。
私の葛藤をよそに、少年の寝息は規則的なリズムを取り戻そうとしていた。
再び静寂を取り戻した室内は吹雪の音を容易に拾った。雪は荒々しい風に乗って舞い上がり、地面に叩きつけられながらこの世界を白土に染め上げる。
雪はまだ止みそうにない。
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