年度が変わり、世間は新生活だなんだと慌ただしく騒いでいる。ESも例に漏れず忙しなく、新体制への整備と通常の業務の両立にあくせくと奔走してるようだった。学生も兼任しているアイドル達は殊更忙しそうだ。新たな門出に前を向いている人もいれば、右往左往している人もいる。
目まぐるしく流れる時間のその合間を縫って今日は花見を開く予定となっている。
大きく伸びをすると、暖かな空気が肺を満たした。分厚いアウターとは別れを告げて薄手のジャケット一枚羽織って外に出る。軽装になり春の陽気にあてられて心まで軽くなるようだ。
星奏館の玄関口、ガラス張りの窓から見えるテレビでは夕方のニュースが流れており、桜の見頃を知らせていた。関東の方はとっくに満開宣言が出されており、東北に向かって徐々に北上しているそうだ。
画面を眺める視界に小走りの影が横切る。ようやく待ち人が来たらしい。
ガラス越しにひらひらと手を振ると、桜のような色の髪がぴょこりと跳ねた。紫色の瞳には焦りの色が見えて、申し訳なさそうに眉を寄せる。
集合時間五分前なのだから、そんなに慌てなくてもいいのに。
そんな彼の、桜河こはくの真面目で律儀なところは好ましい部分だ。
パタパタと細かな足音で玄関へと向かいその柱の影に消えていく桜河の後ろ姿に頬を緩めながら、何の気なしに空へと視線を移す。すると、ひらひらと風に乗って舞う薄桃のひとひらが視界の隅を掠めて、誘われるように爪先を向けた。
地面に落ちたそれを拾って確かめる。桜の花びらだ。よく見ると辺りの地面にもちらほらと花びらが斑点を描いている。
「HiMERUはーん、どこおるん?」
桜河の声が響く。屈んだことで身体が木陰に隠れて見失ったらしい。
「ここですよ、桜河」
立ち上がって手を振ると、駆け寄ってきた桜河は手元の花びらを見て、一瞬表情を曇らせた。
「何それ、桜? ここには咲いとらんのにどこから……」
「風に運ばれて来たのだと推測します。おそらく我々の目的地から」
風の吹いてきた方向を指差すと再び春の風が肌を撫でた。
今日の花見は自分達が所属しているスイーツ会の面々で行う運びになっている。仕事で後から合流する朱桜と礼瀬が食べ物を、スケジュールの空いていた桜河と自分とが先に現地へ向かい場所取りをする段取りになっていた。
「ふふ、せっかちな桜ですね。これから会いに行くと言うのに」
「ん、せやね……」
機嫌よく声を揺らすHiMERUに対して、桜河の返答はささやかなものだった。微かな違和感に口を開こうとすると、桜河は大きく深呼吸した。実家を出て二回目の春への期待へと気持ちを切り替えたようで、息を吐いた後の横顔は凛とした煌めきがあった。
「さ、行こか。着く前に日が暮れてまう」
口角を上げた頬を茜色が暖かく染め上げる。歩を進めた先にある夕陽がめらめらと揺らめきながら地上に向かって降りてきていた。
星奏館を出て大通りを進んでいく。すれ違う人々は学校や仕事を終え、晴れやかな足取りで帰り道を辿っている。寒い冬が明けて暖かさの訪れた空気を味わうように皆、空や緑を眺めながらいつもよりゆっくりと歩んでいるようだった。
その中で、いまいち表情の優れない桜河の様子が気にかかって口を開く。
「無理に参加しなくてもよかったのですよ?」
「なんや、わしを仲間はずれにするつもりなん?」
「そういうわけではないのです。ただ、桜が苦手だというのに、参加を辞退をしなかったことが少し疑問で」
今回の花見は朱桜の提案だった。「今年はお花見をしましょう!」と、声高に宣言した瞳がきらきらと輝き、それが評判高い限定スイーツを前にした時の桜河の瞳の色と似ていて、やはり親族なのだなと実感したことを覚えている。
彼の提案に一瞬眉をしかめた桜河だったが、特に抗議することもなく静かに話を聞き、進んで案を出すこともあった。普段の二人の騒がしいやり取りを傍から眺めていた身としては意外に映ったのだ。
「好き嫌いで駄々こねるほどわしは我儘やないつもりやけど。それに、この面子でする花見なら賑やかに楽しめそうやしな」
ちらりと横目で見上げられる。上がった口角は挑発的で、「楽しませてくれるんやろ?」と言外に試されているように思えて、返事の代わりに首を竦めた。
桜河が桜を苦手に思っていることは彼が所属するユニットのメンバーだけが知っている。つまり、今回集まる面々の中で知っているのはHiMERUだけだ。少々荷が重いが、最年少から叩きつけられた挑戦状に尻尾を巻いて逃げるつもりもなかったし、おそらく彼にとっては初めての花見をいい思い出にしたいと素直な気持ちも少なからずあった。
「なぁ、HiMERUはんも桜が好きな人?」
「まぁ……嫌いではないですね」
桜によく似た髪を目に映しながら答えるとその下の紫が細められる。
「そういや、飲み物はわしらの担当やったな。ちょうどええからここで調達して行こか」
道すがら見つけたスーパーを桜河が指差し、そのまま連れ立って入店する。
「やっぱりお茶は外されへんな。HiMERUはんはコーラやろ。マヨイはんはぶどうジュース~……ってしもた。炭酸しかあらへん。マヨイはんって炭酸飲めるお人やっけ?」
桜河は次々に二リットルのペットボトルをカゴに入れていき、みるみる手元がカラフルに彩られていく。
「そんなに買うつもりなのですか? 飲み切れませんよ」
「残った分は各自で持ち帰ったらええやん。食堂の冷蔵庫に寄付してもええし。どうせ経費で落ちるんやから、ぎょうさん買わな損やで」
そう言って最後の一本を持ち上げた桜河の横顔はこれから始まる宴への期待の色に溢れていた。存外楽しみにしているのだと分かって口元が緩む。
辟易とするようなずっしりと重い荷物も二人で分け合えばそれほど苦にはならないだろう。
「見えてきましたね」
重さで引き伸ばされて膨らんだ袋を提げながらまたしばらく歩くと、緑と薄桃色が織り混ざった景色が視界に入った。
「寂しくなっとる木もあるけど、まだ咲いとる木もようけありそうやね」
開けた草原と地続きに桜の木が密集していて、中央には大きな桜の樹が辺りを見守るようにどっしりと構えている。夕焼けの空が一帯を包み、夜の始まりを匂わせていた。
花見のピークは過ぎたのか時間帯のせいなのか公園にはほとんど人はおらず、桜の木々が風に靡く音がよく聞こえる。
散りかけの桜もまばらに見える中、未だ満開に咲き誇るの桜の木の下へ導かれるように自然と足が向いた。
「この木はまだ元気に咲いとんな」
「遅咲きだったのでしょうか。ちょうど良かったのです。この木の下で花見をすることにしましょう」
提げたバッグからレジャーシートを取り出して広げる。黄色のギンガムチェック柄は春に彩りを添える可憐な花々を想起させる。
「桜河。このペットボトルをそちらの端に」
「ん、こうか?」
二人で分けあって運んだペットボトルを重石代わりにしてシートを固定する。
「場所取りはこんなもので良いでしょう。二人に連絡をいれておきます」
「おおきに」
桜を正面に数メートル後退り、パシャリと端末で桜の木の写真を撮っておおよその場所をホールハンズを通して連絡を入れる。後は二人の到着を待つだけだ。
連絡を終えて顔を上げると、そこに桜河の姿はなかった。
「桜河?」
辺りをきょろきょろと見回すと、一際大きい桜の木の根本でぼんやりと花を見上げる桜河の背を見つけた。大樹は雫をこぼすように時折花びらを落とし、空と風と大地に彩りを添えている。桜河はその景色を一心に見つめているようだった。見とれているのだろうか、それともやはり気味が悪いと顔をしかめているのだろうか。
背側から射す夕の光が作り出すHiMERUの影が、桜河の踵に向かって細く長く伸びていく。
陽射しを背負う背中に声を掛けようとした時、突如暴風が一帯に吹き抜けた。荒れ狂う嵐のようだった。土煙が舞い、咄嗟に目を瞑る。薄く開けた視界に飛び込むのは夕陽のオレンジを反射しながら散る花びらの白、そしてその奥に淡く浮かぶ桜河の姿。
拐われる。
胸騒ぎが急かすままに、ほとんど無意識に目線の先へと手を伸ばしていた。
「桜河っ」
ガサガサと風に煽られるピクニックシートが呼ぶ声を遮る。ビニールの擦れる耳障りな音に不気味さが背中を駆け上がっていく。もう一度目を閉じてしまえば、その姿が忽然と消えていそうで必死に彼を捉え続けた。
桜が視界を覆うその隙間から振り返る桜河の横顔がわずかに見えた。いくつもの花びらが手首にぶつかる感触の後、力強く手首を掴まれた。
「HiMERUはんっ」
桃色の花びらを身体中に纏った桜河が鬼気迫る声で呼ぶ。白い肌が血の気を失って更に青白く見える。花の嵐から受けた衝撃と腕を掴まれた混乱とで心臓がばくばくと脈打っていた。
「桜に拐われるかと思うた……」
吐息と共に零れた言葉に目を見張る。心を読まれたのかと驚いた。同じことを考えていたのだと理解し、くすぐったさに笑みを溢すには目の前の桜河の表情に浮かぶ緊張が強すぎるように映った。
一瞬の戸惑いから生まれた沈黙が彼の不安と共鳴してしまったらしい。夕陽が顔にかかって眩しそうに眉をひそめたその下で、薄紫が怯えたように揺れた。桜河が醸し出す異様な緊張感につられて口の中が乾いていく。
「HiMERUはん……?」
──どこ?
唇が微かにそう動いた気がした。名前呼ぶ声は夕焼けを横切るカラスの声に掻き消されそうなほどか細い。
誰そ彼れ。黄昏の時分は目の前の相手の輪郭をぼかしてしまう、不安定な美しさを孕んでいる。きっとHiMERUの顔は桜河から見えなくなっているのだろう。じとりと汗ばんだ手のひらから彼の不安が肌を伝ってくる。
深く息を吸い込んで桜河の腰に手を回し、軽く引き寄せる。強ばった彼の身体をあやすようにエスコートしながら、ターンを踏む要領で互いの立ち位置をくるりとひっくり返すと、途端に桜河の顔が影に覆われて見えなくなる。彼の色を探そうとして目を凝らすが、地平線から差す鮮烈な夕日に視界を焼かれて目が眩んだ。目の前のシルエットが曖昧に歪む。
視界を入れ替えただけで、こんなにも見える世界が変わるものなのか。視覚を通して入り込んだ寂しさが身体中に沁みていくようだ。腰を抱いた指先に力が籠る。
「これで見えますか? HiMERUはここにいますよ」
降ろした瞼の奥で桜河が息を吸い込んだ音が聞こえる。しがみつくように手首を強く掴んでいた手がわずかに緩んだ。
瞼の向こうから透ける炎が翳ったのを見計らって瞼を持ち上げる。桜河の肩越しに見える夕陽が地平線に溶けていく。夜の始まりを背景に透き通った紫の瞳の輝きが浮かび上がる。
「……見えた」
強張っていた表情が緩んだのが見えて、胸を撫で下ろす。夕凪が頬を撫でるのに助けられて互いに絡めていた腕をそっとほどいた。
「……HiMERUも、同じことを考えていました」
桜河の髪や肩に乗った花弁を一枚ずつ指で摘まみながら風の中へ返していく。
「同じ?」
「桜河が桜に拐われてしまうかと。……ほら、あなたって桜にすぐ紛れてしまうから」
「なんやそれ」
ふ、と桜河から笑みがこぼれて安堵する。桜河のもつ柔らかな雰囲気が少しずつ戻ってくる。
頭のてっぺんに絡まる最後の一枚の花弁を取って、綿毛を飛ばすように息を吹き掛けようと息を吸い込んだ時、再び突風が駆け抜けて花弁を拐っていく。
風に乗った花弁は夜を迎えた地平線に向かってひらひらと瞬きながら群青の空へ溶けていった。その姿は星に憧れて手を伸ばしているかのようだ。
「今日はほんまに風が強いな」
花弁を目で追いながら呟く桜河の髪が春風に靡いて目を奪われる。
ほら、似ている。今しがた空に拐われた桜の花弁に。今日に限ってよく吹く強風は見頃の桜ごと桜河を連れ去ろうとしているのではとさえ思えてくる。
桜河を見つめていると、不意に袖口を軽く引かれた。
「HiMERUはんは目を離した隙にこの花びらみたいにふらっとどっかに行ってまうから心配やわ」
「そんな、人を放浪者みたいに……」
「桜につられて待ち合わせの場所から姿消したんは誰やったっけ?」
「おや、根に持っていたのですか」
「そんなんとちゃうっ」
軽口を叩くと桜河はそっぽを向いてしまう。普段の威勢のよさは今は控えめで、桜が彼にもたらした不安の棘が心の表面を苛んでいるのだろう。珍しく恨み節を吐き出したことからも桜河の動揺が表れている。
「……HiMERUは桜と一緒に儚く消えてなんかやりませんよ」
いつもより少し小さく見える肩ごしに言葉をかける。HiMERUの宣言にはっと顔を上げた桜河と視線がぶつかった。
「桜河もそうでしょう?」
目を細めて問いかけると、菫色の瞳が瑞々しさを取り戻す。
「うん、せやね。そんなん御免やわ」
声が穏やかに響く。二人分の声は祈りのようでもあり、自分に言い聞かせる決意のような響きももっていた。
「あ」
桜河が声をあげてこちらに手を伸ばす。指先の冷えた感触が髪越しに耳を掠めて、不意の感触に身を竦めた。
「HiMERUはんにもついとった」
二つの指で摘まんだ花弁を目の前に見せつけて得意気に口角をあげる。風に揺れる可憐な薄桃の欠片を見つめて桜河は肩を揺らした。
「わしら、桜まみれや」
言いながら、腕を大きく振り上げる。桜河の手を離れた花弁は深まる夜の空へ舞い上がって、星の瞬きと重なった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.