振り出しに戻る話

既婚者だった穂荒の話です 元鞘に戻るのにきっかけが掴めなくてモダ……としてます

振り出しに戻る話

 お互いに妻がいた、だからこういう機会は少なからずある。けれど、その機会は夫婦や、恋愛の成立したカップル、その他いろんな事情のある二人が営むためであって、決して自分たちではないだろう。穂刈も荒船も、経歴に「離婚」の二文字がついている二人だ。独身に戻った男同士がこの場に足を踏み入れているのはおかしいはずだ。
 ただ、過去に二人は関係を持ったことがあるという事実は覆せない。互いが互いを知っているからこそ、この場を選ぶのもあまり迷いがなかった。というより、まだ相手の妻の匂いが残るであろう家へ入るのは嫌だったのだ。
 ラブホテル内で部屋番号を押すと、光ったボタンが反射し、どこか白々しく見えた。

 ──穂刈から離婚したと聞いたとき、荒船は天地がひっくり返ったのではないかと錯覚した。
 なんで、お前が。酒を飲みながら穂刈本人が淡々と話すのを聞きながら、焼き鳥の串を落としそうになる。
「意外か?」
「意外……だな」
「そんなに長続きしそうに見えたのか、オレは」
 そもそも穂刈が誰かと別れるという姿を、あまり想像ができない。できなかった。荒船とは出会ったときからずっと一緒で、高校で同じクラスだったボーダー隊員とも定期的に連絡を取っている。荒船隊では半崎や加賀美にも世話を焼き、今でもときどき飯を食いにいくと言っていた。狙撃手仲間のメンバーとも、歓送迎会を開くことがしょっちゅうあるからそこにも顔を出している。基本的に、人といることをあまり辛く感じないタイプだと思っていた。
 荒船が結婚する、と言ったとき、穂刈は当時付き合っていた彼女であり今は元妻となってしまった女性と祝福してくれた。結婚式をせず、ささやかな集まりだけで終わらせた報告会のようなレストランディナーで、穂刈は彼女とあんなにも笑顔でいたのに。結婚後わずか一年で多忙と価値観の違いで別れを選択した荒船たちと違い、穂刈と穂刈の彼女はよく吟味して付き合い、結婚した方だと思う。荒船は時折穂刈の家へ招かれて三人で食事をすることもあった。
(離婚の理由、ってのは聞くだけ野暮か)
 荒船は唇をひそかに噛んだ。
「大事にしようと決めてたんだがな、オレなりに」
 穂刈の酒が尽き、新しくオーダーするためにメニューを開く。
「相手にはもう別の人がいたんだ、ずっとまえから」
 荒船も酒を飲み干し、一緒に注文を決める。
「隠してて、結婚したのか?」
「いなかったらしい、結婚当時は。でも結婚後に知り合ったんだとか、本当かはわからねぇが」
 そうか、と荒船は曖昧な相づちしか打てなかった。
 ──荒船は穂刈といると、居心地の良さを覚えることがほとんどだった。特に不都合なことも起きず、面倒もない。でも穂刈の元妻は、そう思わなかったのだろうか。
「お前にだらしないところでもあったか?」
「わからないな、それは。そいつと比べてでもしてみねーと」
 そいつ──元妻の交際相手のことだろう。穂刈はどちらに対しても、怒りは抱いていなさそうな顔をしている。
 穂刈も結婚式をしなかった。本当はしたかったらしいが、相手側に質素でいいからと言われたそうだ。穂刈との離婚が済んだ今では、どこかおおっぴらにやりたくないことがあったからではないだろうかと人によっては勘繰りそうだ。だから穂刈は荒船にしか言わないし、荒船もこれ以上口外する気はない。そもそも、ゴシップに興味のない性質だ。
「お前がいいんなら、なにも言わない」
「ああ、もういいんだ、オレは」
 強がりでもなく、穂刈は笑って新しく来た酒を飲んでいる。
(そうだ、そもそも)
 荒船は箸を取り、料理に手を伸ばす。取り皿に置いた彩り豊かな肴を眺め、ビールジョッキを傾けた。
(俺たちだって、穂刈の奥さんには言えないようなことがあったのに)
 彼女だけを責めるべきではないと荒船はわかっていたし、穂刈もきっと心の隅で思っていたのだろう。だから離婚となってもスムーズで、こうして一人になる道を選んだ。
 ──荒船は穂刈と関係を持ったことがある。始まりはまだ十八のときだった。今と同じようにボーダー隊員で、荒船隊として動いていたころ。暑い夏に嫌気がさして、荒船の家へ立ち寄った日だ。荒船の母は出かけるからと言って家の中は無人になり、部屋に残された二人で見ていたのはボーダー関連のニュースだった。けれどしばらくすると話題は逸れてボーダーの話も終わりとなり、
「つまらなくなったな」
 と笑ってエアコンのリモコンを取ろうとした。汗が家の中にいても流れてくるから、節電を謳う母には申し訳ないけれど温度を少しだけ下げようとしたのだ。
 その荒船の汗を、穂刈が指で拭った。ちょうど、頬を覆うような形になった。外耳に触れられると指の温度が伝わってきた。
 荒船は別段それを嫌だと思うことがなかった。なかったから倒れるようにソファに押されても、目線が合って互いに赤い顔をしているとわかっても、この先の二人の関係は変わらないだろうという自信があった。
 エアコンの温度が下がっても、体は熱いままだった。稚拙な動きでたどった穂刈の体はまるで炎みたいだったし、もしかしたら荒船の母がすぐ帰ってくるかもしれないというスリルは何物にもまさった。いつかこれが本気になることがあるのだろうか、と思いながら、焦れた触れ合いだけを続けた。
 そういうことが年に数度くり返されたが、荒船隊が解散となり穂刈がボーダーを抜け、荒船が職員として忙しなくなるころに思わせぶりな行為自体はすっかり消えた。たまにこうして居酒屋で顔を合わせて近況を語り合う。その中に下心はまるでなく、荒船の予測通り、二人の関係は行為の有無に限らず露ほども変わらなかった。と思っていたのに。
(結局今になって、そのほころびが出たのかよ)
 荒船は笑いたくなった。
 穂刈と荒船の関係値はとっくにひずみを生んでいた。背中を預けてきたと思っていた相棒とは、ずっとまえからもはや相棒以上の存在になりかわっていたのだ。まえを向くと、穂刈と目が合う。
「後悔してるのか、荒船は。俺とああなったことを」
……ちょっと、な」
 今度は穂刈が、そうか、と頷く。少し傷ついた顔をしている。荒船は、穂刈が珍しく荒船の言葉を誤解しているのかもしれないと悟った。咳払いをして、はにかみそうになるのを堪えながら口を開く。
「お互いに結婚するまえに、気づけば良かったっていう後悔な」
 今度は、穂刈がつまみに手をつけていた箸を取り落とす番だった。

 久しぶりすぎる感覚は、一向に慣れずにただ荒船を苦しめる。抱かれる負担は年齢も相まって、何倍も重くのしかかった。けれど穂刈の丁寧さは、高校生のころよりもはるかに今の方が増していた。慎重、とも言えた。「もういいから」と言っても何度も「だめだ」と言われ、いよいよ自分の意識が遠ざかるのではないかというころでキスをされた。
 あのときみたいに若くはないし、のけぞって喘ぐ体を見て興奮している穂刈は頭がおかしいんじゃないかと思う。重なった手は熱ばかりでは決してなく、汗もへばりついている。
「ホテル、嫌がってたのにな、昔」
 と穂刈が大学のころあたりに荒船が言ったことを思い出してつぶやいた。
 言った、たしかにそう話した。ラブホテルに行くのは、いかにもセックスだけのためみたいで気が引けるとぼやいたのだ。穂刈はちゃんと覚えていた。
「お前の家なんて、行けるかよ」
「なんでだ」
「今は、無理だ」
 穂刈がなるほど、という顔をする。閃いたような仕草に荒船は苛立った。大体穂刈の考える荒船の思考は当たっていることしかない。
 彼の家は少なからず、生活の跡があるだろう。彼女の使っていたものの匂い、彼女の忘れていった物。それは離婚後四年経った荒船の家には少なくなったものだ。けれど穂刈の家にはきっとまだある。その残滓ざんしを直視すれば、高校時代に体を預け合った日まで遡り、こうなるまえにあのとき穂刈に告げていれば良かったのだと何度も思う。
 最初から、二人の関係の変化を恐れずにはっきり言えていたら。
「お前が、好きだったよ穂刈」
 言うのが遅くてすまない、と加えると、穂刈は眉をひそめた。二人の下半身は熱っぽく、今すぐにでも相手を求めているというのにそれを許すことはなく、頭は次第に冷静になる。
「戻れないのか」
「今は、戻れないだろ」
……だよな」
「んなことしたら、お前だって最初から奥さんを見てなかったことになっちまうだろ」
 たぶん、結果的にはそうなのだ。穂刈も荒船も、結婚はしたがずっと心のどこかで抱え込んでいた。もしも抱えたまま隠し通せるのなら、このまま墓まで持っていこうと誓っていた。
 けれど荒船は早々に離婚をしてしまったし、穂刈も、相手側の心変わりという隠れ蓑の中で、自分の願いに気づいてしまった。高校生の夏、あのころから引きずり続け、すれ違ったままの気持ちをふたたび寄り添わせようとするのなら、あまりに性急すぎると荒船は感じた。
 きっとこれからは、本当に二人の関係は変わらずにい続けられると思うから。
「時間を、くれ、頼むから」
 穂刈が「わかった」と言って体を離すと、いいようのない寂しさが襲う。けれどこれでいいんだと拳を握って黙り込むと、穂刈が口を開いた。
「オレも、好きだった。荒船のことが」

 ◇

 穂刈から数日まえにメッセージが来た。まとまったダンボールと共に、荷物が運ばれるまえの新居の様子も添えられていた。
 あれから穂刈は仕事の合間にゆっくり部屋を片付けた。広かった部屋から単身向けのマンションに引っ越すためだ。時間をかけたのは、穂刈の中で少しずつ元妻との結婚生活を振り返っていたからだろう。片付けるたびに思い出すことの一つ一つを頭に刻み、丁寧に処分する。もう二人で住んでいた家は元の形に戻ることはない。
 失うという経験は、「一度きりでじゅうぶん堪える」と穂刈はぼやいていた。その通りだと荒船も思う。荒船こそたった一年足らずの結婚生活だったけれど、好き合ったはずの相手とただ粛々と書類をまえにするのは違和感しかなかった。巨大な違和感をまえに名前を書き込み、書類を提出すれば終わりだが、たったそれだけで体のどこかに虚しさが残るのだ。
 穂刈の引っ越しから数週間経った今日、ふたたびメッセージをもらい、夜の予定を聞かれる。
(このあと飲みに、か。行けるな)
 あれから穂刈とは、相変わらず三ヶ月に一度程度飲みに行く。ホテルに行ったのはあの日以降一度もなく、体にも触れていないし、キスもない。二人とも一度距離を置いた手前、きっかけを見出せていない。昔より大人になった分、狡さが見え隠れする。
 そうしてもうすぐ一年になり、暑い夏が来ようとしている。
 じりじりと照りつける太陽がようやく地平線に溶けたころ、穂刈との待ち合わせの場所にたどり着いた。そういえば、この場所に来るのに夢中で汗を拭い忘れていたことに気づく。荒船はポケットからハンカチを取り出し額に当てた。
 そのうちスーツ姿の穂刈がやってきた。手を上げて穂刈を迎え入れようとすると、ハンカチで取り損ねていた汗が一筋、こめかみから落ちる。近づいた穂刈が気づいてそれをすくった。その手つきは十八のころからなにも変わらなかった。
「あ」
 と二人で同時に声を出すのに、あまりに的確なタイミングだった。
 ……「今でもお前が好きだ」と言い出すのはどちらからか、あの夏よりも少し大人になった顔で素直になるのは恥ずかしさが上回る。けれど、このさいを振らなければ元には戻れない。
 夜の闇に穂刈の黒髪が揺れて、通った鼻筋が少しだけ気まずそうに顔を伏せている。荒船は、その穂刈の横顔にどうしてももう一度触れたかった。だから、踏み出したつま先に力を入れた。