僕と革靴とアイス

ルーク靴を買う

 Time、Place、Occasion──時と場所と場合を考えて、と言われた。TPOという言葉は、東洋で生まれたが、いい機会だとこの堅物の上司は取り入れてみているらしい。僕が言うのもなんだが、なんでも影響を受けやすい彼だからこういうこともある。しかし、まさか火の粉が自分に振りかかるとは。
 僕はわりと被害をこうむりやすい体質ではあるので、ときには愛想笑いでかわし、ときには間違っていることをきちんと指摘することを努めてきたけれど、この場合は微妙な表情をしてしまった。
 たしかに、言われてみればその通りなのだ。けれど、毎日歩くにはこれがいちばんだ、と言いたい気持ちもある。
 つまり、僕は上司に「靴をなんとかしなさい」と言われ、僕はかれこれ一時間、大型モールの中にある、ブランドショップのまえで立ちつくしている。

 ◇

「昇進でもすんのかよ?」
 帰宅後、靴屋の紙袋を見た開口一番アーロンはそう言った。口の端をニヤリと吊り上げながら。たいてい僕がのそのそと、ただいまの声も小さく帰ってくるときは、あまりおめでたくないことがあったときだと知っているのに。
「靴好きの上司がいてさ」
 僕は履き潰したスニーカーの土や埃を軽く落としながら、アーロンに説明する。ほうきを元の位置に戻して、マットを踏んだ。靴底はうすくなって溝もほとんどなくなっているから、隙間に泥も入らない。マットはほぼ汚れないままだ。
「彼がおすすめのバイヤーがいるって言われて、モールに行ったんだよ」
「顔を立てたかっただけじゃねえの、そのバイヤーとやらに」
……それもあるかも」
 今さら、上司の第二の思惑に気づかされ、僕はますます肩を落とした。アーロン、僕が落ち込むのわかってて言っただろ。
 ……まあでも、彼は僕の小さな「ただいま」の声が、いやに元気がないのに気づいて、普段ならリビングで出迎えるのにわざわざ玄関まで出てきてくれた。彼には言わないけれど、気配りが嬉しい。
「腹減った」
「はいはい、今作るよ」
 こんな横柄な態度も、照れ隠しなんだろうな、と思いながら、僕はほほえんでしまう。
 ──最後のスープまでしっかり味わい尽くして、僕らは満足しながらデザートのアイスクリームをすくっていた。テレビから流れるサスペンスドラマに顔を向けながら、アーロンがバニラアイスを口に入れる。僕は冷たい感触を楽しみつつも、やや頭が痛くなってしまって目をぎゅっとつぶっていた。
「そういや、」
 アーロンが二口目をすくいながらこっちを見た。僕はまだ半端に顔を歪めていて、アーロンの顔がおぼろげに見える。
「お前、明後日のなんとかかんとかもあの靴で行くのかよ」
 彼の口に消えたしろいアイスは、彼にとって頭を冷やすものではあまりないらしく、淡々と次のアイスにスプーンを入れている。僕は明後日? と思いながら、カレンダーを見た。
 明後日にたしかに大きく赤い丸をつけている。僕の性格を見抜き、アーロンに「この丸だけじゃ、なんの用事か絶対忘れるだろ」と再三注意を受けて、丸の中にちゃんと予定を書くようにした。そこには、彼の言うなんとかかんとかの正体がきっちり記されていた。
……そうか、それで上司は靴を買えって言ったんだ」
 着任式、と書いてある。実は上司はうちの部署に来て日が浅い。日頃の事件事故のせいで着任の段取りが遅れ、式典も明後日に延期されていた。大した内容ではないから正装をしたりはしないが、それでもお偉いさんたちが顔を揃えて見守る中、ボロボロのスニーカーの男がいるのは嫌だったんだろう。
 一応、僕だってそれなりに革靴は持っている。持っているんだが、数年前に履いたっきりで、まったく手入れをしていなかった。そういえば、この間式があるからと引っ張り出してみたんじゃないか。なかなかの惨状で、アーロンの砂埃まみれの革靴よりひどかった。なんとか手入れをして履けるぐらいには整ったが、いざ履いてみると今度はサイズが微妙に合わない。
 式が終わったら、すぐにスニーカーに履き替えればいいか。そう思って革靴を、今度は傷まないように大事にしまった翌日、つまり今日、タイムリーに上司に釘を刺されてしまったのだ。
 結局僕は、それを思ってデザートのアイスもろくに味わえず。アーロンの使い慣れた革靴の横に、ピカピカの真新しい革靴を履き、明日から革靴に慣れるために動く羽目になった。

 ◇

 式典は散々だった。上司が嬉しさのあまり長々とスピーチをしてしまい、お偉いさんたちはとても複雑な表情を浮かべていた。彼らも、上司の熱い気持ちがわからないわけではない。ただ、長い。ひたすらに長い。僕も同僚もうんざりして天を仰いだ。きっとあとでスピーチの内容がどうだったか聞かれそうな気がするから、記憶だけはたしかにしておかなくては。
 僕は上司の話す重要そうなワードを、忘れまいと必死にメモを取っていたおかげで忘れていたのだが、式典が終わったあとに席を立って歩こうとした瞬間、かかとにズキリと痛みが走った。昨日から覚えのある痛みだ。小さいころに、履き慣れない靴を履いた初日や二日目の痛み。あれと一緒。
 嫌だなあ、と思いながら歩いて、早くスニーカーに履き替えようとロッカーへ急ぐと、運悪く上司に捕まってしまう。そして、なんとしゃべりながら、ひそかに僕がメモを取っていたのを見ていたというのだ。
「あまりに熱心だったから、私は嬉しいよ!」
 と言う上司に肩を思い切り叩かれ、僕は足にまで伝わる強い力に泣きそうになりながら、上司のスピーチの続きを延々と聞かされる。通り過ぎた同僚が、青ざめていく僕の顔を見て助け舟を出してくれなかったら、僕は痛みでうずくまっていたかもしれない。
 ロッカールームで革靴を脱ぎ、靴下にこびりついた血を見てげんなりする。
 洗濯当番はアーロンだ。きっとすごく嫌な顔をするだろうな。

 ◇

「するわけねえだろ、ほら、とっとと貸せ」
 とぼとぼと家に帰り、血のついた靴下を奪い取られ、呆気に取られている僕の前で、彼はザブザブと浴室の水を張った洗面器に入れてしまう。他にもいくつか手洗いのものがあったらしく、アーロンは手際よく手と手で布地をこすり合わせていた。大きな背中で手洗いをする姿がなんとなく似合っていて、ハスマリーで日頃こうして家事をすることもあるのかな、と思いをはせる。
「あ、ありがとう……
「おら、これでいんだろ」
 かかと部分にべっとりとついていたはずの血のシミは、どうやったのか知らないがかなりうすくなっている。アーロンの周りにはいくつか洗剤が置いてあるが、どの洗剤を使ったのやら。新しく購入したらしいものが一つあるので、もしかしたらそれかもしれない。
 ズキズキする足をどうにか進めて、クローゼットから着替えを取り出した。バスルームからはまだじゃぶじゃぶと水の音がする。あの靴下、アーロンのシャツみたいに穴が開いたりして……と杞憂していたが、数分後に洗濯機に放られた姿を見れば、ちゃんと靴下のかたちをしていた。
「これまたひでえな」
 僕がソファで背を預けていると、ひょいと足を持ち上げられた。やっぱり他人にも痛そうに見えるらしい。昨日から痛そうにしているのを知っていたアーロンも、顔を歪めた。僕もとても痛い。
「消毒しなきゃな」
「んなもん風呂で洗えば治る」
「いやだよ、沁みるじゃないか」
「消毒だって沁みる」
「お風呂はもっとだ」
「今、熱々の風呂がもうすぐ沸くんだが?」
……つつしんで、入らせていただきマス」
 疲労困憊の頭に、ゆったりとした湯船が浮かぶ。この間購入したばかりの入浴剤の香りを想像した。今日は特に、肩も、腰も、クタクタに疲れている。ごくりと唾を飲み込むと、僕は観念して立ち上がり、ホルスターを下ろした。いつもは重たさなんて感じない銃も、ゴトリとローテーブルに置かれて妙に重厚さをかもし出す。
「アーロン、何もかもやってもらってるな」
「ハッ、肉はもう十キロ買ってあるぜ」
……わかった、手首も入念にマッサージしておくよ」
 これから持つであろうフライパンのことを考え、僕は長風呂をしようと決めた。
 着替えを置き、ガラリとドアを開けると、温かい湯気がたちこめて湯船が誘っている。僕はふらふらと裸のまま、倒れるように入っていった。ふわふわと腕が浮いて、足先もじんわりと温かくなって、そして、
……いっ…………ッ」
 じりじり痛いかかとに、涙目になった。小さく焼かれているような、そんな痛み。慣れるまでに時間がかかる。歯をくいしばって堪えていると、ガラガラと浴室のドアが開いた。アーロンが、スウェットのすそをまくって入ってくる。
「わ! え、ええと、なに?」
……いいから」
 適当なスツールを片手に持っていたらしく、ぞんざいにその場に座ると、もう片方の手に持っているものを、僕の目の前に見せつけた。
 それは一昨日食べたアイスで、しかも期間限定の味だった。
……アーロン……ッ!」
「口開けろ」
 僕はヒナみたいに、スプーンから与えられるアイスを、温かい湯船に浸かりながら味わった。舌に溶けてお腹に入っていくのに、不思議と体は冷えない。ストーブのまえでアイスを食べるのも好きだけど、お風呂は想定していなかった。ちょっとだらしない気分で、なんだか幸せを感じる。
「詫びだ」
 アーロンは、スプーンを刺すようにまわし、大きめの一口を作ってくれる。そしてそれを僕に差し出した。
 詫び、と言われ、僕はキョトンとしたまま、その一口を受け取ってなお、目を見開いていた。咀嚼のために口が動かず、喉に溶けてすべり落ちるアイスは、ピスタチオチョコレートの香りをふんだんにまとっている。肉十キロと共に、アイスはどうやら我が家へやってきたようだ。
「足の、ずいぶん痛そうにしてっから。それも、痛かったんじゃねえかと思って」
 スプーンの先で僕の脇腹あたりを指差した。僕はゆっくり視線を動かして、そして。
 ミシン目のように、ぶつぶつと半円を描く、誰かさんがつけた噛み跡。
 ばしゃっと音がするほど振り返って彼を見れば、ニヤニヤ笑っている男がいた。
…………っ! アーロン!」
「ははっ」
 おかしそうにしながら、ゆっくりスプーンをもう一度アイスに差し込む。熱で溶けてきているそれは、僕の口にするりと入って抜けていった。あとに残ったアイスはそれはそれは美味しくて、悔しくて、でも飲み込んでしまうのだ。
 僕はそのまま彼にたてつづけに餌付けされ、満足したようにアーロンは浴室を出ていった。
 あまりにも彼なりの、彼らしいお詫び。甘い香りだけ残して去ったあとのお風呂は、気持ちがいいはずなのに物足りない。彼がいた方が、楽しいし、それに。ぶわりと浮かぶ数日前のベッドを、頭を振ってかき消して、アーロンの背中を早く追いかけよう、と湯船を出る。今なら肉を焼くのもなんでもできそうな気がする。
 時と、場所と、場合を考えずに食べるアイスクリームも、たまには良いものだなと思いながら。