戒めと、愛と

ルーク先生、ミカグラに出張講義に行く

「思い出というのは、何もきらびやかに光るものばかりではない。時として大きな教訓となることもあります。
 ──僕の場合、この胸の三本線がそうです」
 そう公安本部で話したら、一同は皆静まり返ってしまった。講師がスーツの胸元を広げて、肉の裂けた傷を少しばかりだが見せて話す授業は、医学でも公衆衛生学でも何でもない。生徒の一人が手を挙げて、「あなたの今までで一番素晴らしかった思い出」を聞かれた、ただの質疑応答の場、だ。
 この圧倒的な銃社会において、弾丸で穿たれた皮膚の痕ではなく、獣に引き裂かれたような三本のラインを胸から腹にかけて持つ青年。大きな幅と深さ、滲んだ血は思ったほど出てはいなかった。講師はそれでも、治療に際し顔を歪めた医師のことははっきり覚えている、と当時を懐かしむように苦笑気味に言った。
 怪盗ビーストと対峙して、無事であったとは到底言えない傷を作った講師は、薄く笑ってシャツのボタンを閉める。一つ、また一つと布地が合わさるたびに、清廉な体に戻っていく。生徒は皆ほっとしたが、間をもたせるために、周りとの世間話やくだらない会話でやり過ごすことはできなかった。誰もが口をつぐんでいる中、朗々とした声が響く。
「あ、ええと、勘違いをしないでほしい。思い出だとは言ったけれど、傷を負ってでも生還したことが勲章ものだ、とかそういう意味じゃない。それに、戦争で得た傷は決して誇りではない場合も多いし、死ぬことで階級を昇ることを、僕は絶対にオススメしない」
 ネクタイまできちんと締め、彼は卓上の用紙をめくった。しかし彼は、あまりその紙を見ながら話している様子はない。前を向き、生徒一人一人と目を合わせながら、柔和ながらも凛とした言葉をかけている。開始時、生徒たちはその姿勢を「プレゼン資料は読み込んだってことか」「エリートらしい鼻にかけた行動だ」と心で揶揄していた。講師が教室に入ってきた時も、そうだ。一同は不思議な顔つきで彼を見守った。愛想笑いと優しそうな顔つきでペコリとお辞儀をして、話し出す時は水の入ったペットボトルを肘にぶつけて落としてさえいて。不安になる。こんな青年が国家警察をやっているリカルドは大丈夫なのか、と。
 悪態を心に住まわせていた彼らは今や、姿勢を正しくしている。ペンのこすれるメモの音、続いて生徒の息を飲む音。大勢が座っている、教壇を取り囲むような観衆席は、じっとりと汗ばみながら青年の熱弁を受けていた。
 熱、というほど彼に堂々たる威厳があるわけでも、勿体ぶった言い方をしているわけでもなく。犬面の、どこにでもいるような地味な成人男性、それが今日の講師だ。
 ただ彼の言葉には、言い表せない重みがある。生徒たちは誰もが、そう感じた。大ぶりな胸の傷を見せられ、怯んだのもある。しかしその傷を優しく、愛おしげに、何度もさすりながらシャツを戻していく仕草に、じんと痺れる空気を感じた。あんな深手を負ってなお、それを「思い出だ」と目一杯の情感を込めて言ってのける彼に、生徒たちは誰も横を向いたり机に突っ伏して居眠りをしたりせず、夢中になった。
 真摯な言葉の中に鈍く光る説得力は、そっと心に寄り添うように、あるいは心臓を押し潰すように人々の中に忍ぶ。
……僕も、自分の身をかえりみずに下手を打って、度を越した自己犠牲を諭された身です」

 あれは、寒い冬だった。彼は話し出す。
 雪が降って、犯人を追いかけながら凍えそうな空の下を走っていた。講師である青年は急いでおり、かじかむ手をさすりながら捜査に当たったという。行方をくらませた犯人を再び見つけるために、霜焼けになりかけた指先を本部に戻って温めながら、防犯カメラで追跡する。緊急指令が入った音を聞いた、同僚が場所を突き止めたらしいとわかる。青年は素早く一番に行動をした。犯人は倉庫にいた。震えながらナイフを向けられ突進してくる犯人に、青年は拳銃を構えた。仲間が刺されそうになる。引き金を引く。指はまだ冷えから回復しきっていなかった。それでも犯人を追い詰めた。しかしその狂気はこちらに向けられる。自分はどうなっても、仲間を守りたかった。突き飛ばした仲間は派手に横転する。仲間の驚いた顔を横目に、青年の肩口を犯人のナイフが掠めた。犯人が混乱し、憔悴しきっていなければ、青年の心臓は背から一気に貫かれていた。
 仲間も、上司も、青年を責めなかった。当たり前の行動で、勇気ある判断だと褒め称えられた。けれども青年は浮かない顔をした。
 ただ一人、きっとあいつは僕を責める。それがどうしようもなく苦しい。家に帰り、久しぶりに向こうから連絡が来た。包帯が目ざとく見つかり、観念して全てを話した。受けた言葉はたったの一言。
 ──何、やってんだ、ルーク。
「リモート越しの、青ざめた彼の顔は今でも脳裏に浮かびます」
 講師は眉を寄せて、今まさに深々と傷を受けたかのように歪んだ顔をした。壇上に置いた拳を強く握る。下に敷かれた資料がわずかにグシャリと形を変える音がした。あまりに静かな音だったが、生徒たちにはわかった。
「大切な人に、あんな顔をさせることは、してはいけなかった」
 ミーハーで噂が好きな端の席に座っている女子さえも、今の話を聞いて色めき立たなかった。固くなる講師の顔をじっと見つめている。
「この傷は、僕がテレビに出てくるような、大勢を救う素晴らしいヒーローである前に、身近な誰かを守るための力しかないことを教えてくれました。そして、この傷の主は」
 とん、と自分の胸を叩き、講師は続ける。
「その守るべきものの中に、僕自身も含まれるということを、どうか忘れるなと、言ってくれました」
 
 ◇

 ルークはオフィス・ナデシコで胸を撫で下ろしていた。煌々と揺れるブロッサムの光を目に染み込ませながらも、心はどこか上の空でバルコニーから下の景色を眺めている。手に持ったホットワインにシナモンスティックを差し、くるりと一回転させると、アップルパイにも似た香りがする。「ぶどうの品種が特殊でな」とナデシコが言うように、赤ワインの渋みが控えめに抑えられたミカグラの限定ワインは、今日のためにナデシコが取っておいてくれたものらしい。
「君はずいぶん情熱的に話すんだな、びっくりしたよ」
「はい、ああ、ええと……つい、夢中で。自分でも、その……
「『まさか、恋人に叱られた話をするなんて』か?」
……ははは」
 艶のあるナデシコの黒髪は、ブロッサムのライトを吸収して取り込むような妖しさがある。肩口で切り揃えられたきれいな髪を眺めながら、ルークは頬を掻いた。
「今日はありがとう。素晴らしい講演だったよ、講師どの」
「やめてください、僕の話をしてほしいだなんてメールをもらった時は、本当に肝が冷えましたよ」
「ふふ、その割に猛練習したそうじゃないか。本部の仮眠室で読経のようにぶつぶつ呟く姿は、なかなか見ものだったらしいぞ?」
「うわ、それ、警部が告げ口したんですね……
 ナデシコの依頼は国家警察を通じてだった。新しく配属された警部がデスクにルークを呼び、「……ということなんだが」と言葉を切った後、ルークのプライベートのタブレットに、ナデシコからのメッセージが来たのはほぼ同時だった。「断る権利はないぞ」と脅されているような気がして。ルークがこっくりと深く一つだけ頷いた時、彼女の妖艶な笑みが思い出された。
「将来有望な我がミカグラ警視庁の、警察学校の生徒たちも鼻息を荒くして帰っていったな」
「彼らの為になるような話ができていればいいんですけどね」
「きっとなっているさ。少し心配だったんだ、若さ故に突っ走る傾向のある子らが多かったから」
 輝く宝石のような街に似合いの、キラキラとした目をした生徒たちだった、とルークは思い返す。一人一人の顔をつぶさに見てみると、なるほどナデシコの言うように血気盛んな様子があるのか、質疑応答の多さも、またその内容もいささか過激さを含むものもあって。彼らの勢いにたじたじとしていた最中に冒頭の質問がきた、生徒なりに他国から来た青年講師に気を遣ったのかもしれない。
「また頼むことがあったら、その時はよろしくな、ルーク」
「え! そんな……
「毎年恒例にしてもいいくらいだ」
 カラカラ笑って背を叩かれる。ルークは引きつった顔のまま、それでもやはり真面目なので、資料は家で保存しておかないと、と万一の来年の依頼に備える覚悟をした。
 バルコニーのテーブルに置きっぱなしだったタブレットが震える。ナデシコは画面をチラリと盗み見て、「おや」と面白がった。
「早速着信だ、君の勇姿を聞きたがっているんだろう」
「からかわないでください……ナデシコさんも、出ませんか? 彼もきっと喜びます」
「どうかな、『ルークとの時間を邪魔すんな女』とでも言いかねないぞ?」
「ほんと、アーロンの真似がうまいですよね」
 くつくつとおかしそうに笑うナデシコは、飲み干したワイングラスを片手にバルコニーを出る。「出ないんですか?」と不思議そうなルークに振り返らず、早く通話に出てやれ、と手だけで促して。
 ……大きな窓を閉めた外側から、今日一番の弾んだ声が聞こえる。ナデシコは肩をすくめた。柔らかく、解けるような様子を見るのはいつぶりか。あれは確か、ルークがものすごく照れながらアーロンとのことを報告をしてきた時か。律儀な男だ、と思う。同時にチクリと、昔の恋の面影が胸に虚った。
 気は早いが、来年のスケジュールに「LUKE」と書き込む。今度はここに、「AARON」も付け足してみようか。きっと二人であれこれと話しながら進める講義は人気だろう。実技も為になるかもしれないが、アーロンの技術は生徒たちにはきっと盗めまい。
 こんな未来を想像して笑う時が来ようとは。ナデシコはデスクに座り、まだ残っている特別なワインをゆっくりと注いだ。