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gib_fox
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アロルク
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名前のないある日
本を読むアーロンの話
「今回は何冊借りたんだ?」
「六冊、まあまあだろ」
僕はその本の数を聞いて、今回の滞在で必要な肉の量を計算できるようになった。
アーロンが読む本は農学、工学、天文、地理、と幅広い。主にハスマリーのこれからを考えるための学びであったり、興味関心のある星の話が中心になったものを書店で購入したり、図書館で借りたりする。
市の設立した図書館へ行く頻度は週に一度、数冊借りるだけの日もあれば、借りられる限度いっぱいまで借りる日もある。後者の場合、僕の家での滞在がかなり長くなる時だ。そうなるとアーロンは、どんなに天気の良い日でも外にはあまり出ない。読書の合間に庭や近所を歩くことはあるらしいが、長居をして身バレしても困るからという理由で、僕が買い物を頼んだりしない限りは家の中だ。
昼間職場に出勤して僕がいなくなる家は、どかどかとアーロンの本が山のように高く積まれ、リビングは小さなブックカフェのようになる。手に取りやすい位置にケトルとインスタントコーヒーを置き、ソファにはクッションが一つ、カーペットは掃除機をしっかりかけて足触りを良くしておく。クッションは僕が帰る頃にはへたっていて、ソファにもアーロンのぬくもりがはっきり残っている。彼の大きな裸足を置いていたカーペットは、すっかり毛足が横たわっているのだ。
「何だか小さい子犬が二匹、ここで寝ていたみたいな跡だな」
「お前以上のパピーを飼ってどうすんだよ、オレの手間が増える」
「君の肉を焼いてるのは僕だぞ?」
「だったら、ご主人様とでも呼べばいいか?」
「
……
ちょっと面白そう」
「テメエ」
アーロンは、時折庭のハンモックでも本を読む。季節は秋に差し掛かり、肌寒くなってきたとしてもだ。その時は文庫本がほとんどで、室内で読むような図鑑や参考書レベルの分厚い本は持ち寄らない。文庫本なんて一体何を読むんだ? と覗き込んだら、真剣なエメラルドの瞳とかち合ってタイトルは見せてもらえなかった。どうやら気恥ずかしいらしいから、もしかしたら冒険小説やファンタジーにハマっているのだろうか。意外にも恋愛小説だとしても、何とはなしに頷ける。アーロンが僕を翻弄する恋愛テクニックがすごいからだ。すごい、の内容は憚られるので割愛させていただく。
日の当たるハンモックの中は昼寝に最適の場所だが、アーロンは眠らなかった。じっくり本を読んでいた。僕だったら数秒でうとうとする場所が彼にとってまた違う使い方をされている。
そしてハンモックで揺れながら読んだ後は決まって、清々しい顔をして立ち上がり、伸びをして、機嫌が良さそうに鼻歌をうたう。手に持った空瓶をテーブルに置いて、新しい炭酸の瓶をストッカーから取り出した。瓶の中身はシュワシュワと、アーロンと同じように楽しげに泡が踊っている。僕まで上機嫌になるその行動に、今夜の食事はとびきり上等なのにしようかなと考える。
「待ってくれ、結局僕が食事のことを考えているぞ。世話をしてるの、やっぱり僕なんじゃないか?」
「その割には楽しそうに野菜刻んでんじゃねえか」
「
……
君がご機嫌だったから、つい。何だかいつも君にうまいこと乗せられてる気がするよ」
「作るのが上手いヤツがやった方が、飯はいいに決まってる」
「
……
ほらまた、そういうことを言う」
ハッ、と笑って僕の頬にキスをくれる彼は、本を元の場所に戻しに行った。お腹が空いているよきの獣はいつもならこんな行動をしないのに。ハンモックで本を読んだあとは決まって眉間のシワがない、それは僕らにとって平和をもたらすから、とても良いことだった。
食事を取るスタイルは自由にしている。僕が仕事を持ち帰ってしまって、片手にフォーク、片手に資料、という日だってあるから。アーロンが子どもたちと会話をしながら、という日もある。そして、借りた本が多い時は読書しながら食べることもあるわけだ。
本に汚れがつくのでは、と思うが彼はきれいに食べる。ソースなんか絶対に飛ばさない。気になった内容があれば食事をそっちのけにすることもしばしばだ。買ってきたビールやワインを傾けながら、目は文字を上から下へ、ゆっくり追う。膨大な情報量を含む本を勢いよく吸い込むように食いついてみる時もあれば、何度も同じページに戻ってみることもある。今日は咀嚼に時間のかかるタイプの本のようで、難しい顔をしながらサラダのレタスを瑞々しい音を立てて噛んでいた。
アーロンの横顔を眺めながら、彼は早くに老眼になるかもな、と未来のことを想像する。目が良すぎると、衰えも早いらしい。同僚が親に眼鏡を選ぶと言っていた際にその話を聞いた。僕は恋人のことがバレないように興味のないフリをしたが、誰よりも真剣に心に留めた。
そんな将来を心配してハッとしたが、僕は何年先もアーロンと一緒にいるつもりで考えを進めている。彼も同じ気持ちだといいが。僕の食事はあらかた終わったので、再び眼前の恋人の顔を飽きることなく眺めた。
「見すぎ」
そう言われて額を小突かれる。皿の上のミニトマトのヘタはすっかりくたびれて、ステーキのソースは固まっていた。赤くなった顔を隠すように立ち上がって皿を片付けると、アーロンは少年時代の面影を残したくすぐったそうな笑い方でこっちを見る。そのまま彼が再び本に目を落とせば、昨日僕が噛んだ弱々しい歯形が鎖骨から覗いてた。
存外、僕らの間に会話は少なかった。初めて同居をした頃はそれなりに会話を絡めてべたべたと一緒にいたが、お互いにやりたいことがあるならば必要以上に話さない。
寂しい、と思うことはあまりない。身体的触れ合いが昔より増えたからかもしれない。それに、彼にとって必要な時間がこの場所で取れる、ということは喜ばしい。ハスマリーへ帰ればこんな自由には動けない。子どもたちの面倒を見るし、大人たちとも今後を話し合わなければならないし。アーロンはどうしたって、あの地に必要な人間なのだ。
ここに来たときくらい、わがままも許している。好きなタイミングで好きなことをしてほしい。
「だからって、そんなにひっつかなくても」
「寒ぃんだよ、この国はよ」
「昼間ハンモックにいたから、体が冷えたんじゃないか?」
さみぃさみぃ、と何度も繰り返しながら僕の体に巻きついた大きい体は、寒いと言うわりに僕にとってはぽかぽかと温かい。今日は本当に、いつにも増してご機嫌な様子だ。
「なあアーロン、なにかあったのか?」
「
……
なんでそう思う?」
質問に質問で返すのはアーロンが少し言いづらいことがある証拠だ。ソファの上で、僕の体に背後から絡みついてる腕と脚が、ぴくりと動いた。
「君が、とても嬉しそうに見えてさ」
「ああ
……
まあ、な」
教えてやるよ、と笑って、アーロンは種明かしをしてくれた。取り出したのは一冊の文庫本。背表紙を見れば僕にはわからない難しい単語、専門用語のようだ。そして作者は、
「
……
ダン・バーンズ?」
「偶然な、見つけた。本を出してたなんて、ガキの頃は知らなかったけどよ」
学会発表や研究成果の報告などで、博士がよく頭を悩ませていたのは知っていた。人前でプレゼンをしながらポインターを握る練習をしていたことも。博士が不慣れなわけではない、あの研究は世界的に異例のことで、緊張していたからだ。
発表されていれば、もっと世界は混乱を極めたかもしれない。善と悪の境目で、人々は研究所の噂を膨らませただろう。運が良いのか悪いのか(僕らにとっては非常に悪かったが)世に広まる前に爆破されてしまう。
「直接的な内容はここには書かれていねえから、感情の研究を始める前の本だとは思うぜ」
もともと脳科学に権威のある博士だ、心理学やそこに関わる脳のつながりについて、なんていうのを出版してもおかしくはない。アーロン曰く、案の定そんなような内容だった。嬉しそうに綻ぶ彼の顔はハンモックから降りたときと同じだ。
さて僕はごまかしているが、博士の本だと知って少しばかり緊張している。博士の名前が出た時点で、だ。
あの頃の記憶は未だにぶつぶつと切れている部分もあるし、不明瞭なところも多い。アーロンが思い出すような鮮やかなものは僕には少ない。
けれども感情だけは覚えている。
僕の恋人にとって、やはり家族という枠組みはいつだって特別だった。そこにほんの少し溝を感じている。何でも知りたい子どもの恋愛ではないのだから、全てをアーロンが伝えてくれるとは思っていないし、僕自身も望んでいない。だからその溝はあって然るべきだ、と思っていた。
彼の記憶力が抜群に優れていたり、野生的と思わせておきながら博識なのは、彼がもともとお父さんから教育を受けていたから。幼い二人で遊び歩く毎日の陰で、文字も、雑学も、僕は彼から全て教わった。当時まだ頼りなかった手のひらが僕の手を持って、一緒に紙に文字を綴る。「これはA、これは
……
Bだよ」と教えてくれる優しさが含まれた言い方は、博士と同じ。ありがたく思いながら、僕は彼らと過ごしているけど、彼らと家族ではないんだな、とうっすら心に秘めていた。
そして今、アーロンが大事にしているハスマリーにいる孤児とアラナさんとも、立ち位置が違う僕。
「
……
ときどき、本を読む君が眩しく感じるよ」
食べたばかりのお腹をさすってくる手のひらの心地良さに惹かれながら、僕は首だけを後ろへ回して彼を見る。
優しいキスを数度しながら、「なんでだ」と聞かれて、ううん、と身じろぎする。鼻筋の通った骨の先で鼻頭同士を擦り付け合う、獣の甘えた行為に僕は弱い。観念して話し出す。
「君はやっぱり博士の血を引いているんだな、って思うし、ハスマリーの皆にとって頼れる兄弟なんだな、って」
「
……
フン」
「読む内容が難しくても咀嚼できるのは、博士の教育の賜物だろ?」
覗き込む緑の瞳にやや気圧されながら、僕は話を続ける。
「それに、専門的な知見を得るのはハスマリーの未来のためだ。この家にいる間は君の自由に過ごせるのに、常に祖国を考えて勉強し続けている
……
眩しいよ」
「褒めるんなら、もっとそれ相応の顔をしろや。置いてけぼり食らった犬の顔してんぞ」
「置いてけぼり
……
うん、そう、かな」
そのうち鼻の頭を齧られる。甘い痛みに眉根を寄せていると、アーロンの濃いまつげが頬骨に当たる。ぱさぱさとくすぐったくて、ふは、と笑えば、同じ場所とまぶたにキスが降りた。
「そんならテメエだって、毎日仕事してるだろが」
「
……
まあ、そうなんだけどさ」
「一緒だろ、変わんねえよ、何も」
自分のことはすっかり棚に上げてしまっていた。そういえば、そうだな。
彼がここに休暇として過ごしている間も、僕は出勤する。事件を追って捜査をする。かたやアーロンは普段できない形で故郷を救うための手がかりを探る。
僕らは毎日同じようにヒーロー活動をしている、ただその手段が違うだけ。それは家族にはできない、相棒だけの唯一無二の特権。
僕が勝手に感じていた溝は、「変わんねえ」というアーロンのたった一つの言葉で簡単に埋まっていく。
「君はいつも、僕が欲しい言葉をすぐにくれるんだな」
「
……
何もやってねえぞ、お前が勝手に自己解決しただけだ」
アーロンはそれでも、くしゃくしゃと僕の頭を撫で回した。「夏の麦畑みたいだな」といつか言われたことのある髪は、彼の指にするすると嬉しそうによく絡まる。細胞の一つ一つが彼との触れ合いを喜んでいるみたいだ。
「君のおかげと言えば、僕が国家警察の試験に受かったのも、君に文字を習ったからかもな」
「ほお、そりゃ謝礼が必要だな」
「もう今日は肉は焼かないぞ」
チッ、と本気なのか冗談なのかわからない舌打ちをされるから恐ろしい。彼の胃袋は誰に似たんだか、少なくともバーンズ博士はそんなに食べていなかったはずだ。後天性で鍛えられた胃なのかもしれない。
「明日焼け、特大のやつ」
特大。僕はのけぞりそうになる。いつだって無理難題を言って甘えてくるのも、相棒の特権なんだろうか? 仕方ないな、と肩をすくめて、ふと思い立つ。
「なあ、フライパンじゃあのサイズを焼くのは大変だから、ホットプレートを買おうと思うんだが」
「お、いいじゃねえか」
僕らは家電メーカーのサイトを探る。そもそもホットプレートで焼けるのか、と疑問が生まれ、作ったことのある人の口コミを今度が眺める。そこに美味しそうなレシピがあったからメモをして、またその食材がどこで手に入るのかを調べて。
背中に伝わるアーロンの体は、相変わらず寒さなんて気にしてなさそうなくらい温度を持っているのに、当の本人はまだ「寒ぃ」と文句を言う。そのうちブランケットを取り出しぐるりと羽織って殻に二人を閉じこめた。薄暗くなってきた部屋の中でタブレットを読みながら、何となく、庭のハンモックにいるような気持ちになった。アーロンもこうして、博士の書いた本を読む時、温かい気持ちになっていたんだろうか。
不意に、ふふ、と笑えてくる。
ホットプレートは何年も使うことになりそうだから、頑丈そうなのを選ぼう。買い替えもしやすいように、よく見るメーカーの物にしようか。そうすれば、どの家電量販店でも相談しやすい。片付けも楽になるなら、よりアーロンが読書に集中できる時間が増えていい。パンケーキを何枚も焼いたら、怒られるかもな。
少しささくれていたはずの気持ちはいつの間にか落ち着いて、もう一度アーロンを振り返った。渋い顔で、タブレットの中の家電を比較して見ている。彼の目先にも僕と同じく、長く使えそうなのはどちらか、という基準が組み込まれているんだろうか。難しい本を読むように真剣に選ぶその表情は、僕の心をくすぐる。
僕は今こうして彼を想って温かいから、まるで湯たんぽのようになりつつあって、寒がるアーロンの役に立てるだろう。今はそれがたまらなく嬉しい。
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