出られない部屋の話

アーロンの出られない部屋(比喩)の話、イアンが出てきます

 オレはスコッチを流し込み、隣の男をギロリと睨む。てんで気に留めずニヤリと笑う顔つきは、出会った頃より数倍はマシな表情ではある。不正と信条の間で曇ってもいないし、誰かに操られて瞳孔を見開いてもいない。機械の体をさもおかしそうに揺すり、ゆっくりウォッカをロックで煽る男──イアンは書類を整えてカウンター端へ寄せ、
「以上が本題だ」
 と述べた。
 イアンのグラスの氷がカラリと揺れて、レモンと塩の混ざるその飲み物のわずかな柑橘の風味がオレの鼻をくすぐる。
「俺にまでこんな役が回ってくるとはな、ビースト。ずいぶん貴様は、いや貴様らは、愛されている」
 コイツの口から愛とかいう言葉が出てきただけで寒気がする。わざとわかりやすいように寒がって見せれば、イアンは笑う。ずいぶんと表情が豊かになったもんだ。
 ……聞けば、機械で覆われて今はもう無き半身は、相棒を戦場で失った時の成れの果てだという。「愛というには拙いが、奴と戦場で培った信頼はそれに近いだろうな」とはるか遠くを見る目にそれ以上は何も聞かなかった。だから愛を語るにはしばしば互いに「らしくない」という暗黙の了解があると思っていたのに。
 ナデシコの署名と印鑑のついた薄っぺらい数枚の用紙が、イアンの横でヒラリと揺れる。
『エリントン周辺での、ハスマリー政府軍残党の情報』
 オレの、喉から手が出るほど欲しかったそれ。ナデシコから連絡を受けてここに赴き、イアンに再会して情報を受け取った、ミカグラ警察が抑えた重要機密。まだ腐敗のはびこるリカルド国家警察の内通が発覚したこの事実は、内側から揉み消されようとしている。行手にさまざまな危険があったであろう道を、ここまで無傷で来られたのはひとえにイアンだから。なるほどナデシコの人選は正しい。
 そんなこと造作もない、といった顔のイアンは、ハスマリーの乾いた風を受けて戦場を懐かしがる。寂れた隣町のバーで傾けるウォッカに、さらに情を募らせている。この環境下でのその一杯は、一体コイツにとって何年ぶりのほろ苦さなんだろうか。
 そんなセンチメンタルになんの魔が差したのか──書類を説明し終えたというのに、最後に書き足されていたナデシコのメッセージをイアンが再度読み上げるときには、すでに忍び笑いを漏らしていた。
 この文章を読んで、愛されてるだのと抜かすイアンの気が知れない。
「追伸、迷子のキティ。この案件は比較的エリントンの三番地に近い。ちゃんと寄っていくように──か。本当におかしいな」
 忌々しげに舌打ちするオレを、イアンは二人分の追加の酒を注文することで宥める。

 エリントン三番地の街並みは、脳裏にはっきり焼き付いている。
 春めいた空気に街路樹は萌え始め、芝生を手入れする者とすれ違う。ゴミ収集のうるさい車ががしゃがしゃとスチールのバケツを鳴らして、そこに溜まったゴミを車へ放っていく。収集車が去り、きれいになった跡地を横切り犬の散歩をする年寄りたちが、群れて井戸端会議をしている。
 ふとその一角の家から、パタンと玄関のドアが開いて外に飛び出し、こっちへ走ってくる奴がいる。部屋着のまま、オレが連絡を寄越したのを今し方見たであろうタブレットを片手に持って。大慌てで蜂蜜色の髪を振り、頬は赤く染めて。その顔は驚愕と嬉しさと、あとはどんな感情で埋め尽くされていただろうか。は、は、と息を切らして「アーロン」と言う声は、喜びで震えている。
「急に連絡するのやめてくれよ。心臓に悪い」
 決して怒っているわけではない、温かいエメラルドの目を細めて、言葉の後にうっとりと笑う。
 こうやって、アイツの全てがオレに向かって「好きだ」と叫んでいるというのに、そして現に言われたというのに、オレは未だに返事をしていない。

 それをなぜか知っている詐欺師、おっさん、ナデシコから、不本意ながらオレは「迷子のキティ」と呼ばれてる。
「よってたかって全員で……オレにいちいちつっかかりやがって」
 ルークからの愛に戸惑うな、とでも言いたいんだろう。
「何を迷う?」
 苦境も困難も幾度も乗り越えてきた深みのあるイアンの瞳は、部下に問うようにオレを誘導する。
「迷ってなんかいねえ。相棒だが、恋人じゃない。これが全てだ。ルーク──アイツこそ気の迷いを起こしてんだろ」
 ガタリとスツールを下げて立ち上がり、イアンはオレを上から見下ろした。相変わらず見る目は優しいが、表情は軍人の固さ。
「貴様のそれは、まるで呪いだな。たった一言、好きと言うだけで出られる部屋だというのに」
……っ、テメエの口から愛だの好きだの、寒いセリフは聞きたかねえな」
 似合わねえ、と一瞥してグラスをかざし、勢いよく喉を潤す。後から焼けるようなアルコールの温度を感じて、身震いした。
「フン、そうだな……似つかわしくないかもしれん。ただ、」
 厚みのあるグラスを傾けて、イアンはオレと同じように液体を飲み干し、軽く息を吐く。
「後悔はするな、とだけ言っておく」
……ハッ、後悔ね」
 そんなものなら、山ほどある。
 あのとき、火災から逃げおおせた自分とヒーローがもしも病院に行けていたら。自分がヒーローを救えるほどの力があれば。ガキどもの命がなぜ失われるのか。オレにもっと、守れる力を。
 考えたところで何が変わるわけでもない、それでもひたすら考えてしまう毎日だった。強くなくてはいけない日常は、いつか本音を隠すことを覚えた。ガキどもとアラナを不安にさせるわけにはいかなかった。目まぐるしい時を、それでも超えていかなければならなかった。
 そこにただ一つ、積み重なるだけだ。
 イアンは深く沈むように思いを噛み締めているオレの横で、重厚なコートを取り、二人分の金を置く。歩くたびに古い床がミシ、ミシと鳴る。イアンが本気を出せば、こんなバーはものの数秒で崩壊するな、と物騒なことを考えた。
「そうか、後悔は数多あるか……それなら、こんな機密情報を聞いたとしても、貴様なら揺らがないだろう」
 イアンはオレを見ずに言う。機密ならもっと近くでコソコソ話さなきゃダメだろ、と思うが、コイツはそうする気は無いらしい。バーの中でただでさえ目立つ長身二人の会話に、飲みにきていた客の視線が集まっている。ゴクリと唾を飲む音も聞こえた。
 いや、この音は、オレの中から響いたか?
「ルーク・ウィリアムズに、どうやら見合いの話があるようだ。と言えば?」

 ◇

 ……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!
 ハスマリーの大地を蹴って走る。オレは今だけ脚が野生動物になってくんねえか、と願った。クソみてえな鉄クズに乗ってイライラしながら窓から外を見ているとき、鳥になれたらどんなにいいか、と思った。
 エリントン行きのバスに乗るなんざじれったくて、雨ざらしのまま走り抜ける。
 飛行船を降り、その足でナデシコのくれた機密通りに政府軍の残党を狩り、ハスマリー行きの貨物船のコンテナにぶち込んだ。これで国家警察にオレは貸しがある。今からその恩をアイツに──ルークに売りつけに行くだけだ。

 三番地にある家を、玄関を壊す勢いで開けて、朝食のシリアルを頬張って驚いているルークの背中を折れる勢いで抱く。椅子ごと抱え込んでいるからバキバキと不穏な音が鳴り、ルークに「待ってくれ、アーロン、椅子ごと僕も折れる! なあ!」と朝に似合わない大声でオレを制して前を向かされた。顔を見られたくないオレは、その肩に頭ごとうずめる。甘ったるくて清潔な、コイツの匂いが広がった。
 そうだ、決して後悔したくないからじゃねえ。ただ一言、ナデシコから頼まれて引き渡したい件があったからで。テメエがもたもたしてる国家警察の腐敗を晴らす、って野望に一役買ってやったぜ、と、鼻で笑ってやるつもりだったのに。
「アーロン、本当にそれだけの理由なら、君はこんな顔して来ないだろ?」
 ルークの澄んだ声は、暗にオレの訪問が何を意味しているのかを知りたい、と言葉を含んで放たれる。
……断れよ」
「え?」
「見合い、断れよ」
……え、どこで聞いたんだい、それ、内緒にしてたのに!」
「イアンだ」
「意外な出どころ……! 何でイアン……?」
「なあ」
「あ、ああ、何だい?」
「断るんだろ」
 ……長いため息をついて、ルークはオレの背中をするりと撫でた。
「アーロン、僕が好きなのは君だ。断るのはわかってただろ? ……もしかして、不安に思ってくれたのか?」
「うるせえ」
 ルークが、ふふ、と笑っているのがかすかな振動でわかる。
「君、今、体温が上がっただろう、体があったかくなったぞ」
 なんて言うから、もう一度「うるせえ」と喚いて薄い服越しに肩をガブリと噛んでやった。
 うるせえ、うるせえ。バクバク鳴ってる心臓は、いつからかどっちの音がわからなくなった。左胸同士が重なっているから、まるで溶けて一つのかたまりになったように同じ鼓動を繰り返す。
「アーロン、僕は自惚れてもいいのかな、君に好かれてるってことを」
……いちいち言わなきゃわかんねえのか」
「そうだ、君の分まで僕が言おうか。アーロン、君が好きだ、君が好きだ、君が好きだ」
「あー鳥肌立ってきた」
 ひどいなあ、と笑う頬がオレの首に当たっている。ぬるい温度を持つそこは、前よりも痩せたような。オレの髪を柔らかく梳く手も、心なしか細くなったような。
「肉」
「今から⁈ たしかに今日は休みだから買い物は行けるが……まだ朝だぞ?」
「テメエが食うんだよ、んな貧相な体で何がヒーローだ」
「貧相って……
 げんなりした顔つきでオレを覗くルークは、しかし次の瞬間にはもう目を合わせて微笑む。まるで猫のように、オレの顔に頬を擦り寄せてきた。まだ嬉しそうに笑ってやがるから本当は額を小突いてやりたかったが、今日はオレの機嫌が良いから許してやることにした。
 そして。
……ありがとう、アーロン」
 呟く声量は小さいながら、はっきりとオレの耳に届いて収まり、二つの心臓はもう一度同じく脈打つ。
 抱き合う腕の中と並んだ心臓の音は、まるで小さい箱の中に二人で押し込められ、時を刻んでいるようだった。