犬と猫の話

犬のスモと、猫のローと、人間たちの話

犬と猫の話




人間のロー……記憶あり、離婚歴一回の医者。犬のスモーカーを見つけたときに離婚を決意した。
犬のスモーカー……記憶ありだけどまだ半分くらいしか戻っていない。目に怪我を負っている、真っ白いウルフドッグ。

猫のロー……記憶なし、捨てられていた猫。
人間のスモーカー……記憶あり、独身で多忙な日だったのに猫を飼ってからきちんと帰るようになる。









(犬)

 視線を感じた。今週でもう三度目だ。
 感覚を頼りに、視線の刺さる方角を探り当てる──と言っても、いつもと変わらない位置からその視線は下りていたからすぐにわかる。焦茶色の木枠に、グレーがかったガラスがはめられている窓から。今日も、金色の二つの目玉がじっとこっちを見下ろしていた。
 真っ黒な毛並みの猫だ。犬である自分に比べたら大柄でもない体のくせに、態度だけはふてぶてしい。
(いけ好かねェな)
 おれは鼻を鳴らしたが、歯茎までは剥かない。視線が合うとあの猫はちょっと驚いた顔をして、ゆっくりまばたきをするからだ。てっきりおれのことが嫌だから睨んでくると思いきや、そういうつもりで見ていたわけではないらしい。
 おれの後頭部を、人間の手が覆う。
「どうした?」
 飼い主の手だ、少し乱暴にガシガシとかいてくる。
 この季節、ランニングをしたあとのこいつの手は冷たい。一瞬だけひんやりとした。冷たい風は、きっと毛皮のない飼い主の体をすぐに冷やすだろう。こいつは寒いのに服も着ないで部屋の中をうろつく癖があるから、今日もそれをやられたら困る。間違いなく風邪を引く。風邪を引くと人間は弱くなるから面倒くさい。
 おれは窓から視線を外した。あの生き物の視線をまだ感じる。おれが飼い主をとっとと家路へ誘導しても、首の後ろのあたりがちくちくと痛んだ。
 いけ好かない。いけ好かないが、今日も己を堪えた。おれには役割がある、この飼い主を連れて帰らなければならない。
 案の定飼い主は帰宅して靴を脱ぎ、裸足でフローリングを歩いていた。ソファに移動して横になったあと、必ずおれを呼ぶ。
「スモーカー」
 いまだに呼び慣れない言い方でおれを呼んで、横に来させて暖を取るのなら、最初からちゃんと靴を履いたままでいればいいのに。おれは犬だが、呆れてため息をついた。

 飼い主はローという。だらしない姿をよくおれにさらしているが、こう見えて医者をやっている。
 毎朝早くにコーヒーショップへ向かい、外のテラスでコーヒーを飲む。朝飯は取らない。おれは餌をもらいながら、店員が運んでくるコーヒーの湯気を見ている。あの煙のようなゆらめきを見るのが好きだ。どうしてかはわからない。誰かが横でタバコを吸うときも、じっと眺めるクセがある。ローはそれを、どこか遠い目で懐かしそうに笑って見ている。おれの真っ白い毛並みに隠れた、左目に走る傷跡をなでてくる。この傷は、ローに拾われるきっかけになった傷だった。
「あ、あの!」
 女性店員が二、三言ローに話しかける。そのときの店員の表情は大体いつも一緒で、他の客と接するときよりも顔が赤い。話す内容が一昨日より、昨日より具体性を帯びてきて、
(ローを誘ってんのか)
 とわかる。そしておれは重ねた前足にあごを乗せた。この先の顛末はすぐに想像がつくからだ。
 ローはわざと自分の左手の薬指をなでる。そこには少しの間、つけていた指輪の跡がある。おれを拾うよりまえに、数年間だけ結婚していた女との誓いの跡だ。
「まだ彼女を忘れられないから」
 というフェイクを見抜けない店員は、がっくりと肩を落として店の中へ引っ込んでいった。
 おれは一部始終を見ながら、またため息をつく。ローがこっちに「なんだよ」と視線を投げる。
 飼い主ではあるが、おれはローのことを──世話になっている恩を抜かせば──人間の中でもかなりひねくれたやつだと思っている。
 まっすぐな愛情は絶対に受けない。今みたいに声をかけられることがあっても、適当な嘘と方便で言い逃れる。彼女を忘れられないなんて最もひどい。
 ローはその彼女とやらとの結婚を、「政略結婚みたいなもんだった」と言っていた。相手も医者で、医師界でもベストカップルだと祝福されたらしいのに。
 ローはなにを思ったのか、保護犬であるおれを見た途端離婚を決めたのだ。そのせいでこいつはこんな地方に飛ばされた。
 けれど海が見え、雪が降るこの街をローはいたく気に入っている。広いドッグランはあれど都会の騒々しいざわめきと狭いマンションより、短い夏を目一杯謳歌する草花のある庭つきの戸建てをこいつは愛した。きっと結婚していたころより、こっちの方が本来のローなんだろう。
「まさかお前がこの世にいると思わなかったからな」
 そう言うローはおれの記憶の中より、ずいぶん屈託なく笑っていた。
 こいつは、この世界に生まれてから、過去に失うものはなかっただろうか。
 深い傷を作ることはなかったのだろうか。
 おれはおぼろげな記憶にいるローと今のローを比べることしかできない。肩の力がほどよく抜けた元海賊が片田舎で平和に暮らしているのを見させられているのも、また巡り合わせというやつなのか。そう思って天を仰いだ。もしくは、今生も面倒を見てやってくれと誰か──さしずめ目元まで隠れた金髪のクソでかい男の天使が、タバコでも吸いながら言ってやがるのか。
 だとすれば、おれの世話も焼くような間柄になったのは、「ローもちょっとは世話を焼け」といういたずら心の表れなのか。
 それとも、なにか。もっと別の理由があるのか。
 わからないまま一日は過ぎ、病院の片隅にある動物用ケージにローが迎えにくるころには、日暮れを過ぎている。近頃は特に、日が落ちるのが早い。

 そうしてまたローの休日がやってきて、寒空の中をランニングする。家ではだらけても、体作りだけは怠けない。それはいいことだとおれも並走する。
 雪はまもなくこの街を覆う。
「冬用のシューズを引っ張り出さなきゃいけねェ」
 とローは文句を言っていた。雪は好きだが走るのに不便であることは嫌らしい。おれが人間から犬になって楽になったのは、水に抵抗がなくなったことと、走る際にしがらみがないことだ。
 走り出すと悪態はなりを潜め、終始無言で速度を調整しながら進んだ。そのうち空から、ちらちらと白いかたまりが降ってくる。乾燥した空気の中を舞っている雪は、少しずつ街を埋める。
「今日はここまでだ」
 名残惜しそうにローは屋根のあるベンチへと避難し、急いでタオルで汗を拭いた。体が冷えて一気に寒さを感じるまえに戻らなくてはならない。いつもの公園で、ローが温かい飲み物を買いに行く間、おれは灰色の空を眺めていた。
 ──また、視線を感じる。
 はっきりと刺さるような視線の持ち主はもうわかっているから、そっちをいちいち見ることはしなくたっていいのだが、どうしてか見てしまう。雪に濡れた木枠の窓を見ると、いつもの小さな黒い猫が見下ろしていた。大きな目を開いて、金色の瞳をじっと凝らしていた。
 おれは初めて、一声吠えた。猫はちょっとだけ笑ったように見える。まもなく猫は飼い主らしき男の手にすくわれた。ずいぶんと大きな手だった。

(猫)

「ロー」
 階下にいる犬が吠えたのをくすぐったい気持ちで眺めていたら、滅多に呼ばれることがない名前が聞こえた。おれは窓から視線を外し、そっちを向いた。
 おれの飼い主はかなり体が大きいから、少し離れなくては視界に全貌を映し出せない。それを分かっているのか、飼い主はおれと視線を合わせるために体を抱き上げる。

 ──最初、抱き上げられることがひどく嫌だった。
 初めてこの男と会ったとき、おれの体は熱のかたまりみたいになっていて、もうすぐ死ぬんだとわかっていた。男はみすぼらしい箱に入れられたおれを静かに見下ろしていた。
(こんなふうにおれを置いていった人間も、同じ目に遭えばいい)
 と、全てを恨んで男を見つめた。
 男は大きな手を伸ばしておれを軽々と抱えた。実際、かなり軽かったと思う。片手で持ち上げられる感覚は、捨てられた箱に置かれたときを思い出させた。通りすがりのガキどもが、興味本位におれの全身を見て箱の中に戻したりする感覚も。きっと男も同じことをするのだろう、とおれはもがいて抵抗した。
 しかし、おれの体はとうとう箱に戻ることはなかった。布に包まれてわけもわからずパステルカラーの部屋に連れていかれた。なんだここは、とうろたえていたら、白衣を着た男と似たような服を来た女が立っていて、おれの体をぐるぐると検分し、最後に首筋に針を刺された。
 しばらくして、おれはうとうとと眠くなってきた。
「薬が効いたかも」
 と近くにいた女が言う。ちょっとだけ、おれを抱える男を見つめながら顔が赤かった。男が薬と食べ物を受け取って、金を支払っている間、女はずっと男を眺めていた。
(ああそういうことか)
 と猫ながらに納得をして、男の方を見てみる。けれど男はなんにも気づいていない様子で、
「ありがとう」
 とだけ言い、再びおれを抱えてその場所を後にした。
(あの女、お前に気があるみたいだったぜ)
 と鳴いても男には届かない。
「眠いなら寝てろ」
 とだけ言われ、あとは話しかけてもこなかった。
 男の家に着くと、古い毛布と木箱で簡単な寝床を作ってくれた。そこに寝転ぶと、体は首筋に打たれたわけの分からないもののおかげもあっていくらか楽になった。不慣れな手つきで餌の袋を開ける男の行動を観察するぐらいはできた。
 ただ、眠さだけはどうにもならない。ようやく開いた餌を皿に置かれたが、一、二口を噛んだだけで眠ってしまった。
 ──眠っている間に見た夢は、ずっと男の後ろ姿を眺めている夢だった。真っ白いコートをひるがえして、背中に文字が書いてある。あんなにデカく書いてあるのに、おれにはその文字が読めなかった。あれはなんだ、と思っているうちに、朝日が自分のひげと前足を照らしていた。
 今いる男は、そんなコートなど持っていない。すっかり体が回復して元気になったころ、クローゼットや棚の中をひょいひょいと登りながら漁ってみたが、それらしきものはなかった。
「なにやってやがる」
 と言われ、棚の上から下ろされるときに感じる葉巻の匂いは、どこか安心を覚えた。
 一応首輪は買ってある。鈴がついていて、GPS付きである。控えめに掘られた「LAW」という名前のプレートだけが光っている。この家でどうやら男は、おれを住まわせるつもりらしい。
 けれど今の今まであの首輪の出番はない。
 家の中でじっとしていることが我慢できず、ドアから飛び出して外をうろついていても、男は必ずおれを見つけられる。どこにいても、首輪がなくても。そして必ずおれを抱え、
「帰るぞ」
 と言う。
 帰っていいのか、とおれは思い、また飛び出して、あの男が呆れた調子でため息をつき、大きい手で抱き上げるのを待っている。
 それがしばらく続いたあと街に雪が降って外に出られなくなり、部屋の中の暖かさを知って以来おれは飛び出すことがなくなった。

 そして今日は、予防接種に行くと言う。飼い主はポケットに財布とスマートフォン、そして動物病院のカードを入れた。
 不思議と病院へ行くのは嫌いではない。あそこには、窮地を救ってもらったという恩もある。それに、病院の匂い、カルテをめくる音、診察台のアルコール消毒、どれも懐かしさを感じた。頭の中のモヤがかった一部が、医療器具の使い方さえ写し出すようだった。
(自分は人間だったんだろう)
 それは強い実感である。病院の作りや形、待合での雰囲気を見ていると、かつてこんな場所に自分もいたことがあってペンを動かし、相手と対話をしていた。どこか身の休まる場所に帰り、ソファに足を投げ出して誰かとしゃべっていた。
 ──飼い主が車のドアを開けると、おれは後部座席に飛び乗った。横には小動物を運搬するためのケージがあるが、そこに入ったのはほんの数回しかない。車の中にこもった空気がドアから勢いよく逃げていった。新しい冬の空気に混じって、葉巻の煙が漂う。
 座席の端に陣取り、体を伸ばして窓から外を眺めた。マンションのすぐ下にある広い公園には、芝がふくよかでいつもなら気持ちが良さそうなのだが、この雪でもう見られなくなるだろう。
 さっきいた犬を連れた黒髪の男がまだいて、小さめのボディバッグからナイロン製の上着を取り出していた。おれは自分が乗っている車窓に張り付いた雪の渇き具合を見て、
(この天候の中走るのは寒かっただろうな)
 と予測する。
 車は、ゆるやかな発進をする。おれが急なアクセルのせいで座席から転がり落ちないようにするためだ。道路を出てすぐの曲がり角は、交通量が多いからかなり出るまで時間がかかる。
 おれはその間、やっぱり犬を見ていた。見下ろすような角度ではなく見るのは初めてかもしれない。
(デカいな)
 ……近くで見ると改めてわかるが、かなり体躯のある大型犬だった。自分とは違う真っ白い、青みがかってさえ見える毛並みはさらさらと風に揺れていた。それがとても温かく、心地良さそうに見えた。
 遠くからではわからなかったが、犬は顔の左側に傷を負っていた。その傷は、おれの飼い主の傷とよく似ていた。
 そして。
 犬が、鋭い眼光ではっきりとおれを捉える。
「にゃあ」
 おれは一声、さっき窓越しに吠えられた返事をするようにはっきりと鳴いた。低くて、あまりかわいげのない声ではある。それでも聴覚の優れた犬にはよく聞こえたようで、こっちへ近づいてきた。
 黒髪の男が、犬の行動をいぶかしんで名前を呼んだ。
「スモーカー?」
 おれはもともと丸っこい目をさらに丸くした。と同時に、乗っていた車もぴたりと止まる。葉巻の煙を逃すためにウィンドウを開けていたから、飼い主にも男の声は聞こえたはずだ。
 飼い主は、自分と同じ名前を呼ばれてさぞ驚いただろう。が、おれにはバックミラー越しにしか表情は見えないし、確認することはできなかった。
 ただ一言、飼い主は、
……ロー?」
 とだけ、おれを呼ぶときより揺らいだ声でつぶやいた。
 犬はあとわずか、車に鼻先をつけるかつけないかのところで振り返ってしまった。黒髪の男のところへゆっくり戻る。同時におれたちの乗っている車のそばで、クラクションが聞こえた。飼い主──スモーカーが車を動かすのを待っていたらしい前方の車が、いらだちをあらわにしている。
 スモーカーは舌打ちをしてサイドブレーキを下ろし、車を進めた。進めるしかなかった。
 病院に着いてからも、スモーカーはどこか心をさまよわせていた。医師からの説明、代金の確認、それらを聞いてはいただろうけど、浮かないままの横顔を、おれは見ていることしかできなかった。