ある俳優の話2

バレンタインの話 「ある俳優の話」の続きです

ある俳優の話2

 クリスマスとカウントダウン。スモーカーと会えないのは、当たり前だと毎年わかっている。テレビの向こう側で仏頂面をしている男を、年越しに何度も見てきた。
 だからといってローは、あえて自分を忙しくしたりしなかった。年末年始はセールをやるブランドもあるが、ローの店ではそうしない。どうせ買う客層はセール品じゃなくてもきちんと買いに来る。
「稼ごうって気がさらさらないですもんね、ローさんは」
 ペンギンはそう言っていつも呆れる。
 店の古びたレジスターの中はいつも必要最低限の両替額しかないし、面倒くさいポイント制もない。金に無頓着なローはそういうことさえやらず、最初のうちはペンギンたちにずいぶん情報収集をしてもらって(というか勝手にされた)ちょっとは新しいことやイベントごとの流行を導入した。行事ごとにその場限りの客は増えたが、長く愛用してもらえないのであればいっそ来なくてもいい、と思ってしまう。
「どんだけ頑固なんですか」
 と諦めた顔でシャチに言われ、ローは口を尖らせた。
 こいつらのまえでは、年相応になれる。無意識に腹を割って話したり、寛くつろいだり、ちょっとした大事な話もできる──ローにとって数少ない、貴重な友人だった。
 二人はときどきローが住んでいるスモーカーの家にやってくる。この家の敷居をまたげたのは、ローがスモーカーに説明をしたからだ。説明、と言うより簡潔に「友人が来る」と伝えただけだが、多忙な俳優には「構わない」とあっさり言われた。
 ローはそのとき、無防備なスモーカーを疑った。
「心配じゃねェの、お前の部屋がガサ入れされたりするかも、とか」
「それなら、お前に頼んでお前だけで行動させた方が怪しまれねェだろ」
 そう言われたのは、もう何年まえだっただろう。
 以来、クリスマスから二月近くまで忙しいスモーカーの代わりに、ペンギンやシャチが訪れてはローの世話を焼く。
 家を使わせてもらっているから「いつか礼を」とペンギンあたりは言うが、ローは「いらないだろ」と突っぱねる。大体そんなことを言われても、当人はただ部屋を貸しているだけだし、長い間の留守にローの世話を焼くのは二人だから、むしろありがたい、とでも言いそうだ。
「別に世話を焼かなくても、大人だから平気だ」
 とローは言うが、結局この期間中に二人がこの家で過ごしている間、居候であるローはせっせと身の回りを片付けられたり、飯が勝手にできていたり、風呂が知らぬ間に沸いていたりする。
 ──かたや俳優スモーカーは、たとえ家に帰れずホテル住まいでもやつれたり隈ができていたりしなかった。ただ目の奥の光はうすい。無駄なことが嫌いな彼は、きっとこのバラエティのくだらない時間を死ぬほど退屈な思いをしながら過ごしているんだろう。
「ずいぶん帰らないんですね、白猟」
「まあな」
 いつか刑事ドラマに出ていたころの二つ名を気に入って今でもそう呼んでいるシャチが、大きく背伸びをした。
「バレンタインまで、忙しかったりして」
「去年はそこまででもなかったでしょ、チョコレートはたくさんもらって帰ってきてたみたいですけど」
 バレンタインに意中の人へ告白、という文化はたしかニッポンの話だったか。義理や本命という区切りもあるらしい。そしてホワイトデーというものがあって(なんとよりによってその日はスモーカーの誕生日だ)、そこで返答をする。
 こっちではそんなことはなくて、大切な人に日頃の感謝を伝える日としてチョコレートを渡す。花束もメジャーなギフトだ。過去に何度か受け取ったことはあるし、ロー自身も世話になった人に渡したことはある。その日か翌週までにはお返しをもらうから、畏かしこまって別の日に渡すことはない。だからスモーカーが毎年花やチョコレートを持ち帰っても、家主と居候二人の胃袋に時間をかけて収まり、花はなるべく枯れないよう手入れをされるだけだ。
 ペンギンとシャチがスマートフォンで、お礼を送るために人気のチョコレート店を検索しているのを横目で見やる。
(あいつはチョコレートより、ホットショコラが好きだから)
 ローは誰にも言っていないこのことをもう一度密かに反芻する。タバコとショコラの匂いを同時に感じたような気がしたが、失せてしまった。そうして記憶からうすれてしまいそうになると、ローは頭の奥から引っ張り出してみたりする。
 スモーカーの家に、ローが転がり込むまえのことだ。

 ◇

 バレンタイン間近になると、専門店からは甘い香りがして、人々が足を運ぶ。男でも女でも、ギフトを手から下げて急ぎ足で帰る。フローリストはバラの花束の剪定せんていに忙しい。
 路面には数メートルおきに靴磨きが並び、靴先の汚れを払って大切な人に会いに行く。一回四ドルの靴磨きを何度もしたあとの男たちは、その日の稼ぎでバレンタインの日だけは特別にホットショコラを買う。彼らが見上げる都心のビルの壁面には、華やかなタレントやアーティストが出演する番組が映し出されている。
 そんな街中の光景をまえの年も見てきた。この年も同じだった。寒空の下でそれを眺めながら閉店作業をしていたら背後から、
「もう閉めんのか」
 と声をかけられた。
 鼻の頭を赤くした、真っ白い髪の男だった。寒そう、というのは服装からもわかる。ただ男はそこまで震えていなかった。寒さには強いらしい。
 それがスモーカーとローの、最初の出会いだった。
「なにか欲しいものがあったか」
 ローは薄情な人間ではない、寒そうな男(本人はどうか知らないが、少なくともローから見たら寒そうである)を見れば用件を聞いてやれるくらいの度量はある。ガレージ用に作られたものを取り付けた、店の軽量なシャッターを下ろしかけてピタリと止める。まだ半分ほど見える店内は明るくて、雪の道に明かりが伸びていた。
「ああ、手袋と靴下が欲しい」
 いやセーターとかマフラーを着た方がいいだろ、とローは思わず言いそうになった。そのときのスモーカーは質素なコートと薄手のシャツ、作業用のエプロン、ジーンズにレインブーツだった。暗がりの道を照らす店の明かりがその姿をぼんやり映す。ブーツの先には無数のシミができていて、ローは男の職業がすぐにわかった。
(靴磨きか)
 この都心では雪が水っぽくて革靴が汚れやすい。寒い冬こそ、彼らは稼ぎどきだ。
「入れよ」
 とローは促してシャッターをふたたび開けた。アルミ製なのにおおげさな音がして、真上までゆっくり上る。
 彼に金があるとは到底思えなかった。ローの店で扱っている服は最低でも七十ドル以上はする。彼が欲しいと言った手袋や靴下でさえ、支払えるのかどうか。店にはマネキンを置かないから値下げした見本品もない。
(どうしたものか)
 ローは首を捻る。が、解決策も浮かばないまま、入り口のライトだけは閉店だとわかるように消しておいた。
 ペンギンが「バレンタインなんだから出した方がいい」と押し切って店内に用意した、サービスのホットショコラを差し出す。スモーカーは礼を言い、靴用のクリームがついた汚れた手でカップを受け取ろうとした。
 手にはいくつもの古い傷があって、爪の一部がまだらな色をしている。靴磨きの特徴で、もう治ることはない。ローはカップをスモーカーの手に渡さずにテーブルに置き、さらにハンドクリームも置いた。かつて医者だった自分が使っていた希少なクリームだ。ドラッグストアに出回っていないパッケージのそれを、スモーカーは不思議そうに眺めた。
「これが傷と乾燥にいちばん効く」
 と伝え、手を洗うように言った。スモーカーはなにも言わずに従う。特に嫌がる素振りも見せない。おそらくここがローの店で、無理を言って上がらせてもらったという引け目があるからだ。ようやく戻ってきたころには、汚れは落ちて指先が冷水で赤くなっていた。けれどやはり、爪の一部だけは色味がまだらなままだった。
「懐かしい味だ」
 ハンドクリームを塗り終え、やっとホットショコラにありつけたスモーカーが笑ったようにローには思えた。この無愛想さは自分の周りにはあまりいない。ペンギンもシャチも、よく表情が変わる方だから。
「作り方は秘密だそうだ。おれも知らない」
「お前が作ったんじゃねェのか?」
 訛りのほどよい英語が耳を打つ。もう少し長く聞いていたいと珍しく思った。ここのところ寒さも堪え、もしかしたら気持ちが沈みかけていたのかもしれない。寒い冬は人の心を曇らせる。あくまで季節のせいにして、ローは質問に鷹揚おうように答えた。
「おれの友達に、人にサービスすんのが上手いやつがいる」
……お前だって接客業だろ」
「おれには向いてない」
「矛盾したやつだな」
 スモーカーは飲み物に口をつけた。ローは散乱していた伝票をまとめる。
「靴磨きのまえは、なにをしてたんだ?」
 今度はローから質問をした。伝票を仕分けしていると、小難しい数字と文字の羅列が目に映り込むから気を紛らわせたかったのだ。スモーカーはカップを置いて、胸ポケットを探る。
「銀行員だ」
 取り出したタバコを見て、ローは眉を潜めて窓を指差す。吸うのはいいが、売り物に匂いがつくのは避けたい。スモーカーももちろん心得ているようで、窓際までスツールを持っていった。狭いスツールに腰を下ろすと、旨そうに一服する。
……倒産でもしたか?」
「いや」
 銀行員として働いていた身が、指をここまでにするほど熱心に靴磨きをする理由がわからない。ローは伝票を片付ける手を止めてしまった。スモーカーの吐いた煙の行く先をぼんやり眺めていると、いつの間にか彼と目が合っていた。
「簡潔に言えば、」
 とスモーカーが話し出す。
 過去、スモーカーはウォールストリートで働いていた。そのまえは有名大学を優秀な成績で出た。ハイスクールでアメフトを経験、断りきれないほど有望な話をもらっていた。
 ──そしてそのまえは、スラムの端の地下室で、身長よりもはるかに高い窓から入る街灯の光を頼りに、拾ったペンで学び入学の権利を得た。靴磨きの経験はそのときにはすでにあったそうで、大人になった今でもためらいなくできるのは、幼少期の経験があったからこそだと言う。
(じゃああの爪の汚れは、ずっと昔からついてんのか)
 アメリカンドリームだと称えられることが嫌で、スモーカーはこの話を限られた人間にしかしていない。ドリームでもなんでもない。自分自身の選択肢を広げなくてはならないと悟ったから、苦手な学問に手をつけたんだと語る。
 靴磨きに新聞配達、少し体が大きくなれば配管工事と電線の取り替え。金を稼ぐのにやったことについてだけは、楽しそうに話していた。いやこの無表情から楽しそうだったのかは正直わからなかったが、そこだけはきちんと話したのだから他よりは楽しんでいたんだろう。
「ある日銀行を出て帰る途中、スカウトを受けた」
……スカウトって」
「それが今の事務所だ」
 ごちそうさん、と言ったスモーカーは、飲み干したカップをテーブルの端に寄せた。台の上に置かれていた売り物の靴下と手袋を手に取り、金と名刺を置いて去った。それが名乗りの代わりだということはすぐにわかった。
 名刺にはスモーカーの名前の他にエージェント(日本でいうマネージャー)らしき人物の氏名と電話番号があって、肩書きが書かれていた。ローはスモーカーの言う事務所というのが、すぐに大手タレントエージェンシーだと気づく。それを確認するころには、男はもう店から出ていってしまっていた。
 テーブルに置かれたシワのある札を見る。彼が実は俳優で今はどうしてか靴磨きに身をやつしていること、彼がここへ来たこと、その二つに対する口止め料のつもりかもしれないが、それにしては多かった。

 数日後、ローはあえて違う道を歩いて店へ向かった。向かう途中の道にあの男がいるのはわかっていた。
 曇り空の下、ずらりと並ぶ路面沿いのシューズショップの裏手。靴磨き専門の店もあるが、道端で磨く人間も多い。
 靴磨きという肩書きを持つ彼らは、意外と図体が大きくてたくましい。靴を磨くにはかなりの力がいるからだ。だからあの男がそこに紛れていても、気づかれないだろう。なかなかいい隠れ蓑みのを選んだものだ。
「いらっしゃい」
 タバコを吸っていた男──スモーカーが顔を上げ、ローを見るなり他人行儀な挨拶をした。
「金が多かったから、返しにきた」
「とっとけ、あれぐらい」
「口止め料ならいらねェよ。俳優が来ただなんて自慢、話すようなやつもいねェ」
 まあペンギンとシャチなら、喜んで聞きそうだが。ローは二人の嬉しそうな顔を頭でかき消す。
 タバコの煙が空中に浮かんで霧散した。
(また、旨そうに吸うもんだ)
 とローは思った。灰皿にはまだ四本しか吸殻が乗っていない。もしかしたらこの一服は久しぶりで、意外と客足があって忙しかったのかもしれない。そこに五本目のタバコがぎゅっと押しつぶされた。煙が失せ、はっきりとスモーカーの表情が見える。
「口止めなんかじゃねェ。あれは礼と商品への妥当な金額だ」
 ムッとした顔のように見えたのは、気のせいだろうか。無愛想だと思っていたが、わずかに力の入った目尻の様子を見て悟った。
 商品の金額には値札もあっただろうに、それよりも多く支払われたことにローは驚いている──あの靴下は、自分がデザインを何度も練り直した。それに手袋も、ここらで働く人間のために作った。彼らこそ必要であると考えて作りはしたが、加工と生地で予想外に価格が跳ね上がり、苦心して彼らが買えるほどの金額に落としたくて粘ったものだ。結局は思い通りにいかなくて歯痒さが残ってしまったが、ペンギンがSNSに作業工程を載せてくれたおかげで、自分の心意気だけは水面下に広まったようだ。実際に貯金をして買いに来る労働者もいる。
(妥当な、金額って)
 対価を正当に、いやそれ以上に評され、うまく言葉を返せずにいたら今度はスモーカーが口を開いた。
「名前は」
……ローだ」
 名乗ると、なにやらスモーカーがノートに書く。書き味の悪そうなペンの音がした。くっきり自分の名前が書かれたページは、白紙のまま脇に置かれる。
「それは?」
「顧客のリストだ、個人情報以外を書く」
 ローは訝いぶかしがり、眉間にシワを作る。プライバシーを書くことが情報収集の一番の醍醐味だと思ったからだ。スモーカーはつけ足す。
「そいつの話し方の癖、話したくだらねェ内容、それに付随するいろいろな話だ」
「それは役に必要か?」
「必要だ。想像で適当に話すのと、そいつらを思い浮かべながらまるで同じ経験をしたように話すのとじゃ、説得力が違う」
 律儀なやつだ、と古いノートとスモーカーを交互に見た。
 自分もそうして記録されるのだろう。ローがしてきたこと、思想とするもの全てが記され、スモーカーが演じるときに思い出され、そして記憶に保存される。ローが作った靴下も手袋も、この男を温めた冬の見返りのように、春にクローゼットへ大切にしまわれるだろうか。
 そんな人間を、例えばもらった名刺を持ってそのまま記者たちにネタとして売る真似はできない。
「磨いていけ」
 革靴を指差され、歩いてくるまでの雪で汚れているのに今さら気づいた。昔からの傷や擦った跡もある。
 椅子に座り、足を置いた。大男を上から見下ろす感覚は不思議だった。ローがしばらく相手の額あたりを見ていると、用意ができたらしいスモーカーが「これでも読んでろ」と暇潰しになりそうな新聞を渡してきた。
「いい、お前がやってんのを見てる」
「面白くはねェぞ」
 ローはじっと視線を落とし、あとは静かに作業を見守っていた。
 スモーカーが革靴に合うクリームを選ぶ。ときどき角度を変えて、細部のほこりを取る。布を合わせ、大きな手が力いっぱい磨く。摩擦でわずかに音がする革靴は、拭われたあと艶やかに光った。まだ磨かれていない方と比べると、差は歴然だった。スモーカーは得意げにすることも、仕事の出来栄えに満足そうにすることもなく、淡々ともう片方の足を台に乗せた。
 片足を磨き終えるのは、時間にしてほんの十数分だった。けれどローの目には今でも一つ一つがスローモーションで焼き付いている。その短い間を、ぬるま湯に浸かるように心地いいと思えた。
 だから話をしたくなった。
「──おれは医者だった」
 診察台で、手術台で、患者と向き合い病の根源を見た。治す気のない患者もいれば、必死になって治そうとしてもだめだった患者もいた。こうして布とクリームで磨いて、靴先のようになめらかに輝くものばかりであったらどんなに良かったか。成果を見出せずに奥歯を噛み締めるばかりの日々もあって、それなのに内部の権力争いやつまらない事情に振り回されることがほとんどだった。
 病院を去って住まいもたたみ、小さな敷地と店を居抜きで買い取ってほそぼそと服を作り始めた。
 皮膚を縫うより、神経をつなぐより、服はやさしく難しい。けれどその挑戦がローにとって癒しだった。特定の家を持たず、友人二人の家を行ったり来たりしながら、今日も店のシャッターを開けに行く。
 少し似ている。自力で将来の道を切り開き、ある日ホットショコラを持って見上げるだけであったはずの華やかな俳優に、なんの因果かなってしまった眼前の男と、望んだはずの未来に背を向け、道を作って歩き始めた自分と。
「俳優になっていよいよ成功したら、それこそアメリカンドリームって言われるんじゃねェのか」
 お前は嫌だろうが、とつけ加えるとスモーカーは鼻を鳴らした。
「スラムの奴らに変な期待を抱かせるようなことはしねェ。だから出身も隠す」
「できるのかよ、そんなこと」
「戸籍を事務所に入るまえに新しくした。とっくにわからねェようになってる」
 ほこりを取りながら、スモーカーが器用にしゃべる。
「映画に出るのか?」
「ああ、まだ脇役だがな」
……観に行ってやるよ。公開は?」
「意外と近い。来年だ」
 おれの役だけがなかなか見つからなくて、撮り終えられなかったらしい。そういう細かい撮影事情まで教えてくれた。不用心な男なのか、ローになにを感じてそんなに話すのか。
「心配じゃねェの」
 ローは複雑な顔を浮かべて言った。靴磨きも仕上げの段階に入る。スモーカーに両方の足を揃えられ、磨き残しがないかをチェックしていた。目線は靴から離さないまま、「なにがだ」とスモーカーが促す。
「おれがお前の情報をそこら辺の記者に高値で売りつけるかも、とか」
 もっともな道理を吐き出したと思う。当たり前に気になることだ。しかし目のまえの男は道具を片付けながら告げる。
「お前のSNSを見た」
 ああ、あのペンギンとシャチが一生懸命やってるやつ……とローは逡巡しゅんじゅんする。
 製作費を下げられないか悩んでいる顔が人を殺してそうな形相だ、とか、業者との交渉も脅しみたいだ、とか、基本的にローの愛想の悪さを書いてはいたが、こだわりも製法もさすがと言うべきか、ローの思う通りの内容をきちんと書いてくれていた。手先の器用なシャチが手伝いながら作って完成したものもある。
「金をどこにかけるのか考えるようなやつなら言わねェだろ」
 それはあまりに人を信じすぎだし、隠しごとに向かないんじゃねェか? とローは首元まで出かかった言葉を、あるものを目にしたせいで押し留める。
(じゃあこいつが店に入ってきたのは、下調べ済みだったからってことか)
 なんだか刑事みたいなやつだなとローは感心して、ふと顔を下へ向ける。
 スモーカーの足首の隙間から、この間買っていった靴下の柄が見えた。
(勘弁してくれ)
 どうして今日に限ってそれを履いてやがるんだ。まるでおれがここに来るのをわかってたみたいじゃねェか。
 ローの首筋に熱がこもる。
 スモーカーはきっと大事に履いてくれている、それはローが客に最も望む形だった。できるだけ長く、けれどできるだけ身近に。何度も履いて、何度洗ってもほつれない繊維で。
 ペンギンがSNSに載せた中で、業者とそう相談しているのがたしかに写っている。動画ではなく、写真のはずだ。ローが絞り出すような声で話したことまではわからない。それなのにスモーカーには、理解できたというんだろうか。


 それから、ローは何度かスモーカーのところに寄った。互いの近況を交わすだけだったが、曇り空の中に浮かぶ雲が視界の右から左へ流れるくらいまでは話した。風の強い日は何度も雲を見送った。
 ときどきローが買ってきてやった昼飯を、スモーカーが頬をいっぱいにして食べた。思わず笑ったローはカメラを向けて、これからたびたびスマートフォンに収められるスモーカーの顔の、これが記念すべき最初の一枚になった。

 ──もう一つ、記念すべき一幕がある。
 三ヶ月後、スモーカーが靴磨きの仕事を辞め本格的に映画の撮影のために荷造りをしていた深夜、スモーカーの家のインターホンが鳴った。こんな真夜中に誰が来るのか、とドアの覗き穴から外を見れば、見覚えのある黒髪だった。
 スモーカーはちょうど先ほど、自分が演じる靴磨きの役作りのために、接客後にノートを取った無数の人間の中から「ロー」と書かれたページを開いていたところだった──彼と話すとき、スモーカーの体は静かな高揚を覚えていた。頭の隅から知性がゆっくり引っ張り上げられるような、気持ちのいい言葉の刺激。そして少しばかりこちらを心配するような、眼差しの奥深さ。ちょうど役柄でもそういうシーンがあって、きっと演じながらローのことを思い出すだろうと考えていた。
 たしか友人の家に仮暮らしをさせてもらっていると言っていたか。ローにこの場所は知らせていたが、今まで来ることはなかった。友人宅から追い出されたようにも見えないし、これまで来なかった人間が、なんの気まぐれを起こしたのかと驚いた。
「新作、できたから」
 と二つ持っていた紙袋のうち一つを差し出され、中身を開ければこれからの季節にちょうど良さそうなシャツだった。タグは切られていて、値札もない。これは金はいらない、という意味だ。
 スモーカーは薄情な人間ではない。目の下に隈を作っている男(本人はどうか知らないが、少なくともスモーカーから見たら疲れているようには見える)を深夜に追い返すような真似はしない度量はある。
 そうしてドアを開けて迎え入れたあと、まさかその黒髪の青年がこの家に居つくことになるとは思いもしなかった。ローが持ってきたもう一つの紙袋に入っている、季節外れのホットショコラを二人で飲み、
「やっぱりバレンタインに飲む方がいいか」
 とローが言って、それはそうだとスモーカーも腑に落ち──以後バレンタインにはそれを飲むのが習慣となった、記念すべき最初の夜でもある。

 ◇

 だから今年もローは、休みなく働き続けて帰ってきたスモーカーとのバレンタインはホットショコラを飲む。
 彼がそれが好きだということはエージェントも、監督も共演者も誰も知らない。ローだけが向き合える、スラム生まれの靴磨きとの邂逅である。