溺れた話

ちゃんと休むようにしようと決めたあらふね君の話
あらふね君、ワーカーホリックではないと思うんですが、このときは珍しく無理が祟ったという設定で

溺れた話

「意外と静かなんだ、人が溺れるときは」
 まだ痛む頭を抱えながらソファにいる俺に、穂刈はそう言った。
……誰かのを見たことがあるのか?」
「あるな、一度」
 やわらかいタオルで俺の髪を最後にひと撫でしながら、そういえばこのタオルは結婚式の引き出物でもらったんだったか、とどうでもいいことを思い出す。手触りが心地良かったから今でも愛用していて、まだわずかに濡れていた髪の水滴をきちんと取ってくれる。
「弟が、風呂で。同じような状況だったな、今の荒船と」

 ──仕事が激務すぎた。激務すぎて、家に帰って沸かしてもらっていた風呂に入った瞬間、意識を飛ばして眠ってしまった。
 途中から呼吸が苦しくなり、自分がどこにいるのかわからなかった。目を開こうにも、いつもとは違う圧力に押されてまぶたが重い。息をしたい。肺が痛む。そのうち耳の奥がズキズキとして、その音が血流の音だとわかるまでにそう時間は掛からなかった。
 そのうち、上と下があやふやになる。警報を体中が発しているのに、俺は疲労しすぎた体を動かせなくて──腕を掴まれて引き上げられた。
 岸に着いた、となぜか思った。ここは自宅で、海も山も谷もない街中の一区画なだけなのに。
 打ち上げられた岸──穂刈の胸は心臓をバクバクと鳴らしていた。着ていたTシャツは濡れて張りついているのが見える。
(ああ悪いことをした)
 と後悔した。俺を風呂から引きずり出した穂刈は、さっきまでリビングでテレビを見ていたはずだ。よく気づいたな、という驚きもあった。
 うまく穂刈の顔が見られなくて、謝る言葉が出てきてくれない。そもそも、疲労と溺れに体力を使い果たして声を出せない。
(せめて謝罪くらいは)
 俺は支えられている体で足を踏ん張り、立ち上がろうとした。けれど穂刈に制された。
 少し顔を向ければ、穂刈は唇を噛んで目を細め、いつもセットしている髪が乱れていた。Tシャツは濡れたままで俺の体を急いで拭き上げ、スウェットを被せてくれた。まるで介護だ。さすがに下着までは自分で着られるから、と手を動かした。
 そのときやっと気づいたが、俺の指は冷たく震えていた。そばにあった洗濯機に反射した時計を見たら、俺が風呂に入ってから一時間以上は経つ。だから体は間違いなく温まっているはずなのに、冷えて寒くて仕方がなかった。だから下着さえ掴めなくて、指を内側へ曲げるだけに留まった。
「怖かったな」
 穂刈はそう慰めてくれたが、語尾は掠れていたし、表情が固い。和やかな雰囲気を持つ男だと思っていたけれど、怒るときはこうして静かに怒るのか、と初めて知った。
「俺のせいだから」
 穂刈は俺の言葉を聞いても、まだ表情を変えない。怒りの矛先は俺ではない──それは慢心ではなく、確信だった。
「いや、もっと気にしておけば良かった。ずいぶん長く入ってるとは思ってたのに」
 でも、俺が気をつける問題だっただろ。と声を荒げたかったが、そんなのは穂刈には無意味だ。
 俺を信用していないわけじゃない。
 俺の全てを管理したいわけでもない。
 片方が参っているときは、判断能力が客観的に高い方が気をつければいい。長く一緒にいるための、当たり前の気遣いだ。
(こいつはそういうやつだったな)
 だから穂刈は、今の状況の俺を怒らないで自分の非を憂う。
 ……それでもやっぱり申し訳なさが勝って、穂刈に問いかける。
「なんでもっと気をつけねぇんだ、とか言ってもいいんだぞ」
 まだ冷えた体だから、少し震えた声になってしまった。穂刈の怒りは収まったみたいで、俺を暖房の効いた場所へ運ぶ手つきはやさしい。
「いっそ怒鳴ってくれた方がいいってやつか?」
「まあ……そう、だな」
「知ってるだろ、オレがそういう性分じゃないってのは」
 それに、と穂刈は続ける。
「誰だって嫌だろ。仕事で疲れて、溺れるなんて嫌な経験もして、さらに人に怒られるなんて」
 ゴー……とドライヤーの音がした。俺の頭が乾かされている。温風を受けて、じっくり自分の頭が温められる。
 いつの間にか、指先に力が戻っていた。震えていたのは体だったか、心臓だったか、今となってはもうわからないが、とにかく震えも消えていった。

 まだ風呂の水を飲んだであろう感覚と、器官の違和感は抜けない。それから警報を鳴らし続けた脳も疲れてしまったようで、鈍痛がもやのように頭全体を覆っていた。
 穂刈はさっきの話を続けている。
「叱られてもケロッとしてたな、弟は調子がいいやつだから」
 懐かしみながら話す穂刈の表情には、ようやくいつもの柔和さが戻ってきていた。そしてやっと自身の濡れたTシャツを脱いで、タオルと一緒にテーブルに置く。別の寝間着を探しに立ち上がり、また少し筋トレで大きくなった背中を眺めた。
 ──あの強い体が、あのやさしい男が、俺をすくい上げた瞬間心臓を恐ろしく動悸させていた。バクバクと鳴り、乱れて拍動していた。
 弟のことがあって経験として慣れていたのかもしれない。けれど数十分まえの俺の溺れた姿は、たしかにあいつにとって恐怖だった。不慣れな怒りを自分にすほどだったのだ。
 耳元で激しく鳴っていた穂刈の心音が、まだずっとこびりついている。
(悪いこと、しちまった)
 俺はぎゅっと拳を握った。
 明日はようやく休みだが、そのまえに今度の休暇申請は多めに取ろうと決める。せっかくだから一緒に出かけるか、とも思ったが、この分では俺が休むことを優先されそうだ。なので、大いに休むことにする。
 夜は、久しぶりに二人で風呂に入るかと誘うのもいい。溺れる心配はないし、穂刈の安心した心音を、ちゃんと間近で聞きたい。