スーツの話

ずっと悩んでぎこちなかったけど、答えを出したあらふね君の話
穂→←荒から穂荒になる
高校卒業くらい~大学の冬(隊解散までもうすぐ)の時系列です
新規絵ほかりスーツ、の勢いを止められなかった

スーツの話

「似合うな」
 と最初に言ったのは穂刈だった。
 高校三年の秋、荒船は法事でスーツを着る機会があった。制服で参加しても良かったのに、わざわざ親がスーツを用意していたのは、将来ボーダーの隊員じゃなくなって着る機会も出てくるだろうから慣れておけ、ということらしい。そのときに、たまたま穂刈と会ったのだ。
 似合うだろうか、見慣れているだけじゃないだろうか。荒船は普段からブレザーで、ネクタイの結び方も飽きるほどやってきた。

 ──穂刈は、荒船のネクタイを外さなかったことがある。正確には、外せなかった。
 二ヶ月まえの暑い夏の夕方で、穂刈の家には誰もいなくて、
「来ないか? うちに」
 と誘われた。
 額に滲む汗を気にせずにくっつけて、鼻先を鼻先でくすぐった。そうすれば唇が触れ合うのは必然だったように思う。じりじりと視線の熱を浴びながら外されかけたネクタイは、しかし急な呼び出しがあって、二人ともすぐに本部に向かわなくてはならなかった。
「着崩してんの、珍しいすね」
 と半崎になにげない指摘を受けて、
「走ったから暑くてゆるめた」
 と咄嗟に嘘をついた──

 だからあの続きを今もできないまま、この関係になんと名前をつけたらいいのかわからずに、黒いスーツの荒船は「そうか?」とごまかすように顔をそむけた。
 いつまでもごまかし続けることは難しい、と互いにわかっている──荒船隊はもうすぐ解散する。
 法事の間、まっすぐに背を伸ばして親族と会う中で、荒船は頭の片隅でぼんやりと考えていた。

 ◇

 学校を卒業してから最初の冬。荒船はまだ、トリガーを持って戦闘体で働く身でいるつもりである。パーフェクトオールラウンダーの理論を完成させたとは言え、まだ実践向きに改良の余地はある。あくまでも自分を被験体にしながら、徐々に村上や、それ以外に知りたがっている多くの隊員に向けてわかりやすく展開するには時間が必要だった。
 だから荒船には将来的に幹部の椅子が用意されていても、そこに腰を落ち着けるにはまだ前線にいなければならない。スーツを着るのは当分後回しだ。
「でも真っ先にお前が着るなんてな」
 そう言って穂刈の方を見ると、相手は新品の黒いスーツを着心地悪そうに持て余しながらかりかりと頭をかいていた。ラウンジで会った二人は、ベンチでコーヒーを片手に座っている。
「オレも想像してなかったな、荒船より先にこれを着るのは」
 穂刈は別に、隊をいち早く抜けたわけでも、トリオン器官に限界を迎えたわけでもない。今日は本部で働くための説明会があった。中途採用された民間の人間と一緒に、ボーダーでもともと働いていた人間も加わって大人数で会議室を占拠していて、穂刈もそれを受けていた。
「だからってもうスーツを渡してくるなんて、気が早いな」
 多分、「やっぱり大学卒業後は民間企業に入ります」と言われるのを恐れたんだろう。逃さないように、あらかじめ本部に残ってほしい人材には声をかけて獲得しておきたかったに違いない。
 穂刈はバランスを取るのが上手い男で、数年まえの遠征における試験でも隊の補佐としてよく支えた。荒船隊でもそれは顕著だった。
 スーツを渡し、着替えさせ、写真撮影まで終わったんだろう。もう三日もすれば、穂刈の顔写真の入ったIDカードが作戦室に届くに違いない。半崎と加賀美と一緒にそれを見てやろうと思っていたら、穂刈が磨かれた靴を一つ鳴らした。
「気が早すぎる、まだ大学一年なのに」
「水上も高校卒業と同時くらいからずっと誘われてたって言ってたな」
「大抵は大学終わってからだろ、そういうのは」
「だんだん早いうちから今後は狙っていくんじゃないか、あとは若い意見を聞きたいとか」
 そういうもんか、と穂刈が言い、手に持っていた缶コーヒーを飲み干した。隊服ではない脚が立ち上がり、隊服ではない腕が伸びて缶を捨てる。
 ……新鮮だった。知らない穂刈を見ているようだった。
 あのとき、「似合うな」と言った穂刈もこんな気持ちでいたんだろうか。
 相手の知らない一面を見つけた感覚。隊を解散すれば、そんなものはいくらでも生まれ、いくらでも手からこぼれる。相手の全てをわかることはない。ただでさえ今、荒船は気持ちをごまかしているのに。隊服の黒とスーツの黒と、同じようで違う黒を見ているうちに、ごまかしがいずれすれ違いになり、いつか離れるかもしれない。
「穂刈」
 あの秋の法事の最中、頭の片隅でにごっていた考えが呼び覚まされる。そこからもう一年以上も経ってしまった。
(穂刈はまだ、俺とどうにかなりたいと思っているだろうか)
 荒船は、そうであって欲しいと願っている自分をようやく認め、声を出す。
「今日、家に親がいないんだ」
 穂刈はぴたりと足を止めた。そして、こっちを向いた顔は複雑だった。複雑というのは、嫌そうな表情や面倒くさそうな表情が混ざっているというわけではなくて──荒船の言った意味を、二重にも三重にも考えている表情だった。
 大人になれば、考えすぎる。穂刈ももう、そういう大人に近づこうとしている。間に合って良かった、と荒船は安堵した。肩の力を抜いて笑う。
……来るなら、着替えるまで待ってるが」
「このまま行く、上だけ持ってくるから」
 穂刈の声はうわずっていた。けれど、荒船も、人のことは言えないほど語尾が震えた。
 あの夏の、鼻先が触れた瞬間を思い出す。今日はもしかしたら、もう冬だから少し冷たく感じるかもしれない。
 ネクタイを外すのは、今度は荒船の方だ。けれど荒船はもう学生生活で嫌というほどネクタイには触れてきて、慣れている。