初めて会った日の話

二人が初めて会った時の捏造。貸し借りなしで別れたけれど、少し後ろ髪を引かれた話

初めて会った日の話

 医者は、黄泉の国では嫌われる。
(一番、死と近い立ち位置なのにな)
 ローはそう考えながら、血に濡れたゴム手袋を剥ぎ取り、袋に包んでゴミ箱に投げ捨てた──自分が手を施したこの患者のことも、どうか黄泉に連れ去ってくれるなよと思いながら。
「終わりだ」
 と言うと、周りが片付けを始める。医療器具の扱いは、ローが口を酸っぱくして「丁重に」と教え込んだ。だからクルーたちのしまい方は慎重である。音も立たない。
 患者──海王類に襲われ大怪我をしたこの船のクルーは、みんなが動き回る中、正しい呼吸を取り戻しながら眠っている。ローはほっと一息ついた。ただし、まだ油断はできない。可能な限り自分がそばにいなければならない。
 外は、月の見えない気味の悪い夜だ。
 こんな夜に七武海の招集があると言われ、ローは首を傾けて鳴らした。どうせロクでもない集まりだ。
 くだらない。意味がない。今はそれどころではないのに。腹を立てながら、もうあとわずかもない招集時刻に心底嫌気がさした。
「でもキャプテン、行かないと」
「わかってる……なるべく早く帰る」
 ペンギンやシャチが心配そうにこっちを覗き込んでいた。特にベポは、感情移入をしすぎて苛立いらだちを共有してしまっているのか、顔も苦渋に満ちている。
(それが普通の反応だよな)
 と口には出さずにありがたく思う。
 今のポーラータングの状況を言えば、海軍の幹部たちも緊急事態を察してくれるのかもしれない。下っ端の海兵は海賊一人の命くらい、と鼻で笑うが、幹部なら違うだろう。
 けれどうすい息の下から、
「おれのことは、気にしないで。ちょっとヘマしただけですから」
 と青白い顔で笑う患者のクルーは、かたくなにローに「行ってください」と言った。今はローの本懐を遂げる大切な準備期間なのだ。少しでもローの道にひずみができてはならない。みんながそれをわかっていた。
 自分の中にはびこる矛盾を潰すように、コートのそでを握った。まもなく本部に着くポーラータングの中で静かな海の声に耳を傾ける。ローは能力者で泳げないが、潜水艇に守られながら海の中にいる時間は好きだった。
 窓の外には深海の生き物が、ヒレを広げて優雅に泳いでいる。

 海軍本部の頑丈で堅牢な建物の中を歩く。勝手知ったる道なのに、ジロジロと不躾な視線を送ってくるのは監視だ。仕方のないことだが、非常に面倒だ。窮屈で、わずらわしい。
 大広間に案内されると、自分よりも大柄な男たちがすでに座ってくつろいでいた。ローも手すりのついた椅子を用意され、脚を組んで黙っている。部屋の中にはタバコの煙と香水、用意されていた発酵酒の匂いが充満していて、本当はなにもかもうんざりな匂いのはずなのに、今日ばかりはほっとした。
(着替えもしてねェからな)
 着込んだ黒いコートの下には、患者の返り血がついている。ベッタリと、生々しい。例え匂いの充満した部屋でも、このメンツにはいつバレるかわからない。
(バレたところで、人でもさばいてきたかと言われて終わるだろ)
 けれど今は、そのからかいさえも気に障る。
 広い窓の外を、雨が打ち鳴らす。ガラスを叩く音が厄介なことに、会議中の人間の声をやや大きめにさせ、それぞれに少しばかりのストレスをかけた。ただでさえ緊迫した空気になりがちなこの場を、さらに助長させるのはやめてほしい。雷もまもなく鳴るだろう。優秀な航海士のベポが心配していた通りの天候になりそうだ。
 ……今ごろ船は一旦嵐が落ち着くまで本部のそばにある孤島へ避難させている。あの大怪我をしたクルーには、傷の治りの遅い気圧だ──苦しいだろう。ローはまるで自分が同じ場所を痛めたかのように、コートの上から胸ぐらを掴んだ。
「トラファルガー、なにか意見でもあるのか」
 司会進行をしていた海兵が鬱陶しそうに告げた。
「なにも」
 と言うと、海兵はため息をついて話を続ける。
 ……今すぐその首を跳ね飛ばしてやろうかと思った。煮えたぎる怒りと、チリチリとした仄暗い感情は、しかしこの七武海たちの中では日常茶飯事で、大して気に止められない。それが幸いだ。
 いっそあいつの首を飛ばしてしまえば、この意味のない会議は終わるのか──
「トラファルガー」
 自分の真横から、控えめな男の声がした。さっきの司会進行の海兵とは別の、ずっしりと重い声。
 周りに気を配っていて、ローにしか聞こえてないようにしている。声に混じって葉巻の匂いもした。椅子の背に手を置かれ、少しだけ動かされればすぐにその顔がわかった。
 白猟のスモーカーだ。たしかそう呼ばれていた。その男が、あごをしゃくって外へ出ろと言う。
 不快だ。指図されることにたまらなくイライラする。するが、ふと思いとどまる。
 スモーカーは、ローをじっと見下ろしたまま、一瞬だけわずかに目を細めた。それは命令する不遜さを消すのにじゅうぶんな効果があった。目を細め、まぶたを動かし、一度まばたきをしたあと、鼻からわざと短く息を吸って「お前の匂いに気づいている」というサインを送られる。
 ローは椅子から立ち上がり、席を離れた。気配を殺してその場から消えるのは造作もないことだった。他の海賊はみんな、一度はチラリと目をやったが、すぐに中央に注意を戻した──彼らはみなローの挙動を、まだ子どもが起こす小さな癇癪のようなものだ、と思い込んでいる。
(せいぜい思い込んでおけ)
 と冷えた目をして、ローは扉を閉めた。

 葉巻の香りがほんのわずかに廊下をたなびくが、スモーカーは吸っていない。
「怪我か」
……違う」
 強がりと捉えられたのか、もう一度スモーカーが尋ねてくる。
「医務室は近ェが」
「本当に違う。会議室を抜け出させてくれたことには感謝する」
 それだけをローが言うと、スモーカーはしばらく逡巡しゅんじゅんしている。
 もしもあの緊迫した空気が募る会議室でこの問答をしていたら、ローはイラつきを隠せずに接していただろうが、誰もいない雨粒の音だけが鳴る廊下では、大人しくしていることができた。野犬と名高いこの海兵が、意外にも静かで穏やかな男であったことも加味している。
「感謝される筋合いはねェ、血の匂いさせながら入ってくる野郎がいるから、放り出しただけだ」
……放り出された、ってことは、とっとと自分の船に戻ってもいいわけだな?」
 口の端を吊り上げて挑発したが、スモーカーはすぐには乗らない。海兵に表立った悪態や誹謗中傷を言われるのは慣れている。ローは次に出てくるスモーカーの発言をあらかた予想した。
(どうせホームシックになったか、とか言ってくるんだろ)
 あのスモーカーの顔面がニヤついて、こっちを挑発し返してくるところまでを頭に描く。そうすれば、すぐに切り刻んでやろうと刀をわずかに構える。
 けれど。
「帰りてェ理由がその血にまつわることなら、さっさと帰った方がいい」
 スモーカーはそう言って、ニヤつくどころか仏頂面のまま、コートの上から的確に血のついた部分を指差した──見えないはずなのに。
 血のついた箇所がズキリとする。服だけではなく肌にも付着しているそれは、ローの皮膚表層と相容れないらしく、ピリピリと小さく痛む。
 この非常に低い気圧のせいで、あのクルーがうめいているかもしれない。仲間たちは、見守ってやることしかできない歯痒さをきっと抱えている。
 ローがほんの一瞬目を伏せた途端、
「近道がある」
 こっちだ、とスモーカーが言ってコートをひるがえしながら廊下を突き進んだ。
 雷の咆哮がはるか遠くに響いたように思えたが、光が反射しているのはこの廊下の窓だった。意外と近くに落ちたはずなのにローの耳にあまり届かなかったのは、正義のコートを見つめながら歩くことに集中していたから、とあとから気づいた。
「ここから出て、港へ向かえ」
 本部の巨大な厨房の横にある勝手口だ。厳重な鍵はもちろんあるようだが、今は外れている。会議のあとにいつも派手な夕食会をやるから、その準備のせいで急かされ、鍵を閉め忘れたのか。
「おれが外した」
 あっさり罪状を吐いた海兵にローは驚いて顔を上げる。なんの罪悪も感じていない表情で、スモーカーが続けた。
「あのうんざりする場所で飯は食いたくねェから、いつもここから外に出てんだよ」
 そう言って新しい葉巻に火をつけてくわえた。
(喫煙者のくせに、これまで吸わなかったのは、煙の匂いをたどって尾行されるのを防ぐためか)
 ローはスモーカーの、まるで少年が考えたような逃げ道を用意したくせに、巧妙に足跡そくせきを消す悪知恵に感心しきってしまった。やり慣れた手口なのか、手元にある鍵を悠長に上へ放り投げてもてあそんでいる。
「理由を聞かねェのか、おれが早く帰りたがってるのを」
「聞いてなんになる」
「今日の借りを作れる、弱みを握れる。そんなところか」
 所詮海兵と海賊で、いつまでもいがみ合う仲だ。どちらかに傾いた形勢を、利用しない手はない。スモーカーが弱みを握りたいと思うなら、今まさにここであるというのに。
「てめェの弱みなんて握ったら、次の会議でこの近道のことを面白がって言いふらされそうだ」
 葉巻の煙が雨の中を漂う。ひさしのついたドアは雨にこそ当たらないが、風は冷たく足元を刺すようだ。体が芯から冷え出すのも時間の問題かもしれない。海は荒れるだろうが、帰って潜航すれば、この男のしゃべり口のような穏やかな深海が待っている。
 帰りたいはずなのに、ほんのわずかに足が止まっていた。叱咤するように拳を握り、爪が食い込む痛みで現実に引きもどる。
「早くしろ、トラファルガー」
「ローだ」
……?」
「ローでいい。まどろっこしい」
 そう言いはしたが、スモーカーにはどう呼ばれても振り返りはするだろう。会議を出て船へ一刻も早く戻る、という目的をスモーカーのおかげで達成できた。恩義とまではいかないなにかが、ローの中にゆっくりとくすぶる。
「横丁にだけは行くな、酔った海兵がいる」
 丁寧に逃げ道まで教えてくれて、スモーカーは煙を吐き出す。
「さっさと行け、ロー」
……ああ」
 口調は命令じみているのに、端々はしばしに急かすような音が滲んでいた。もうすぐ厨房に人が帰ってくるんだろう。それに、会議が終われば七武海の連中がどこをどう歩くかわからない。
 ローは振り返らなかった。振り返らずに、注意された横丁だけを避けて船へと全力で戻った。雨に濡れて能力のキレは今いちだったが、大きな海軍本部下の街をどうにか潜り抜けると、もうずいぶん本部は遠くなり、黄色い船体が前方にあった。
「キャプテン!」
 と喜びを全面に表すクルーたちに安堵しつつ、ローは一度だけ、そびえ立つ本部を眺めた。
 石壁と、砲台と、はるか彼方に屈強な建物が見える。そこに一筋だけ、あの白煙が見えはしないかと期待した。ただ期待をしただけで、結局雨と風でわからないから、ローは潜水艇へ滑るように降りる。
 水面の激しさとは打って変わって穏やかな海に抱かれるため、ポータータングは潜航を始めた。