酒の飲み方の話

お酒の強いロ〜が、最後にちょっとほろ酔いになる話
最初、モブが出てきます
ロ〜は医者、スは警官あたりかな…

酒の飲み方の話

 気に入っていた店だったが、そろそろ顔を出すのを控えなくてはならないか。
「一人?」
 と言われ、うなずくと、許可を出していないのに馴れ馴れしく見知らぬ男に隣に座られたからだ。カウンターの席は他にも空いているのに。
 マスターも今は仕事がないから、ローと何気ない話をしているところだった。堂々とした立ち振る舞いで間に入ってきた男が、ローの隣で酒をオーダーする。
(これがこいつの、ここでの常套手段か)
 とローは思いながら、口の中に自分の酒を入れる。さっきまでは芳醇ほうじゅんに感じていた香りが、一気に飛んでいくのがわかった。せめて気を紛らわそうと、箸を掴んで食事を続ける。
「彼みたいに若い人、珍しいね、マスター」
 男はローに直接話しかけないで、マスターを介して様子を見てくる──急に個人対個人で話しかけるのは警戒されやすい。口説き方をわかっているやつだな、と感心した。ただ、あいかわらず酒の味は不味くなったままだ。
「そうですね、ローさんは最近来ていただける方で」
 壮年のマスターはにこやかに笑った。笑いながら、ローと男を交互に見た。
 最近来てくれるようになった、という人間を、手離すような客商売はしたくないだろう。ローは接客業についたことなどないが、マスターの心の裏側を読むぐらいはできた──余計なことをして客足を遠さげるな、と男への牽制のつもりだろうに、男は、
「へえ。この店、いいところだもんね」
 と意に介さずに今度は直接ローに話しかけてきた。
 いや、意図はわかっているのかもしれないが、それでも突っ込んでローに話を振った可能性もある。
「そうだな」
 ローは返事をしながら、男を観察した。
 酒の減り、グラスの杯数、目の据わり方、肩の落ち、組んだ足のふらつき──まだ正常な判断をできる人間の形は保っていそうだが、ローは基本的に懐に入れていない他人をやすやすと信じない。特に一滴でも酒が入れば、人間の中身は濁りを増すのだ。
 濁って濁って仕方がない隣の男に、うっすら吐き気さえ覚えながら、ローはどうにか酒を飲み干した。
「もう食べ終わり? まだこれからだった?」
「あー……もう一つ、二つは頼もうと思ってたところだ」
 そう言うと、男は満足そうに息を吸った。
 なにかをするぞ、と期待と希望に胸を膨らませ、頭を活性化させるとき、人は大きく息を取り込んで新鮮な酸素で体を回そうとする。全身を正常に戻して、ここから勝負をかけると意気込んでいるんだろう。ローにはありありとわかった。ナンパをこんなに冷静に受け止められていると目のまえの男が知ったら、どんな気持ちになるのか。
 男が「おすすめがあるんだよ」とメニューを開きながらオーダーを言う間、ローも新しい酒をついでに頼む。

 ……スモーカーに声をかけられたとき、こういう鼻息の荒さはなかった。
 ごく自然だった。隣に来たのも、わざわざ声をかけてきたのではなく、混雑してきて偶然が生んだものだった。
 スモーカーは、ローが若いことを珍しがったりしなかった。二、三の軽口の応酬のあと、
「いい趣味だな」
 とつまんでいる料理の選択を褒めた。店を褒めつつ、ロー自身の目がいい、と言っていたのだ。
 スモーカーはたしかにあのとき酔っていて、それでも人間の根幹を見間違わない澄み切った男に、ローから興味を持った。それと、酒のおかげで頬骨と鼻の頭の血流が良く、かさついた皮膚が赤かった。年上の男が見せた、そんなほんの少しのかわいさがまさった。
 あれから一緒に住んで、ちょうど一年になる。スモーカーは、今夜仕事先で飲み会があると言っていた。終わったあとに一杯だけ、行きつけの店で酒を飲み直してから帰るに違いない。時間はもう、まもなくだろうか。

「ローさん、ローさん」
 ふとマスターの声がする。ああ、と顔を上げた。さっきより、時計の長い針が一周している。
 男にオーダーされたおすすめ料理はすでに食べ終え、ローの酒はもう何杯目かわからない。隣に座りにきた男は、カウンターに額をこすりつけて酔い潰れ、昏睡するように眠っていた。さっき観察したときよりずいぶん体裁ていさいを保てていない。そんなに飲んだか、とローは少々気の毒に思った。けれど、それだけだった。
「悪い人ではないんですけどね」
 今度はマスターが、ローを口説いてきた男の肩を持つ。マスターの、それもまた仕事なのだと思うと、自分に正直に生きてきたおれにはできねェ芸当だ、と労いのチップだけ渡した。苦笑するマスターは、支払いの伝票を男のまえに伏せ、ローには見せなかった。そして「またお越しください」と礼をした。

 一人で飲む日はきちんとATMで金をおろしてから行く。今日はたまたま、支払いが浮いた。財布の中で、使われなかったことに物悲しそうにしている札を一枚取り出して、コンビニに寄る。店員の気怠げな挨拶が今はローの耳にちょうどいい。
 商品棚に陳列されたタバコの番号を伝え、アイス二つと一緒に会計をしてもらう。釣り銭を戻すのが億劫で、横の募金箱に全部突っ込んだ。
 ビニール袋に入れられたそれらは、ぶら下げて歩くとガサガサと鳴る。真夜中の空の下で、ローの足音と袋の音だけが聞こえた。真っ白い雲が冷えた風を運ぶ。
 信号の赤いライトをぼんやりした目で眺めていると、遠くに見知った顔を見つけた。白い煙が彼の周りを舞う。潰れたタバコのソフトケースをポケットにしまっていた。あれはおそらく、一度家に帰ってタバコだけを買いに外に出てきたんだろう。
 ローは自分の持っている袋から新品のタバコを取り出すと、相手へ投げた。ニヤリと笑い、反応を楽しむ。
「なくなってたんだろ」
……だからって投げるな」
 素直に礼を言わないスモーカーは、寒さなのか酒のせいなのか、やっぱり赤い顔をしていた。ローは口元をゆるめたまま、男の隣に立つ。スモーカーが紫煙を吐いた。
「明日買い物に行かなくて良くなった」
「へぇ、なんで?」
「またもらったからな」
 ああ、とローは納得した。
 スモーカーの行きつけの店には年配の常連客がいる。この大柄な男は気に入られて、野菜や果物を大量に譲り受けて帰ることがある。もらうだけも悪いから、スモーカーは農家だというその客の、農作業を手伝いにも行った。「そういうことをするからますます気に入られるんだぜ」と呆れて忠告だけはしたが、結局好きなようにさせている。泥だらけ、土だらけになった作業着を狭い風呂場で洗っている後ろ姿と、大きな手で石鹸を泡立てている様子は、こっそり写真にも撮ってある。笑いを堪えて撮ったそれは、少しブレていた。
 ──口説かれたことは言わないでおこうと決めた。そんなくだらなく、つまらない話をしたいんじゃない。それよりも、帰ったら玄関先に溢れているであろう野菜の種類を聞くことの方が、ずっといい。スモーカーの、無表情の中に少しばかりの呆れた笑みを含ませて、一つ一つを説明する横顔を想像した。
「酔っちまった、今日は」
「珍しいな」
 いつから、なにに酔ったのかはどうか聞いてくれるなよ、と小さく願った。お前が吐くその煙を、遠目でたしかめたときから、とはとても言えない。
 タバコがない分少しだけ軽くなったビニール袋を鳴らして、ローはスモーカーよりも先に家路を歩いた。