熱の話

やっと同棲を初めて引っ越したばかりの二人の話

熱の話

 少しめまいがした。穂刈を頼ってみると、穂刈はいつもの感情のうすい顔つきではなく、目を丸くして驚いていた。
「珍しいな」
 荒船は、穂刈の手に支えられすくいあげられた自分の腕が、やけに細くなったような感覚に襲われた。あとは、動きが鈍い。
「悪い」
「風邪か?」
 熱か、穂刈の言うように、季節の変わり目で風邪を引いたか。
 思い当たる節がある。ベッドで眠っていたら、寒くなってきた朝の気温を忘れ、布団が少し遠くにあったのだ。穂刈はそのときもう外出していて、そばにはいなかった。
 ダンボールがまだ三つほど積まれた部屋で着替えたときも、寒いと思っていた。カーテンをちゃんと買わなきゃと思っているが、なかなか時間が取れない。
(今日は休みだから、一人で見に行ってみようか)
 そんな矢先に穂刈から連絡が入った。仕事が多くはなかったから早めに帰宅する、と。だから暖房をつけ、飯を用意して、穂刈が帰宅し、午後からカーテンを買いに行こうと進言した。そして今、買ったカーテンを持ち帰るために二人で歩いていた。そこでアスファルトの道がぐらりと揺れたように見えたのだ。
 額が少しひんやりと冷たくなって、なんだろうと思ったら穂刈の手が当てられていた。大抵は温かいところだらけの男だけど、今は冷たく感じる──自分の方が熱を持っているからだろうと察しはついた。穂刈もそれはわかったようで、額からすぐに手を離し、急いで帰るためにタクシーを呼んでいた。
 ……タクシーに乗り込んだ記憶はある。車の中で揺られている記憶も。雑踏が離れていき、窓から入る風が頬に当たって冷たかった。換気をしながら走る車は速度をゆるめたり、速めたり。信号のたびに止まる風景は、馴染みのないものばかりだった。公園、小さなスーパー、歩いている人の年齢層も。知らない街、知らない世界。熱でぼんやりとした頭にそれらが少しずつ流れていって、よく見知った声が耳に入ってくるのが遅れた。
「荒船」
 そう言って、穂刈が腕の辺りをやわらかく叩いた。何度か荒船を呼んでいたらしい。気づけなかった、と言おうとしたが、声を出すのも億劫になっている。
「本当に珍しいな、そんな参るほどになるなんて」
 穂刈が心配そうにこっちを見ている。空中に漂うようにふらふらとした意識になっている自分は、たしかに珍しいかもしれない。荒船は口の端をゆるめてそっと笑った。
「熱が出たら、俺だってそうなる」
 完璧な人間じゃねぇからな。
 そうつぶやいたら、まあそうか、と穂刈がまえに向き直った。
 ──ここ数年で、穂刈は骨の輪郭が大人びたが、やはりまえからよく知る穂刈だった。見慣れた耳の形も、髪も、買ってやったときから大切に着てくれている服も。
 タクシーの外の世界はまだ荒船にとって未知で、新鮮で、これからゆっくり知っていかなくてはならないという気負いがある。けれど今この車内は、よく知った男の肌の温度と、気遣いに満ちている。
「熱が、出たのは」
 荒船は、穂刈にだけ聞こえるような小さい声で話し出す。運転手から見えない角度を気にして、その手にも触れた。
「やっとお前と住めるって思ったから、気が抜けたのかもしれない」
 はは、と、詰まっていた息がほどけるように笑う。
 タクシーは交差点を曲がった。やっぱり知らないコンビニと、銀行が見える。けれど荒船の手を握り返してきたのは、もう冷たさが失せて、自分の熱を含んでよく触ったことのある温度になっていた。
 そのあとの記憶はあまりない。あまりないが、熱が下がるまでずっと穂刈の気配がそばにあったのはたしかだ。