ふたを開けて、ほぐれる

あらふね君お誕生日おめでとう!
あらふね隊解散後数年、A級になったほかり隊が遠征に行く話。
会えなくて寂しい、よりも、会えた時に笑っている二人であってほしい。同棲して何年か経ってます。

 穂刈が遠征に行く。
 上を目指そうとする新進気鋭の人間を、隊に入れたことにも驚いたが、A級に上がったことにも目を開いた。穂刈は専用のバックパックに荷物を詰めながら、
「そんなに遠い場所じゃない、今回は」
 と俺を安心させるように言ってきた。その背中は、部下の成長を喜んでいた。
 遠征期間は一ヶ月。俺が初めて遠征へ繰り出したときは、もう少し長かった。
 そうか、俺は、今度は待つ側になるのか。そう思いながら、穂刈の荷物を見下ろしていた。

 格納庫にしまわれた遠征艇は、雨取やそのあとに入隊したトリオン量の多い隊員たちと、最新技術の成果もあって大幅な改造を進めることができた。今もなお研究は進み、近界への進出のたびに膨大なデータを収集して帰り、職員が解析に一週間も二週間も時間をかけることがある。
 戦闘の必要性がない国から、戦闘必須の国まで。まだ気の抜けない状況に置かれ続けている近界行きの切符を、新規で入隊する隊員たちが次々に掴もうと躍起になっている。
 穂刈は、そういうのにあまり興味がないものだと思っていた。
「なにがいい、誕生日プレゼントは」
 とか、そういう気の抜けた質問をしてきたばかりだったから。
 あいつは律儀に、毎年誕生日プレゼントをくれる。今回のように聞いてくることもあれば、サプライズを仕掛けることもあった。けれど、こんな早い時期に聞いてくることはない。だからいぶかしく思って聞けば、
「行くことになった、遠征に」
 と言われた。
 俺の肌はなぜかふつふつと粟立った。鳥肌は数分間消えなくて、上から腕をさすってみたりもしたが、寒いわけでもないのに皮膚の小さなふくらみは収まらなかった。
「見てみたくてな。お前が見たところを、オレも」
 どうしてか、わからないまま──その日はひどく寝つきが悪かった。なんともないはずだと言い聞かせても、日に日に穂刈の遠征へ行く日が近づくにつれて、寝返りを何度も打つことが増えた。いつもなら隣で眠る穂刈は、まだ起きていて、資料作成や部下への指示に追われていた。明かりがつき続けるリビングへ様子を見ることもせず、俺はただ一人で胸のうちを解決しようと、ベッドに潜った。
 人は、年を取るにつれて涙腺がもろくなったり、感動したりすることが多くなるという。きっと、そのせいだ。遠征には、怪我や、最悪の場合死の匂いがつきまとう。
(だから、少し感傷的になっているだけだ)
 けれど俺は相変わらず他人の機微には疎く、寄り添うのが苦手だった。感傷的、だなんて、映画の中ではするけれど、現実でなかなかお目にかかったことはない。今も、その言葉にピンときてはいない。
 穂刈は、俺の不得意な部分を「そのままでいい」と言っている。「あんま甘やかすな」と同僚である水上あたりはいつも呆れていて、俺はたしかにこの男は俺を甘やかしているな、と感じたこともあった。けれど、そのたびに穂刈がとても満足そうな顔をするから、俺は結局変われないまま、大人の道を歩いている。
 そんな俺でも、穂刈の遠征当日、ガラス越しに見る出立はきっと、ふたたびあの鳥肌が蘇るだろうと思っていた。
 ──巨大な遠征艇に穂刈が乗り込む背中、それに続く穂刈隊の部下たち。期待と不安をいっぱいにしている彼らに声をかける穂刈が、ほんの一瞬、こっちを見た。隊服に身を包んで俺を見ている穂刈は、やっぱり安心させるように笑って、そのままもう一度も振り返らなかった。
 あの隊服は、「ほとんど変わらない形にする、荒船隊のと」と言って穂刈がデザインを頼んでいた。覚えている、まるで昨日のことみたいに。だからつい、まだ荒船隊である穂刈が乗り込んでいくような錯覚に見舞われた。
 その錯覚が消えるころには、遠征艇はゆっくりと轟音を立てて門へのぼっていった。白い煙にまかれてあっという間に黒い闇にのまれ、俺の視界から穂刈はいなくなった。
 俺は、最後までしばらくの別れを悲しみはしなかった。やっぱり情に疎い──俺は自分をそう評価した。
 残った本部の連中は、残務処理へ戻ったり、家へ帰る用意をしている。隣に並んだ人間と話し合い、部屋を出ていった。
 それぞれが、それぞれの生活へ、いつも通りの日常へ戻る。けれど俺にとっては、いつも通りじゃなかった。
 いつも通りであれば、俺の横には穂刈がいる。今日からはいない。
 それだけのことだと、遠征艇の消えていった方角を眺めた。

 ◇

 自分だけの洗濯物は、三日に一回の洗濯頻度で済んでしまう。だから、
(これがあと十回か十一回まわれば、穂刈は帰るのか)
 と洗濯機のまえで思った。
 ごうごうと回るドラム式の機械は、一生懸命に動いている。せわしなく働いて、シャツや下着を洗っている。洗う予定ではなかったカバーやシーツまで今日は洗ってしまおうと、横に控えていた。気持ちのいい天気だから、きっとよく乾くだろう。
 ──忙しく動き回る日々の連続、こんなところで悠々と洗濯物を回しているはずではなかった。
 ただ、人手が珍しく足りていた。防衛にも任務にも、当たれそうな人間が揃っていて、幹部である俺と水上はもしかしたら休めるんじゃないか? と首を捻った。そして案の定、休みをもぎ取れたのだ。
 久しぶりの休暇に、体は少しばかり楽になった。初日はとにかく眠って体が満たされ、今度は食欲を満たすためにとにかく食べた。激務続きの体に、過剰な睡眠と食事じゃなかったかと疑いはしたが、どうやらそんな心配はいらず、夜には近くのコンビニへ行って、一缶だけビールを買った。
 休みだから、誰ともしゃべらない。さっきもコンビニで店員と一言会話をかわしたくらいだ。
(しゃべってなさすぎて、とっさに声が出なかったな)
 いつも通りの生活なら、俺は話す相手もいて、声帯を使っているからそこまでくぐもった声にもならず、一日を終えていた。
 喉仏のあたりを皮膚の上からさすると、乾燥した気候のせいか、痛むようにも感じた。ビールを流し込んで、さっさと寝たほうがいいかもしれない──そうしないと、余計な切なさに、身をゆだねることになってしまいそうで。
 買ってきた惣菜とビールで晩飯を済ませ、シャワーも着替えも早かった。一人でいることはこんなに簡単で、あっけない一日の終わりになる。自分の前後左右、どこを見渡しても穂刈の名残が部屋の中にあるのに、俺は今、一人だった。
 それでもまだ、そんなものかと息を吐き、眠りにつくことができた。穂刈の遠征まえのような寝つきの悪さもない。
 悲しいとか、寂しいとか、そういう自分の感情にすら寄り添えない。今は、切り捨てていたい。意外とそれは、簡単にできた。

 ◇

 広報の仕事が回ってきた。と言っても、嵐山さんのような目立つ活動じゃない。ボーダーの運営についての質疑応答が、テレビの特集や週刊誌に掲載されるだけのことだ。「俗な質問がくるだろうから構えとけ」と諏訪さんは言っていたが、水上がうまくかわすだろう。
 それでもスーツは衣裳用だし、カメラも回るからと化粧もされる。やたらと粉の舞う室内で、水上と俺は鏡越しに話す。
「俗な質問ってなんだ?」
「独身やからやろ」
 ああ、そういう。俺はそれだけを言うと、あとは黙った。
 家庭、パートナー、子ども。それに縛られず、独身で気ままだからボーダーの活動ができる、とまで言われたことのある昔の上層部の人たち。どういう選択肢を取り、その結果になったのかは本人たちしか知り得ないことなのに、根掘り葉掘り聞いた挙句に噂をでっち上げる週刊誌。
 餌食にはならない。と決めると、俺も水上も表情が固くなったらしい。メイクの人を少し困らせた。

 驚くほどあっさりと終わった広報活動に拍子抜けした。つつがなく終わることはいいことだ。水上を飯にでも誘おうかと声をかけたが、旧生駒隊で用事があるらしい。それなら仕方ないから、割り切って本部へ向かった。ちょうどランク戦のブースに人だかりができていて、米屋や緑川が年下の隊員たちとじゃれている。
「荒船さん!」
 数年まえよりやや声が低くなった緑川に呼ばれ、俺は結局参戦することになった。幹部になってからろくに変動していない個人ポイントを見ると、他のやつらとはずいぶん引き離されている。もう今さらそこに卑屈になったりすることはない。ただ淡々と、経験に即した動きを見せるだけ。そう話したら、緑川に、
「太刀川さんはまだまだやれるって、この間B級の後輩ボコボコにしてたよ」
 と大人気ない代表みたいな話をされた。
「まああの人は……そりゃあ、な」
 俺が天を仰ぐと、緑川は笑って話題を変えた。
「でも荒船さんがこっちにくるのは意外。てっきり狙撃手の訓練室あたりに行くかと思ってた」
 今日わりとみんないたよ? と物知り顔で言われる。
 ということは、幹部になっても「ここの方が居心地がいいから」と居座っている東さんや、訓練教官なんていう役をもらいながらも適当にサボっている当真がいるんだろう。
 ただ、足が、勝手にこっちに進んだ。ブースを選んだ、というより、狙撃手の訓練室を避けた、という方が正しい。さすがにイーグレットの音を聞けば、懐かしく思ってしばらく立ちすくみそうだ。そんな姿を、他には見せたくない。

 ◇

 本部に連絡が入った。
「遠征艇がまもなく帰還する」
 今でも現役で動く忍田さんがみんなに告げた。まもなく開かれる門のまえに、技術者や幹部の数人が立ち合うために急ぎ足で向かう。
 幸いなことに、誰一人負傷者はいない。向こうでの戦闘も、回数こそ多めになったが、小競り合い程度で済んだらしい。しかしデータは豊富に揃えられている。また技術者たちの忙しい日々が始まるだろう。
 真っ黒い闇が、小さいがしかしはっきり現れ、不規則に揺れながら円を描いて大きくなる。一見平面に見える中から大型の船が現れた。巨大で頑健な遠征艇は、行ったときよりも心なしかたくましくなって帰ってきた気がする。
 ゆっくりと地上に降り立ち、周囲に響いていた轟音も止む。俺はまたガラス越しに、一人、また一人と遠征艇から現れる隊員たちを遠く眺めた。流れるように次々と進む隊員たちは、やがてボーダー職員に囲まれて見えづらくなる。
 俺が今いる位置からは、遠征艇全体を上から俯瞰ふかんで見ることは容易いが、隊員一人一人をつぶさに観察するのは難しい。乗り込むときは見えたものも、降りるときは見えないこともある。さらに人で混み合えば、当然ここからはわかりづらさが増す。
 ──だから穂刈の姿は見えなくて、そこまでは仕方がないと思っていたのに。
 幹部連中と休憩がてらラウンジへ行ってもあいつは姿が見えず、遠征組でささやかに打ち上げをすると奈良坂から聞いても、「穂刈さんは参加しないって言ってましたよ」と言われた。
「もし戻ってきたら、探していたって伝えておきましょうか?」
 丁寧な物腰で心配をされる。奈良坂ならきっと伝えてくれると信頼はしているが、
「いや、いい。悪かった、自分で探す」
 と辞退した。
 焦っているように見られただろうか、必死なように見えただろうか。取り繕ってみようにも、もう遅い。奈良坂はあまり変わらない表情のまま、会釈をする。こういうとき、あの後輩の静かさをありがたいと思う。きっとあいつは、誰にも言わないでいてくれる。
 窓から見える夕焼けは沈んでしまった。水平線の向こうに太陽がいたであろう跡があり、しるべのようにおぼろげに光っているそこは、まもなく消える。
 帰宅する旨は他の幹部にも伝えてある。ひとまずボーダー内を歩いてみたが、それとなく探してみても穂刈の気配はない。
(まるで、会いたがっているみたいだな)
 心の中で自嘲して、すぐに諦めた。今日はもしかしたら、なにか別の予定がすでにあったのかもしれない。
(それにしても、よりによって今日か)
 もう一度反芻すると、心臓の一部がきしんだ。
 今日穂刈がなにかをするかしないかは、あいつの自由だ。俺が遮る権利はないし、止めることもできない。
 暗くなった路地を歩いた。街灯の一つ一つの距離は、こんなに短かっただろうか。早く家に着いて、スーツを脱ぎたい。一日の程よい疲労と、穂刈の姿が見えなかったあっけなさで、とっとと家に帰りたかったのだ。

 マンションに着き、エレベーターを待とうとボタンに手をかけると、エレベーターは七階で止まっていた。七階は、俺たちともう一人の住人しか住んでいなくて、そのもう一人の住人というのは夜とても遅くに帰るから、今はエレベーターを使わないはずだ。
 無意識に、期待をする。
(いや、隣が早く帰ってくる日だって、あるかもしれない)
 期待を、頭で振り払う。
 ポンと聞き慣れた音がして、エレベーターは七階に着いた。廊下のダウンライトが、もうすでに着いている。靴の裏の汚れらしきものが、廊下にくっついていた。その汚れは俺の家の方へ向かっている。振り払ったはずの期待が、ふたたび足の裏から這い上がってくるようだ。俺は、気がつけば鍵も出さずに家のドアを開けていた。この鍵は、開いているともうわかってしまったから。
 誰かがつけた明かりが灯っているリビングは、一ヶ月ぶりに見る。
「荒船?」
 穂刈の頬には、汗が流れていた。走った、んだろうか。いつも本部へ行くときの格好で、ジーンズとTシャツに、いつか俺が貸したままのブルゾンを着ていた。外の匂いをまとわりつかせたままの穂刈は、バックパックもまだ解体していない。冷蔵庫のまえに立って、タッパーや野菜を取り出し、白い箱をしまっている。
「早かったな、帰るのが」
 パタンと閉じた冷蔵庫が、ブーン……と小さな機械音を鳴らす。今入れたばかりの箱を冷やすために、全力を尽くしてくれているようにも感じた。
「良さそうなのがなかった、本当は近界で珍しいもんでも見つけたかったんだが」
 なんのことを言っているのか今いち掴めず、俺は穂刈を見上げた。ここ数年で、俺よりもまた少し背が高くなったこいつは、呆けている俺に首をひねる。
「食いたくなかったか? ケーキ」
 穂刈は、遠征に行くまえと変わらないテンションで聞いてくる。なにがいい、誕生日プレゼントは。と聞くあの雰囲気そのままで。
(こいつ、もしかして遠征中も、俺の誕生日のこと考えてたのか?)
 ──突然、ゾワゾワと肌が痺れる。この一ヶ月、全く感じていなかった粟立ちだ。それは皮膚を波打たせ、身震いを起こす。熱を帯びる。
 穂刈にふたたび会えたことで、体の中から失っていた感情が蘇る。これまでふたをしていた悲しさや寂しさじゃない、もっと別のくすぐったさがある。
「どこの、ケーキだ」
「? あ、ああ、あそこだ。駅前で、少し奥まった場所にある」
 そこは、穂刈が遠征に行くなんて互いにまだ微塵も知らないころ、映画に行くために歩いていたとき見つけた店だ。いつか技術者の誰かが話していたことを言ったのだ、「あそこのケーキは人気で、糖質が控えめで甘いのが苦手な人でも食べやすい」と。
 なんの気はなく、人気なら食べられる機会はなかなか無いだろうな、と俺は言った。
 甘くないなら穂刈も食べられるんじゃないか? と笑って。
「閉店ぎりぎりだった、遠征から帰った時間は」
 穂刈の額から汗はしたたり、床に落ちた。穂刈は手で残りの汗をぬぐい、シンクで両手を洗う。水の流れる音が、俺の思考も一緒に洗い流すみたいだ。
「今、食べていいか?」
……いま?」
 穂刈はしばらく考えて、せっかくしまったケーキの箱を、不思議に思っているだろうにもう一度取り出した。水上にこれを見られたら「飯のあとにしろとかなんで言わへんの」と呆れられる。誕生日だからとか、そういうわけじゃない。穂刈はいつも俺に甘い。
 ホールケーキは四号サイズ、生クリームといちごが乗っている。
「切るか、それなら」
 包丁を取り出して、ケトルで沸かしていた熱湯を刃にかけて拭き取る。そうすればスポンジが切りやすい。そんな手間を、目の前の男は好む。やさしくやわらかく、等分になるように切られたケーキは、最後に俺のために出した皿に置かれた。
 誕生日祝いについてくるろうそくも、プレートもない。ダイニングにも座らないで、立ったまま、飾らないケーキにフォークを入れた。男二人でそうしてケーキを食べている姿は、あまりに誕生日とはかけ離れている。生クリームは宣伝通り、甘すぎず口の中で溶ける。
「穂刈」
 そう呼びながら、切るときに丁寧に乗せてくれたいちごをつまむ。「やる」と言うと、大人しく食いついた。白い歯に赤い実がかじられる。穂刈も公平さを望んだのか、ケーキのいちごを俺によこした。酸味のある、いかにもケーキ用のいちごの味だ。外側がコーティングしてあって、艶もある。互いに頬で転がしながら「うまい」と言葉が思わず重なった。どれもこれもが、互いがいなければできないことだった。
 この一ヶ月、感情を殺してきた過去の俺が見たら、驚くだろう。ケーキをなによりも先に食べるなんていう順序をすっ飛ばした祝い方も、誕生日らしからぬ食べ方も。我慢を知らない子どものようだ。穂刈がくれるものを、いち早く欲して。
 もう一口ケーキを含めば、じわりと頬が熱くなる。肌はまだ、ふつふつと感動していた。もうしばらく、この感覚は消えない。