ライオンを取るか、陣地に入るか

子ども向けの将棋(ど△うぶつし△ょうぎ)をやる二人のお話。おき→水になる。
みずかみ君表紙おめでとうと帯の衝撃にもちょっと絡んでるお話だけど、ほんとちょっと。

 将棋について、隠岐はなにも知らない。けれど、目の前のこれならできそうなのでは、と本屋に寄ったときに手に取ったそれ。
 横にいる自分の先輩に尋ねてみたら、「結構おもろいから、やり始めるにはええんちゃう?」と知ったような口ぶりだったので、やったことがあるんやと思い、隊室にあってもおもろいかも、と一つ購入することにした。
 王将をライオンに見たてた、子ども用のマス目の少ない将棋である。

 ◇

 結論、水上は、これをやったことはないらしい。知ったような口調だったのは、パッケージに書かれたマス目の様子やルールの雰囲気を見て察して言ったそうだ。それだけで「意外と面白い」と評してみせた。つまり、この単純そうに見える子ども用の将棋に、水上のような練達れんたつした者も楽しめる要素がある、ということだ。将棋に初めて触れる小さな子どもから、将棋をやり慣れた大人まで楽しめるなんてよくできとる、と隠岐は感心する。
 木でできたぬくもりのある駒を四つ並べた。駒には誰もがゆるいと思うであろう絵柄で動物が書いてある。それぞれの役割は、ひよこが歩、きりんが飛車、ぞうが角、ライオンが王将である。各々一マスずつしか進めない。マス目は三かける四、計十二。
 両方の陣地に並んだ向かい合う動物たちと、それと同じように向かい合った隠岐と水上。
 水上の、細く乾いた指がそっと駒を持つ。その指先に、気の抜けた絵柄のかわいい動物がいることが滑稽で、隠岐はむずむずと笑いをこらえていた。
……隠岐、集中してへんやろ」
 生身の学生服が、笑いで揺れているのを見破られた。だって、と言い訳を言おうとすると、歩であるひよこがひょいとさらわれる。
「ああ、おれのひよこちゃんが」
「お前も取ったらええやん、ぞうさん」
「でもぞうさん取ったらライオンさんが危なくなるでしょ、そんならライオンさんを一つ動かすしかないし」
「考えが漏れとる」
「あ、すんません……でもこうしたら頭整理されません?」
「しゃべりながら整理するってことか?」
「まあ先輩は、しゃべらんとできるんでしょうけど」
 隠岐は口を尖らせ、次なる手を考える。盤面の動物たちが、草原の描かれた陣地から攻め込もうとしているが、なにせ指し手が初心者な上に、ゆるい絵柄もあいまって頼りない。隠岐はライオンを取られないようにするために、一つ自陣に下げた。
「隠岐は、やっぱり狙撃手やな」
 この手が、自分のポジションがわかるような行動につながったのだろうか。つながった、んだろう。水上は顎に手をあて考えながら、きりんの駒を一つ前に進めた。
 なんでそう思ったんやろ、と聞くまえに、水上が解説をくれる。
「ライオンを下げて、全体を見て様子窺ったやろ」
「この場合なら、みんな大体はそうしません?」
「イコさんとまえにやったとき──あれは普通の駒やったけど、王将をまえに出して攻め込む手やったで」
 そういえば、そんな日もあった。将棋盤をはさんで二人が静かに作戦室にいるのが珍しい日だった。あれよりはマス目も少ないし、やれることは限られてしまう。それでも今、隠岐がやったような手とは違う、攻め入る可能性があったということだ。
「この状況で攻めるのは考えつかんかったなあ」
「隠岐のも悪い手やない。むしろ、ゲームが長引いて楽しいで、俺は」
(そうか、楽しいんか)
 隠岐は、座っている腰が浮くような気持ちになった。
 水上が、楽しんで笑っている姿というのはそんなに多くない。生駒や南沢とふざけ合うようなことはあるし、細井と穏やかに話すことはあるけれど、この先輩を真の意味で楽しませるというのは、いささか高度で難解な気がした。付き合いの短さもあるし、水上自身の性格もある──笑いづらい、というより、ツボがどこかわからない。
 隠岐の番になり、考察して手を動かす。今回も狙撃手らしい手を果たしてしているのか、指している側はわからないが、水上にはわかるのだろうか。
 ──それならば。隠岐は、神経をしずめて盤面を眺めた。
 このゲームの勝敗は、「敵のライオンを取るか、味方のライオンが敵の陣地に入るか」である。
 隠岐が足を動かすのは、いつだって正しいと信じる指揮を忠実に、けれど時には自分の意志をもちつつ。戦闘中は目の前の男に決められた道筋を照らされながらも、全体を見渡して、自分なりの最良の判断も加味できる。狙撃手らしい狙い方を、将棋の上でのしているのならば、先輩にはお見通しではない視点もあるのではないか。狙撃手の見ている世界は広い。その広い世界から下を見れば、頭を狙うことも、陣を踏むことも、容易そうに見える。
 けれど。
 隠岐は、ため息をついた。正確には、水上に聞かれないようにこっそり、鼻から息を吐いた。このライオン、先輩の髪の毛みたいなたてがみしとるわ。そんなくだらないことを思って、自分の心を平静に保とうとしながら。
(一歩、駒を進めるたびに、この人に近づけたらええのになあ)
 楽しそうに次の手を考える水上。隠岐の番がふたたび訪れて、悩んで出した答えにまた水上が長らく頭をひねらせ、「ほんなら、こうかな」と木製の駒を動かす。「ええ、それやったら……ええと」と口数の多い自分を、水上はほんのり笑う。
 難しく考えることは苦手なはずだった。この将棋の動物たちのように、ほがらかでいたかった。
 けれどライオンを取りに行こうと、陣地を攻めに行こうと隠岐が駒を動かすたび、水上が嬉しそうに口の端をゆるめる。そんなに弛緩しかんした水上は、今まで見たことがない。それなのに相手を狙うことは簡単にはいかない。こっちのライオンをあえて狙わず、試合が長引くように、淡々と進められている。
 ライオンを取るか、陣地に入るか。一筋縄ではいかない世界へ足を踏み入れた隠岐は、粟立つ肌が学生服の下に隠れていることをありがたく思った。
 ──隠岐と水上は、しばらくそうしてパチ、パチと小さな音をたてながら作戦室のデスクを占拠していた。いつもなら騒がしい生駒隊の部屋には珍しく誰も来ない。隠岐はそんなことにも気づかず、ただ夢中で水上と盤面を見ている。