無題 日常

あらふね君のめがねをかけてみるほかりに、ちょっといいなと思うあらふね君のお話。

 秋が忍び寄る。風の冷たさでわかった。家の中を吹くそれに驚いて、俺は窓を閉める。カーテンが一度なびいて、元の定位置に収まると、床に映るドレープの陰影が濃く見えた。
 パソコンと向かい合っていた俺が椅子から窓まで動く間に、ガタンと玄関が鳴って、穂刈がロードワークから帰宅した。
「上着、必要だったんじゃねぇか」
 俺がそう聞くと、ただいまと言いながら穂刈は首を鳴らし、
「そうかもな。持って出る、今度から」
 と汗に濡れた半袖を洗濯機へ放った。首筋から肩甲骨までが隆起して、筋肉を動かし、今度は下を脱ごうとする。あわてて視線をそらし、着替えを持ってきてやった。
「走れなさそうなのか、今日は」
 いつもならこの時間に一緒に走りに行っていた。俺もそれを楽しみにしていたが、
「夕方までには終わらせる」
 と眉をひそめることしかできなかった。
 デスクに広げた書類を遠くから睨む。仕事を持ち帰るなんて、本来やりたくはなかったが、仕方のない案件だった。夕焼けの空が桃色の雲をたなびかせるころ、一人で外へ出るのもいい。
「わかった」
 穂刈はランニングシューズの土を軽く払って終わった。走り終えたら、必ず手入れして汗を拭って靴箱へしまうのに。穂刈の「わかった」は、二人で走りたい、という意図だ。腰骨のあたりから背筋が少し伸びた。午後からの仕事の、背を押された気分になる。に、してもだ。
「早く風呂入れよ」
 玄関にパンツ姿で、満足そうに二人分のシューズを並べている穂刈は、滑稽で笑える。

 穂刈はシャワーを浴びて着替える。俺はダイニングテーブルに広げた書類を見ながら、ノートパソコンと戦う。
 エンターキーを押しながら、メールの文章を埋めた。宛先に入れた相手も、今ごろ家で仕事だ。俺のメールを受け取って、また作業を進めるんだろう。なるべく負荷が偏らないよう、仕事量を割り振ったつもりだが、はたして相手は乗り切れているだろうか。メールの最後に労いの言葉を添える──数分して、確認済みを知らせるメールが相手から届き、「なんとか終われそうだ」と追伸がある。俺は安堵した。
 ふと穂刈を盗み見ると、ほどよく体を動かして汗を流した体は、Tシャツとスウェットを着てソファに横になっていた。いつもは二人で座るから、あの長身が横になれるときはそう多くない。伸ばした裸足がひじかけに乗っかると、やはり足の長さが余って足首からつま先まで全体が見える。
「終わりそうなのか?」
 俺の視線に気づいた穂刈が上体を起こした。足よりもずいぶん先に頭がついていて、自分より少しだけ大きな背丈の男だったな、と改めて気づかされる。
「もう少しだ」
 ふぅんと穂刈は相づちを打つ。その声音がわずかに弾んで、語尾が上がる。ふたたびソファに沈んだ頭と体は俺の場所からは見えない。けれど、足先はゆっくり前後に揺れて、時が来るのを待ちわびている。
 今日はこいつにちっとも構えていなくて、趣味のロードワークで時間を潰してもらった以外は、家事全般を任せてしまったり、朝も昼も飯を用意できずにいた。「気にするな」と笑ってすべてをこなしてくれたが、一日の半分以上を過ぎた今の時間までろくに言葉を交わさないのは、予想外に寂しいらしい──お互いに。
 季節はもう秋の入り口で、少し肌寒くなってきたから。そう心中で寂しさへの言い訳をしながら、パソコンのキーボードを打った。

 最後の書類を片づけ終わると、安らかな寝息が聞こえてくる。ソファで横向きに眠る穂刈のそばにはスマートフォンがあって、最近よく気に入って見ている動画が流れていた。半崎が面白いからと勧めてくれたらしい。無線イヤホンも端に転がっている。
 動画を止めて、スマホを避ける。そばに顔を近づけると、無防備に眠る大型の人間は、平和そのものの表情をしていた。
 面白がって、鼻をやわらかくつまんでみる。「ん」とか「む」とか声が漏れて、けれど決して振り払ったりはしてこない。調子に乗ってもう少し指先を動かしても、穂刈は怒らない。それは、長らく一緒に過ごしていて大体わかった線引きだ。
 いや、穂刈はもっともっとまえ、それこそ出会ったときから、俺に対してほとんど寛容で開けっぴろげだった。俺はどうしてか許されて、さらに居心地がいいから居続ける。たまに、誰かにここは明け渡さなくていいのかと尋ねると、「今はいい、荒船以外は」と言われ、そんなもんかと思い、その穂刈の言う「今」が終わるのはいつなんだろうかと疑問を持ちながら生きている。
 このままだと、この場所に埋まって、俺以外の形がはまらないようになるんじゃないだろうか。穂刈はそれでいいんだろうか。
「あらふね、痛い」
 さすがに鼻をつまむ手の力が強すぎたのか、穂刈は驚いた顔でこっちを見ていた。穂刈がうすく目を細め、俺の目あたりに手を伸ばした。肉厚の指が俺の目にかかっているプラスチックのフレームに触れる。
 パソコン用のめがねを取ることも忘れ、穂刈の元へ仕事が終わってすぐに来たんだとバレてしまった。耳にわずかにかかっていた重みが抜け、めがねは穂刈の手元へ移る。中程度の度入りのそれは、こいつの視力にはきつかったようで、
「悪くなったか? 目が」
 とめがねをかけながら、遠い景色をどうにかして見ようとしていた。眉間にしわを寄せている。まるでさっき書類と睨み合っていた俺の顔と同じだ。
「まえと変わってない、お前の目が良すぎるんだ」
「老眼が早いらしいな、遠くが見えすぎると」
 鳥のように広く遠くを見て、悠々と歩いている穂刈の姿を、俺は気に入っている。だから、その横顔からめがねをそっと抜き取った。このレンズ越しに見るこいつの世界は、とてもじゃないが不自由そうだ。
「お前がいつもこれをかける姿は想像できねぇな」
「たまにかけるなら?」
……たまに?」
 首をかしげた俺に、穂刈がフレームをなぞりながら説明する。
「たまにかけたら、新鮮に思ってくれるんじゃねーか、いつもと違うギャップに」
 それは……と口を開きかけ、さっきまでいかつい顔をしてめがねをかけていた穂刈を思い出す。
 フレームに指をかける、ちっとも慣れていない扱い方。レンズ越しの景色の歪みに酔いを感じている目。ピントを合わせるために苦戦している表情。風呂上がりで珍しく降りた髪がレンズにかかり、目元が見えづらくなっていた。
 たしかに、新鮮だった。
「飽きられたくねーからな、お前に」
 冗談とも、本気ともとれない穂刈のからかうような笑い方は、近くだと余計に耳に響く。
(まるでお前は、俺に飽きない前提があるみたいじゃねぇか)
 都合のいい解釈をしそうになる。穂刈はねぼけた目をしていたはずなのに、もう意識を覚醒させて、こっちを向いていた。穂刈の目の色は黒と焦げ茶が穏やかに混ざり合い、いつもより丸みとやわらかさを帯びる。こういうとき、じっと黙ってどちらからともなくキスをするのがムードだと思うのだが、こいつは、
「もう構えるのか、オレに」
 と甘えたなことをあえて言う。もしも穂刈に尻尾があれば、引きちぎれんばかりに左右に揺れていそうだ。うやむやにキスをしたりせず、ちゃんと言葉で確認を取って、態度で示せば、「待っていたんだぞ」と否応なしにわからせられる。
 構えていなかったことに対する詫びを込めつつ、健気に、かつ堂々と待っていたとアピールされたことを、不覚にもかわいいと思ってしまった俺は、仕返しに上唇に噛みついた。それがあまりにも弱々しかったから、すぐに穂刈に笑われて、吸いつくようなキスをされる。少し脳裏が痺れた。
「走りに行くんだろ」
 せっかく、お前が靴を並べたのに。そう言うと穂刈は「あとちょっとだけ」とごねる。たしかに、あとちょっとくらいはいいだろう。さんざん待たせてしまったし。
 酸欠になりそうなほどになってきた行為に、俺は抗議しようとうすく目を開く。目が合うと、穂刈の瞳は弧を描き、一度だけまばたきをしたが、あとはずっと俺を見ている。はあ、と息を吐いて、俺は諦めた。シャツのいちばん上のボタンが外されて、風が舞い込む。寒いから。秋だから。俺は穂刈に体をくっつけた。