妖怪のせい

おき君と一緒に過ごす時はそれなりにかっこつけてるし、おき君はだんだん無自覚にそれを受け入れて浸透してる、というお話。

『妖怪のせい』

 先輩の目は、横にもついているのではないか。
「もしかしたら、人間やないのかも」
 独白するように言ったが、当の先輩はちゃんと目の前にいて、頬杖をつき、うすく開いた目をこちらへ向けている。上まぶたと下まぶたを一度くっつけて開くと、まえに開けていたときより大きくなった。細い瞳孔が自分をより明確に捕らえる。

 週に二回はお邪魔している先輩の部屋。二人のグラスにもう麦茶がなくなったから、先輩が冷蔵庫から新しいペットボトルの封を開けていた。さっきまで食べていたうどんの皿を下げて、代わりにアイスを持ってきてくれる。荒船隊のアイス好きが教えてくれた、この夏おすすめのアイスを食べるために。カップのふたを開けていたら、扇風機の風がいつの間にかおれの横を通り過ぎる。直接当たるのは体にさわるから、「足元に軽く当てとくくらいでええんや」と先輩が言っていたのはこの夏の始まり。セミがまだそこまでうるさくなかったころだ。
 夕方だから、もう扇風機だけでいい、と先輩が判断したのは、今日が風が強くて、窓から部屋にちょうど良く吹くから。そしてアイスを食べて体も冷えるだろうから。
 今では、部屋中に響いているセミの声が、先輩の過ごしたこの季節の経過を知らしめてくれる。

「そんないろんなこと見えてるの、人間離れしてるんやなーって」
「そうでもないで」
 頬杖をついていない方の手で頭をかいた。明るい色だが毛量の多い髪は、この湿度の高い日を嫌がるように、少し元気がない。オレンジ色が夕日と混ざり、毛先を輝かせる。
 先輩はふたたびこっちを見た。
……いや、もしかしたら、そうでもあるかもしれん、って言うたら?」
 目のまえの輝いた橙色の毛先に「猫もこんなふうにキラキラするなあ」とのんきなことを考えていたので、先輩が言ってきた意味をひとつ、理解するのが遅れた。ひとつ遅れると、ふたつ踏み出すのに足がもつれ、みっつほど後ろからついていく内に、先輩はとっくに先を歩いている。
「そうでもある、って?」
「言い方変えよか、そうかもしれん、ってことや」
……人間離れしとるってことですか?」
 涼しい風が頭を撫でたが、おれが風を浴びているのは足元だけのはずだ。たぶん、頭をクリアにしようと、おれ自身がのんびりしていた頭のモヤを取ったのだ。もう遅れを取らないためにも。
 先輩からの返答はしばらくなくて、代わりに鼻で笑う。おれの思考が追いつくのを待ってくれている。
……そうやなあ、隠岐には話してもいいかもしれん」
 鷹揚おうように先輩が動いて、ため息をついた。秘密を話すとき、人はこんなふうにもったいぶって、かしこまって、姿勢を正す。おれは壮大な秘密を明かされるのかと、先輩のオレンジ色に抜けた髪のてっぺんから、正座して折れたひざまでを急いで眺めた。舐めるように見ると言うよりも、表面だけをなぞるのが精一杯だったが。
「実はな、ここに目があんねん」
 こめかみの辺りを軽くとんとんと指で触れて、先輩は神妙な顔をする。次いで、
「誰にも言ったらあかんで」
 と眉をひそめられ、おれも同じ顔をした。
 そこは髪の毛で常時隠れている場所で、そういえばおれはこの人が髪を上げていたり振り乱したりするのを見たことがないなあ、と思い返した。
 ──今は湿度で大人しくなっている髪の束をじっと見る。
 その下に目があるのなら、毛で覆われているのは見づらくないだろうか。いやでも、先輩はつまりその、特異体質な人間であるから、隠さなければ生き難いだろう。なんという難儀なもん抱えているんや。人生でつらいこともあったかもしれへん。こんなん、おれ一人で対処できる問題やない。誰にも言うなって言われたけど、隊のみんなか、せめてイコさんには言わなあかんのちゃう? あ、もしかしてイコさんは知ってはる? おれだけ知らんとか? ほんならやっぱり、おれにはちょっと荷が重いから相談して
「おーい、隠岐くん隠岐くん、戻っといで」
 ハッと我に帰ったし、ハッと声にも出した。息が急に喉にたくさん入り込んでむせる。ゴホゴホとおれが背を丸めて咳をすると、先輩がやさしく背を撫でてくれる。
「あながち本当かもって思うなや、冗談に決まっとるやろ」
「だって先輩、態度も改まって話すから……!」
 だんだんとおかしくなって、腹が震えてくる。しだいに笑いが込み上げた。なぁんだ、じゃあ先輩は三つ目か四つ目の妖怪やなかったんか。それはそれで似合いそうやけど。おれは、どこか先輩らしい風貌でありそうな妖怪を勝手に想像して頭に作り上げる。
「そんな人間おるわけないやろ」
「でも先輩なら、妖怪になってもうまーく隠すでしょ。やさしいし、人を襲わなさそうやないですか」
 おれの中の想像した妖怪も、とぼけた顔で明後日の方を向いている。おれが、はあ笑った、と腹を抱えて座ったまま床に後ろ手をつくと、先輩は口の端を引っ張って、笑っているのか拗ねているのかわからない顔をした。いつも眠たげな目はきちんと開いてはいるものの、憂うように細くなって、おれをその視界の端にだけ入れている。そして。
「やさしい、って思っとるんや」
 そうゆっくりと発語する先輩は、言葉に含みを持たせてまったりと話す。喜んでいるのか、驚いているのか、「ふうん、やさしい、な」ともう一度反芻して、よく味わい、立ち上がって皿洗いを始めても、何度かうなずいている。
……先輩、やさしいって言われたこと、ないんですか?」
「そら、あるけど。一時的なやさしさに関して言われたことくらいやな。手伝いをしたとか、なにか相手の役に立ったときとか」
 泡立った食器がかちゃかちゃと音を立て、一つだけ泡が舞った。先輩の斜め上へのぼっていくほんの小さなしゃぼん玉は、弾けずにがんばっている。いよいよ割れてしまうというころに、先輩が話し出す。
「もしかしたら、隠岐にはやさしく見えとるだけかも」
「おれだけ、ですか?」
「妖怪にだまされとるんやないか」
「そんなことないでしょ、だって、」
 だって、おれにはあれもこれもやさしくしてくれるやないですか。そう言葉をまくし立てようと、おれは身を乗り出した。そして、あ、と間抜けな声を出す。
 ──そういえば、生駒隊でいるとき。マリオとおれと、あと本当は座っててほしいイコさんが、意外とせかせか動いて、みんなの飲みもんだったりを用意してた。水上先輩は最初こそ動こうとしたが、もうあとは任せる、といった具合で、海と二人で席に座って待っていた。
 学校でも、優等生としてなにかしらこんさんとセットで頼まれごとを引き受けることがあるらしい。けれど、うまいこと適当に終わらせたあとに、「先生のために少し多めにやってあげよう」だとか、「他にも手伝えることがあれば」なんて殊勝なことを言い出したりはしなかった。言われた分だけきっちりこなし、鮮やかに手のひらを返してとっとと帰る。もちろん、今さんには迷惑をかけない範囲で。「仕事が増えないのはありがたいけどね」と今さんは腕を組んでその後ろ姿を見送っていた。
 三年のクラスの人たちとは、言わずもがな、まったく気を遣わずに気ままに過ごしている。
 つまりおれといるとき、おれと一緒のこの空間だけ、先輩は目を凝らし、見据え、なにが要り用でなにが不要か判断し、動き、恩着せがましくもせずそこに座っているのだ。
「あ、の……
「ん?」
「なんで、おれだけ」
 そんなにおれって手がかかるどうしようもないやつやった? いやそうだったら、先輩はとっくに見切りをつけている。先輩は、面倒なやつにはこんな手をかけない。先輩は、合理的かつ自分に正直。だから先輩が、こんなふうに周りから、まるでセメントで固めるように堀を埋めるなんて──それはまさに、相手を確実に落とすための策略であって。
 頭の中の妖怪が、それまでの様相を変えてむくむくと角を生やし、牙を生やし、意地悪そうな顔で笑う。現実の先輩は、洗い物を終えて適当に手を拭き、もう一度床に座る。
「すっかりほだされたなあ、隠岐」
 週に二回、昼と夜。この部屋でご馳走になったり、ご馳走したりする。先輩が気を回してくれるのに甘えて、おれはうとうとと昼寝までする。目が四つあるわけでもなく、体が異形なわけでもないが、先輩という妖怪のまえで、おれはなんて無防備だったんだろう。おれがおいしく肥えて腹を見せるまで、ずっと待っていた先輩は、相変わらず細い双眸をしているのに、そこに鈍い光を走らせている。
「今日の晩飯、もう買ってあるんやけど、食べてくやろ?」
 ご機嫌な先輩は、拒否権なんていうものが、地球上のどこにも存在しないかのように言った。