祭り酔い

みんなでお祭りへ行った帰りの楽しげなこうくんを見守る先輩のお話。二人とも気持ちに鈍感。付き合うまであと少しな村→←来。

『祭り酔い』

 鋼が訪れたのは、空が藍色に落ち、夜が更けたころだった。家で待ちきれなくて、ぼくは家から数十メートル離れたコンビニのそばで待っていた。藍色の空に似合わないコンビニの真っ白なライトは、路地を照らして、急ぎ足で歩く人々の横顔を一瞬だけ明るくする。疲れている顔を、そんなにくっきりと浮き出るように光らせなくてもいいのにな、と思いながら、ぼくは鋼が来るであろう方角を見つめる。
 鋼は、走ってこっちへやってきた。浴衣の帯がおそらく着た当初よりも緩んでいて、いくらかゆったりとして見えた。こういう服をだらしなく着るような子ではないから、かなり長い間、楽しいときを過ごしてきたんだろう。そう思うと「走らなくていいよ」と伝えながらも、表情筋がほぐれる。もともと緊張してここに立っていたわけではないけれど、いつもよりもますます力が抜けた。もしかしたら、コンビニのライトに無意識に辟易へきえきしていたのかもしれない。
「すみません、こんな時間に」
「いいんだよ、外に出るって言ったのはぼくの方だしね。楽しかった?」
 聞かなくてもわかるようなことをあえて聞いたなあ、とぼくは頬をかく。鋼の上気した顔や、手に持っている支部のみんなへのお土産であろう袋、履きすぎて少し赤くなっているサンダルのベルトに当たる皮膚まで、全身で楽しさを物語っているのだ。それは明るすぎる路地と疲弊した人たちの間に、いささか浮世離れした空間を生んでいる。それでも、ぼくにはその存在がよっぽど自分に近しく感じて、ほっとした。
 鋼は律儀に、
「楽しかったです、とても」
 と答えてくれる。満ち足りて喜ぶ子どものような彼の笑顔にほだされて、ぼくの心も満ちた。
 浴衣から、わずかになにかが燃えた残り香がする。あのお祭りは、そういえば最後に会場の中心で火を焚いて踊ったりするんだっけ。去年、ぼくも二宮くんたちと一度だけ行ったことがある。むすっとした顔をしながら最後のポイでようやく金魚をすくえた二宮くん、豪華な柄の浴衣がとても似合っていた加古ちゃん、その加古ちゃんに振り回されている堤くん。太刀川くんはちょうど同じときに来ていたボーダーの女子隊員たちに、このお祭り会場で出ると噂されている怪談話をして怖がらせていたが、いまいち迫力が足りなかったみたいで「また太刀川さんったら」と笑われ、冗談だと思われていた。
 思い出を頭に浮かべているうちに、鋼が袋からなにか取り出そうとしている。
「これ、先輩に」
 真っ赤なりんご飴のように赤く透けた色の風鈴が現れて、割れないように大事に持ってきてくれたことが一目でわかる。新聞紙に丁寧に包まれた風鈴は、袋の中で鋼が買ったもののちょうど中央に置かれていて、衝撃から守られていた。
 ──風鈴売りは、ときどき三門を練り歩いている。木製の箱に無数の風鈴をつけて、商店街や大通りに店を構えて座っていることもあれば、お祭りのときに荷車を引いて、歩きながら涼しい音を響かせることもある。
 鋼は「見るのが初めてでした」と言う。彼の故郷では出会えない商いのスタイルらしい。一つ、鋼のことをまた知ることができた。
「いいの?」
「はい、あ、でもいらなければオレが持って帰るので……
「そ、そんなことないよ」
 ちょっと声を張ってしまった。鋼が驚いてこっちを見ている。いつも動じない目元がきれいな円を描いてびっくりしている。ぼくは顔を赤らめるけど、風鈴をかざすように持ち上げていたから、この赤さと紛れてうまくごまかされてはくれないかな、とやや無理なことを考える。片手に持った風鈴は、ぼくの心など知らぬ顔でチリンと一声鳴った。
「ありがとう、帰ったら飾ってみるね」
 大人ぶって「飾ってみる」だなんて言ったけど、すぐに部屋に飾るだろう。ぼくの部屋にはあまりない赤い色を窓から下げて、きっとしばらく見つめ、聞き惚れる。
 嬉しいなあ、と思わず口に出すと、鋼にも聞かれてしまって、顔を伏せてはにかんでいた。そこでようやく浴衣の乱れに気づいて、鋼は慌てて開き気味だったまえを閉じる。
「すみません、オレ、こんな格好で」
「楽しかった、って全身から伝わってくるよ」
 ぼくはさりげなく、鋼が話しやすいように促した。話をせずにここでさようならをしたっていいのだけど、もう少し、もう少しだけ新鮮な鋼を見て、胸を踊らせていたかった。
 ぼくはとっくに自分の気持ちを自覚していて、でもそれを伝えるのは、今が大事な時期である鋼のためにならない、とすぐにフタをした。嘘をつくのは苦手だし、騙し通すことはできない。それなら、言わないでずっと隠しておけばいい。それならできる、大丈夫だ、といつも己を律している。
 鋼はすぐに、今日の出来事を話してくれた。
「今日のお祭りは神輿が出なかったので、」
「うん」
「穂刈が残念そうにしていました」
「それはたしかに残念かもね」
「あとは、カゲが鉄板焼きの出店に知り合いがいたみたいです」
 なるほど、かげうらは三門で店を構えて長い年月を経ていて、そこで知り合った経営者が出店していてもなんら不思議はない。同じ鉄板を使う形態なら、話せることはたくさんあるんだろう。
「そこのお店の人が、奢ってくれました」
 鋼は普段滅多に開かないスマホを手に持ち、スクロールをした。そして目を輝かせ、こっちへ向き直る。画面を立てて、ぼくに見せてくれた。
 湯気の立つ焼きそばに、鋼の手が映っている。その横に今日一緒に行ったらしい面々が、顔を覗かせていた。さらに鋼が、ほどよく肉厚な人差し指で横へ横へと写真をスライドすると、見知った顔ぶれが、見知らぬ表情でどれも綻ぶように笑っていた。同い年と遊びに行ったのであれば、こんちゃんもいたかもしれない。が、残念ながら今ちゃんの浴衣姿は、鋼のフォルダ内ではわからなかった。
「すごいね、大人数で行ったんだ」
「多かったので、全員は撮れなかったんですけど」
「じゅうぶんみんなで楽しんでるのが伝わるよ」
 加賀美さんと荒船くんが、興味深そうに店を見ている。当真くんと水上くんと国近さんは、くじ屋のまえで訝しんだ顔をしていた。影浦くんが嫌そうに写真に映るのを、王子くんと蔵内くんがほほえんで見ている。そして北添くんがたくさん食ベている写真を見てぼくが笑っていると、不意にスマホが鋼の手元に戻る。
 鋼は髪色と同じ濃緑色の浴衣を動かし、「先輩、そのまま」と言った。なんのことかわからなくて戸惑っているうちに、カシャリとあの独特のシャッター音が聞こえる。ぼくはさっき写真を見たときのまま笑ってはいたが、まさか写真を撮られるとは思わなかった。きっと間の抜けた顔で映っている。ぼくは困惑して、顔を上げた。
 鋼は、とてもやさしい顔をしていた。そこにちょっとだけ申し訳なさそうな、どこか憂いのある目の細め方をして、けれど頬の赤みを帯びた照れも含んでいる。そんな鋼は見たことがなくて、心臓が飛び魚のように大げさに跳ねた。うまく言葉を表せず、もどかしくまごついた口元をしていて、どうしてそんな顔でぼくを見つめてくるのかわからなかった。いっそいたずらが成功したみたいな顔をしてくれていたら、「撮っちゃったならしょうがないね」と笑えたのに。
「すみません、オレ」
 鋼はハッとして、ぼくを捉えている黒目を揺らした。
「お祭りの雰囲気に、まだ酔ってるのかも」
 だんだん鋼の顔が我に帰っていってしまう。もしかしたら、あの写真を消すとまで言い出すかもしれない。鋼の中の楽しい思い出の一部に、今まさにぼくの一枚がなれたところなのに消えてしまうのは嫌だ、と珍しくわがままを思った。
 ぼくは、鋼がゆっくり下ろしていく手の先に掴んでいるスマホを、鋼の手ごと上から握った。
「消、さないで、ほしい」
 さっき声を張ったときよりも、それはさらに大きくて切羽詰まった声をしていた。どこかで調子が裏返ったけれど、気づかないふりをした。というより、あまりに必死でどこが変な声になったかわからない。もう一度、言い直した。
「消さないで、くれる?」
「でも」
「ぼくは、嬉しかったから」
……来馬先輩?」
 ここまで言って、ぼくはどうこのあとを弁明しようか頭を回らせていないことに気づく。鋼への気持ちは、隠すことにしようと決めたのに、鋼の浴衣に残るけぶるような懐かしい火の粉の香りと、真っ赤な風鈴の色と音に頭をくらまされたのかもしれない。夏の生あたたかい風が吹いて、チリンともう一つ、風鈴が鳴った。それは短くて小さいが、鼓膜を静かに揺らし震わせる。ぼくには、風鈴以外の周りの音が、すっかりかき消えてしまったように思えた。
……とっておいて、いいんですか?」
 遠慮がちに、鋼が口を開く。ぼくはすぐにうなずいた。けれど、「ん?」と首をかしげ、言葉の真意を探る。
 消さないでおきます。
 消します。
 の二択かと踏んでいたぼくの想定する鋼の言葉とは違う、新しい言語と巡り会ったかのような不思議な高揚がぼくを包む。
 とっておく。それは鋼が保有を続けるということ。むしろ、そのことを前向きに考えて、それでもいいのかと鋼はぼくに尋ねている。
「その、鋼が、嫌じゃないなら、だけど」
「嫌じゃないです」
 今度は鋼が声を張った。どうしてなのかはわからない。ただ、その食い下がる瞳の強さには見覚えがある。お祭りの炎をそのまま少しばかり譲り受けてきたような。自分もああやって、彼に対して同じ目をしていたんだろうか。いや、鋼の瞳孔深くに眠っているのは、ぼくなんかよりもずっとずっと、熱があった。
 一体いつから、鋼はこんな目をするようになったんだろう。これもお祭りの酔いが生んだ惑いなんだろうか。それともぼくが気づいていないだけで、いつもこんなふうに、人を見る子だっただろうか?

 ──ぼくは家に帰って、もちろんすぐに風鈴を窓に下げたし、鋼に改めてお礼のメッセージも送った。「帰り道に気をつけてね」と打つと、すぐに既読になって「ありがとうございます、もうそろそろ家に着きそうです」と端的に二文。
 また、風鈴がチリンと鳴る。今度は長く、遠くまで響く。
 その音を聞くと、脳の裏側から意識がふっと暗がりに入り、ぼんやりとおぼろげになった。明るい室内で目を開いているはずなのに、そこは藍色の世界に彩られる。まぶたを一、二度またたかせて見ても、今夜の景色が薄れずにそっくりそのまま映し出される──記憶を反芻しているのだ。
 濃緑の浴衣を着て、その世界の中で浮き出るように真っ赤なガラス細工の風鈴を大事そうに持っている鋼の姿が立っている。ほどよく日焼けした両手が風鈴をぼくへ差し出して、あのやわらかで、切なく、眉を少し下げた顔で笑う。
 風鈴の音の余韻がなくなるころ、元の視界へと戻ってきたぼくは、鋼からのメッセージをもう一度目で追った。無機質な「ありがとうございます」以外に、そこからはなんの感情も読み取れなかった。画面からなにかが出てくるわけでも、勝手にメッセージのあとに互いの気持ちを推し測ったスタンプが押されるわけでもない。
 ぼくはそこまでで、首を振った。すべては明日確認すればいいだけのことだ。
(そんな簡単に、できるだろうか)
 果たして鋼の顔が見れるのか。もしもまた同じ表情を返されたら? あの顔で見つめられたら?
 そして、ぼく以外の人にも見せているんだとわかってしまったら?
……それを、嫌だ、と思うなんて)
 ぼくは自分を律するために、ふたたび姿勢を伸ばし、言い聞かせ、沈める。風鈴が揺れた。夏の亡霊のように、また浴衣姿の鋼の姿が漂う。