風邪をひけない

風邪を引いた先輩と、怒り慣れていない後輩の話。

『風邪をひけない』

 俺はここ数年、風邪とは縁遠かった。
 ひ弱に見られる体つきで、猫背でより低く見られがちだ。けれど季節の変わり目にいかにも熱を出しそうなのに、ちっともそんなことはない。「意外や」というのは同じクラスだった女子生徒からの遠慮のない一言。けれど、強烈な風邪が学校中で流行ったときも、俺は平気な顔でど真ん中の席に座っていた。
 スカウトされ、高校を編入し、秋の風がもうすぐ訪れようとしているころだった。冷たくて、ぬるくて、不安定な天気。こんな日は乾いた空気ばかりが空を舞っていて、ほこりっぽい。喉が痛むし、目もかゆい。
 これまでの慣れた地では風邪を引かなかったけれど、今年はどうだろう。万全の対策はしとかなあかん。そう思うが、たぶん無理だろう。
(まあ、一回くらいは引くやろうな、でも、)
 引きたくは、ないな。だって、引いたら。

 ──懐かしい夢から、目を覚ました。「起きたか」という声がして、のそのそと動く熊みたいな図体の男、穂刈がこっちを見る。
 風邪を引いたとメッセージをして、ノートを後日借りたいと伝えた。そのあとすぐ、ここに来ると連絡をもらい、ドアの鍵だけ開けて俺は力尽きた。眠っている間に運ばれて、今ベッドにいるんだろう。
 穂刈は読んでいた漫画を置いた。それは俺が借りとるやつやねんけど。そう思いながら顔だけ横にかたむけ、額に貼っていた冷却シートを剥がす。熱を吸ってやわらかなそれを、穂刈は受け取ってゴミ箱に捨てた。
「もうすぐ飯ができるぞ、カゲが来たから」
 特徴的な喋り方を、今は理解できる力も少ない。カゲが来たからなんやって? 俺は目をこすりながら、ようやく言葉を飲み込んだ。
……台所、汚かったやろ」
「掃除した、鋼が」
 とはいえ、大した汚れはないはず。防衛任務と定期考査。忙しすぎて、近頃は自炊らしい自炊をほとんどできていなかった。インスタントのもので間に合わせていた生活は、やっぱり体に支障をきたした。
「おら、食え」
 カゲによって寝室のドアが開かれ、その手には鍋に入ったうどんが見えた。落とされた卵、細かく刻まれたねぎ。胃の中を、だしの匂いからすでに温めるそれは、二日ぶりの食事に出されるには贅沢すぎる逸品いっぴんだった。
 なにもかもを洗い、なにもかもを済ませて三人は帰る。きれいさっぱり片づき、チリ一つ残っていない部屋は、まるで自分の部屋ではないようだった。去り際に「さすがに風呂は洗ってねぇから、自分でやれよ」と言ってきたカゲの顔が、またぼんやりしてくる。俺の頭はまだうまく機能していない。
 体温、三十七度三分。ピピッとかわいらしく鳴る、買ったばかりの体温計をわきから取り出した。銀色の先端に映る自分がおぼろげな形をしている。明るい髪にがしがしと手を入れて、久々に熱を出した体を横たえた。風呂に行くにはまだしんどい。
(せめて着替えよ)
 ずるずると這いながら、手に届く範囲にあった新しいTシャツを取る。汗にまみれたシャツと取り替えると、今まで身につけていたものがひどく気持ち悪く思えてきた。ベタベタする。早く下も脱ぐか、と上体を起こし、のろのろスウェットに手をかけたころ、ドアをノックする音がした。
「先輩おりますか〜……?」
 とこっそり隣室の隠岐がやってくる。
「あれ、先輩ら帰りました?」
 俺の部屋にカゲたちが入っていくのを、数時間まえに見ていたらしい。
「さんざん世話焼いて帰ったわ」
 隠岐は「そら助かりましたねえ」とカラッと笑う。一緒に混じれば良かったのに、大所帯になる部屋の中を想像し、迷惑を考えて隠岐らしい気遣いをしたらしい。
 後輩は栄養ドリンク、冷たい飲み物、やわらかくて食べられそうなもの、と次々冷蔵庫へ入れる。あとでちゃんと確認しないと、本当にそれらが今言ったものなのかはわからない。隠岐はたまに、変なものを買ってきたりするから。
「イコさん心配してましたよ、あと次の任務はシフト変わってもろたって言ってました」
「助かる」
 どこと変わったのか、それもあとでたしかめなあかん。礼を言いにいかんと。あとイコさんにも、迷惑かけましたって言って、それからまあ、同じクラスのあいつらにも。
「先輩」
 隠岐が、ふと隣に来た。
 ……だから風邪を引かんようにしとったのに。とこのとき俺は強く思う。
 隠岐が、微妙に笑っていないのだ。
「隠岐くん」
「はい」
「怒ってんの」
「怒ってる、んですけど、見えませんか」
「だって、口の端、なりきれてへんで」
……ああー……わかるでしょ、おれが怒るの苦手なの」
 隠岐にしては珍しく早口で告げる。
 目の前の男とは、三日まえに約束をした。買い物行きませんか。まあ、行ってもええかな。え、珍しい、先輩が行くなんて。なんでやねん、俺も買いたいもんあるしちょうどええからや。
 そう話して、隠岐は普段からニコニコ笑ってる顔を、もっとニコニコさせとった。口元がニヤけ、しばらく止まらなくなるくらいに。ああ楽しみにしとるんやなあ、と柄にもなく頭をなでたくなった。
 でも次の日に自分が熱を出して、真っ先に様子を見に来たのも隠岐だ。そのときに、約束を反故ほごにしてしまったことはすでに話している。
 ──気にせんでください。早よ治しましょ。
 隠岐はいつもの笑顔だった。そのときも、熱でぼーっとした頭でしか見てないが、あれは確実に怒っていない。
 隠岐はまさに今、この瞬間怒ったのだ。俺が考えすぎることを、怒っている。
「ちゃんと栄養ドリンクと、冷たくて喉越しよさそうな飲みもんと、晩ご飯用のうどんです。コンビニので申し訳ないですけど」
 隠岐は冷蔵庫を開けて、一つ一つを指差した。まだ頭が回っていないので、うまく見ることはできないが、なるほど合っている、ような気がする。
「それから、みんなに謝りにいかなあかんと思ってるのやって、わかってますからね」
……一応人やからな、俺やって」
「そうやなくて」
 隠岐はまだ、笑わない。むずがゆそうな顔で、モゴモゴと口を歪めている。いつになったら笑うんやろう。俺はそう思いながら、フラつく足を投げ出し、ベッドフレームに背中を預けている。足の指先の感覚がまだ曖昧なのに、後輩が笑わないことだけが事実として俺を突き刺す。
「今は、熱出てるんやから」
「もう下がる」
……病み上がり、でしょ」
 もうこれでわかってくれ、と言わんばかりに、俺の肩に手を乗せて眉間にシワまで寄せた。今度は俺が、口元をムズムズと動かす番になる。
 この隠岐に、言葉の巧さはまるでない。どこをどう、具体的になにを、なぜそうするのか。穴を突けばいくらでも、なんとでも覆そうな言い方に、しかし俺は置かれた手から力を吸い取られたみたいに、肩の力が抜ける。
「すんません、先輩みたいに口が達者やなくて」
 せめてもの意固地に、俺はとうとう堪えきれずふき出す。
「ちゃんと叱ってくれな、お前に怒られたって言えへんやん」
「誰に言うつもりですか、やめてくださいよ」
 誰に言うつもりやろう。誰にも言わんやろうな。言うたら、きっと相手はびっくりする。あの隠岐を怒らせたんか、そりゃよっぽど心配させたってことやで。俺やったら、そう言う。
 俺はスウェットを脱ぐことを諦めた。すっかり着替え損ねてしまったが、笑うと、体から骨がなくなったみたいに動かせないから。隠岐、いつもお前、こんなふうに笑うから、穏やかに見えんのか。そういうつもりで目線を寄越すと、後輩はやっとへらりと笑った。
 これ以来、風邪は引いていない。引かないように、かなり気をつけている。