題名のない永遠

真夏の夢の中に、残らずに戻ってきた荒のお話。小さい頃おじいちゃん子、塾通ってたなど捏造多々。おじいちゃんに色々教わって、その意味を自分で考えてきた荒だから、選びとった人生とその先があるのかな、と思って書きました。

『題名のない永遠』

「畳は目に沿って拭く」
 じいさんの固い手が、俺の手を取って布巾と一緒に動く。俺はうっすらとしかほこりのない畳が、きれいになっていくのをまぶしく見ていた。縁側から差し込む突き刺すような光が、い草の一本一本を明瞭にする。拭いたことで少しだけ濡れたそこは、しかしすぐに日の光で乾いた。
「それが終わったら、スイカでも切るか」
 そう言ってじいさんは、向こうの部屋の、一箇所だけ破れた障子しょうじを直しにいった。ばあさんの仏壇がある六畳の部屋の畳掃除は、自分に任されたというわけだ。
 うっすらと、線香の匂いがただよう。俺はまだ幼く、細腕で大した筋力もないくせに「じいちゃん見てろよ」と粋がって腕まくりをした。
 畳を丁寧に布でなぞる。端の方はさすがにほこりが溜まっていて、じいさんの一人暮らしにも、限界がきつつあるのかな、と考えさせられた。それでも、地域の同い年のお年寄りたちよりはるかに若々しい。俺はじいさんと似ているらしいから、この家に来るといつも立ち寄った町内会の人たちに「若い頃の荒船さんにそっくりね」と言われる。じいさんは、自慢もしない、奢らない。ただ、そう言われたときだけ「そうだろう」と鷹揚おうようにうなずいて、やさしく俺の頭をなでた。
 そういえば、じいさんはもう一つだけ、自慢に思っていたことがあった気がする。なんだったっけ、と俺は畳の四枚目を拭き終わりながら、ふと外を眺めた。あいかわらずむせかえる夏の湿気に混じるように、扇風機の風と線香の煙が庭へ泳ぐ。
 せみの声が聞こえて、そばで川が流れる音がする。夜になるとせみがパッタリと鳴かなくなり、せせらぎだけが残る。だから泊まりに来れば、夜はとてもぐっすり眠れるのだ。三門では、あまり眠れないときもあるのに。
「音に左右されるなんてまだまだなのかな」
 掃除を終え、スイカを頬張りながら話した。じいさんの切るスイカは子どもにしては大ぶりで、この家にじいさんが一人になってから、俺はスイカの食べ方に苦労した。
「わからないぐらい遊んで疲れれば、音なんて気にならなくなる」
「でも、三門では」
 俺はそこまで話して、口をつぐんだ。そこから先は、愚痴になる。じいさんはいつも、「愚痴を言うのはどうしようもないときだけ」と言っていて、俺は律儀にそれを守っていた。その方がかっこいいと思ったからだ。
「じゃあ、独りごとだ」
「え?」
「今からお前が言うことを、俺は聞いていない。独りごとを言えばいい」
 じいさんはそう言って、スイカをかじった。
 俺は、ためらいがちに話し出す。
 三門では、塾に行かなければならない。だから遊びたくても、勉強が頭にちらつく。なにかを学んで、自分が成長して、それを伝えていくという過程自体は、とても楽しいと思っている。けれどやっぱり、友達がいたらなあと思う気持ちが捨てきれない。
 一気に話し終えると、心につかえていたものが落ちていく気がした。じいさんと目が合うと、大きな手で頭をなでられた。父さんや母さんに同じことをされたら、もう恥ずかしくて手を避けようとするけど、じいさんにだけは、自然とこうされたかった。
 ──いつか、今日と同じような日にメロンを食べたことがある。あのとき、食べ終えた皮を庭の設置型コンポストに入れようとしたら、じいさんは「ちょっと待て」と言って、包丁で皮をちいさくひとかけら切り、そっと地面に置いた。なにしてんの、と言おうとしたら、小さなありが皮の存在に気づいた。その蟻を筆頭に、次々とはたらき蟻たちが皮の付近に集まる。その場で食べていくもの、その栄養を切り分けて巣へ運ぶもの、大きな皮をみんなでちょっとずつ動かすもの。俺はたった数分で作業が次々と進められていくことに感動した──
 それを思い出して、俺は尋ねる。
「俺もこの間のやっていい?」
 じいさんは口数が決して多い方ではなく、ぽつりとこぼすように告げる。
「ナイフの持ち方だけは、気をつけろよ」
 俺は食べ終わったスイカの皮を、四センチほど皿の上で切った。そして、蟻の巣のそばに寄せてやる。一匹の蟻が「あれ?」とでも言うように首を傾げ、皮の存在に気づいた。メロンほどの芳香はないが、じゅうぶん良かったみたいだ。
「今年は特に暑いから、」
 じいさんは、残りの食べ終わりを堆肥にするためにコンポストへ投げ入れ、フタを閉じる。
「蟻の家族も、自分や周りを生かすのに必死だろうな」
 そう言って、「畑に行くぞ」と俺を誘った。
 父さんよりも背や肩は小さいはずなのに、じいさんの背中には追いつけない力を感じる。塾なんて行かなくていいとも言わず、友達を作れとも言わず、独りごとを聞かないふりして、ただ生きていくのに必死だと告げた。父さんも母さんも、俺もそしてじいさんも、生きていくのに必死にもがいている。俺はまだ、スイカの皮を置かれた側の立場と同じで、生かされている身だけれど、生き方を決めるくらいは、できるだろうか。
 そのとき、俺は自分がやりたいことを選びとって、自分らしく歩けるだろうか。そもそも自分らしくとは、なんだろうか。友達がたくさんいること? クラスで一番勉強ができること?
 ……じいさんの畑を手伝いながら、家を仰ぎ見る。
 この大きな家に一人で住んでいるじいさんは、父さんや母さんには心配の種らしい。たまに立ち寄っては、この家をどうするか三人で話し合っていた。
 三門の家とは違い、この家は畳がある。障子があり、欄間らんまがあり、縁側がある。都会との違いに物心ついてからは面白がってよく遊びにきていた。大きな木目が人の顔に見えるのも、寝るまえに巨大な蚊帳を下げるのも、俺には失いたくないものばかりだが、そう伝えるとじいさんは困った顔をして、
「お前とばあさんが、そう思ってくれているだけでいい」
 と言い、いつも少し遠い目をしていた。
 線香の匂いがする。夏の日差しが傾き、家の中を照らす。夕暮れが近づき、三門へ戻る時間になった。母親も買い出しから帰っている。日が陰り、部屋の隅にたたずむ仏壇にだけ夕陽が当たる。俺はじいさんの自慢を、もう一つ思い出した。スイカを食べ終わった手を洗い、帰り支度をして、最後に仏壇へ近づき手を合わせて、「帰るね」と話しかける。
 じいさんの自慢は、飾られたばかりの花やお供物に囲まれ、写真の中でにこやかに笑っていた。

 ──目を開けると、穂刈が集中した顔で課題をやっていた。やわらかい布地の感触がして、ソファに横になって寝かされていたんだとわかる。俺の上半身にかけられたパーカーは、穂刈が最近買ったばっかりだと言っていた。それがエアコンの風を遮ってくれたから、幸い寒くなりすぎずに済んだ。
 ふと集中を切らし、こっちに気づいた穂刈は、「よく寝てたな」とペンを置く。俺のせいで課題をやる手を止めてしまったと思い、体を起こそうとした。
「課題、まだ」
 やってんだろ。と最後まで言えなかった。そんな心配はいらないと言うように、穂刈の指が横の髪をすくって、頭をなでたからだ。
「もう終わった。確認してただけだ、今は」
 始めるまえ、穂刈は結構な量の課題があると言っていたはずなのに、俺はそんなに寝てたのかと自分を疑った。懐かしい夢を見て、長いことその場に留まっていた感覚はあったけれど。
……笑ってたぜ、寝ながら。夢でも見たか?」
 穂刈にそう言われ、咄嗟に頬を手で押さえる。そんなことをしていたのかと恥ずかしくなる。さっきから、いつもの無表情ではなく少しニヤけた顔で俺を見ている理由がわかって、口元を尖らせた。
「忘れろよ」
 と念を押すと、
「了解」
 と穂刈は課題をファイルに収め始めた。
 長い指が紙をすくい、ルーズリーフを手に取る。不器用そうに見えて、あの手は意外と器用に動く。俺はふたたび体をソファに落として、まだ寝起きの気だるさをまとったままじっとその動きを見ていた。
 胃が少し重い。ここに来てすぐに飲んだ炭酸がまだ腹の中を回っている。それはもう空になっていて、穂刈が残りを飲んだんだとわかる。今さら勝手に飲まれたことに怒る関係じゃない。
「聞くのもだめか?」
「なにを」
「夢の内容」
 穂刈が重ねて尋ねてくる。ぼんやりとしていた思考を無理やり戻して、目のまえのやつを見た。うすい笑みを浮かべたままこっちを見ているこいつに、うまく視線を合わせることができない。穂刈がこういう顔をするとき、大抵小っ恥ずかしいことを考えてるらしい。本人から以前教えられた。かわいい、とか、触りたい、とか、そういう類の。
「もうやめろよ、その顔」
「やめる、教えてくれたら」
「覚えてねえって言ったら?」
「それはねーな。恥ずかしがらないだろ、心当たりがなかったら」
 見透かされてたことにうろたえ、黙る。上半身を覆うパーカーから、うすく穂刈の匂いがした。俺と穂刈は少し離れた位置にいるのに、香りだけがじかに届く。
……じいさんの、昔住んでた家の夢だ」
 今はもうあの家はない。更地になったあそこは、市の管理下に置かれて別の建物が作られるらしい。じいさんは仏壇を持って、三門の小さな賃貸アパートへ引っ越した。年寄りでも受け入れてくれたそこへは、母親がときどき見に行っている。
 昔感じたあの空気も、夏の蒸し暑さも、じいさんの作っていた数々の雰囲気も、俺には鮮明に浮かぶ。浮かぶから、夢の中にいつまでもいたいと思った。蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる空間、庭にできた小さな水たまり、そこに集まるとんぼ、夕焼けの茜色の空、仏壇へ線香をあげるじいさんのやさしい手つきを、俺はいつまでも覚えていて、懐かしさに帰りたくなる。
 でももしも、あの中にずっといたら、
「いい夢だったか?」
 とまだゆるんだ表情を変えられていない穂刈とは、再会できなかった。
「いい夢、かな、わからない」
 言葉尻をあいまいにして、額をソファにすりつけた。そして俺は穂刈をもう一度睨むように見る。しかしまだ穂刈の顔は、目を細めたままだ。
「おい、夢のこと話したのに、変わってねえじゃねぇか」
「もともとこういう顔だ、お前のまえで、オレは」
 俺はとうとうソファから身を起こして穂刈の肩を軽く小突く。照れ隠しの拳では、相手にちっとも痛みを与えられなかった。
 飲み物を取ってくると言って、穂刈は立ち上がりキッチンへ向かった。誰もいないこの家の居間に、エアコンの風の音だけが聞こえる。穂刈が持ってきた飲み物はペットボトルの麦茶で、受け取ればあまり冷えていなかった。俺は胃もたれしてるとこいつに言ってないのに、まるでそれがわかっているようなぬるさ。甘やかされてる、とも思う。けれど俺は気にせずに、中身を三分の一ほど飲んだ。冷たすぎない液体は、やわらかく喉を潤した。
 俺が欲しかったのはたくさんの友達でも、勉強でクラスの一番になることでもない。自分や周りを生かすためにやりたいことを推し進める力と、それを理解してくれる人がいればいい。
「なあ」
 と俺が呼ぶと、「ん?」と答える穂刈とのやりとりは、もう何十回、何百回としてきたのに。
「いや、なんでもない」
 とごまかすと、「そうか」と告げる穂刈は、やっぱりやさしい顔をしていた。
 理解してくれる人がいればいい、お前がいれば、それで。そんな言葉を今ここで吐くにはまだ重たくて、未熟だ。じいさんの背中を思い出した。じいさんはばあさんに言ったんだろうか、同じように未熟なころに。いや、言わなかっただろうな。二人の間に、劇的なタイトルコールはない。だって俺とじいさんはよく似ている。
 ばあさんはきっと、なにも言わずわかっていた。だからいつも愛おしいと思いながら、笑っていたんだろう。