忘れ傘

女友達とおき君と、先輩、三人の臆病者のお話。モブの女の子が出てきます、おき君の表面上彼女でした。そして全部を大体は把握してて、おき君を見守ってた先輩。

『忘れ傘』

 コンクリートからの熱が、人を干からびさせにきている。おれは夏になるといつもそう思う。
 関西は暑くなるからこんなことはもう当たり前のように誰もが感じるけれど、今年は猛暑が連続しすぎている。だから熱中症には本当に気をつけなくてはならない。
 おれの家の玄関には一本の日傘が、三日ほどまえから置いてある。返しにいこういこうと思いながら、まだ行けていない。三日まえは晴天だったのに、突然ひどい通り雨が降ってさらに湿度が増した日だった。その日傘は使い物にならなくて、彼女が渋々たたんでそのまま玄関に忘れていったものだ。

 三日まえ、彼女と部屋に入ろうとすると、先輩とすれ違った。「おん」とだけ言われ、彼女へ会釈をして先輩は自室へ引っ込む。
「水上先輩だ」
 と彼女はちいさくつぶやいた。ボーダーの面々は市民に共有される情報があるから、誰だって顔と名前が一致している。派手な赤い隊服のおれたちは、特に目立つから嵐山隊と並べて覚えられやすい。
 そんな先輩は、雨に濡れた髪をそのままにしていた。きっとあのあと、タオルで適当に頭をがしがしと拭く。冷凍庫に入っている安物のアイスをかじりながら、暑い室内を冷ますべくエアコンのスイッチを入れる。いちばんぬるい温度に設定したシャワーに、もう少し気温が下がってから入るかも。シャワーを浴びれば、Tシャツと着てスウェットを履く。だらしなくテーブルにひじをつき、腹が減るまで待つ。
 先輩は大食いではないけれど、わりと三食きっちり食べる。同じクラスのボーダーの先輩たちの影響かもしれない。それはそうだ、一人はお好み焼き屋の息子、一人は筋トレと食事バランスをきちんと考えてる人、一人はいつも鈴鳴支部で質の良い食事を摂り、それが当たり前である人なのだから。
 おれはそれらを思い出してクスッと笑うと、彼女に「どうしたの?」と聞かれた。着込んだワンピースからは汗も見えない。彼女は、汗染みがついたら嫌だから、制汗剤もきちんと考えて選んでいるらしい。あいかわらず、隙がない。
 家に入り、エアコンをつけた彼女──もう、元カノになる──が、暑いから低めの温度に設定した。彼女は冷え性なのに、そんなに低くして大丈夫か尋ねる。エアコンをつけているのにひざかけを出したり長袖を着るのも変な話だが、おれにはそうした方がいいような気がしたのだ。彼女も、
「そうだね」
 と考え直し、エアコンの温度を少し上げた。白い二の腕は日焼け止めのせいでますます白く映る。
 玄関にこのときから置いてある彼女の日傘は、遮光が百パーセントなのだといつか自慢していた。真っ黒で日の入らない彼女の周りに、ギラギラと輝く太陽が降り注ぐ。スポットライトと逆の働きを見せる日傘の下は、入れてもらったこともある、たしかに涼しい。「これあるなら日焼け止め、塗る必要ないんやない?」と口に出すと、彼女は人差し指を立てた。
「紫外線は、部屋の中だって入ってくるんだよ」
 なるほど彼女は雨でも、室内でも、ほんのわずかな紫外線量をカットしたいのだ。日焼け止めの下に隠れた本物の肌は、そうして万全の装備で守られている。彼女は、本当に隙がない。
 ──そういえば、先輩は日焼けをしていた。一ヶ月ほどまえ、真夏の夜に、暑いからと一枚だけ着ていたタンクトップの肩口はTシャツの形に焼けていた。こんがり、とまではいかないが、先輩の元の肌とは差のある色味をしていた。意外で、そういうのは縁遠い人なんだと思っていたけれど。
「この間、あったやろ、避難訓練」
 この国には近界民からの侵攻以外にも、当然のように天災がある。だからボーダーであるおれたちも訓練は受ける。
 あの訓練の日、先生たちの連絡ミスで、三年だけがグラウンドにしばらく残らなくてはならなかった。炎天下の中で待たされる三十分は、容易にみんなの肌を焼いた。体育のあとの訓練だった先輩は、Uネックの襟の形に日焼けを作るという不名誉を負わされた。けれど先輩は、ヒリヒリするとかシャワーが痛くなるとかそういう文句を言わなかった。言わないであっさりと、
「夏やしな」
 とだけ言い放って、むけていく皮にちょっとしかめ面をしただけで終わった──
 自然にあらがわず、水のように流れていく先輩のことを思い出していると、彼女がしきりになにかを話しかけていることに気がついた。慌てて「ごめん、聞いとらんかった」と顔を向けると、呆れた顔で彼女は言う。
「だから、これからうまくいくといいね、お互いって話」
「ああ、そうやった」
 おれは彼女の真正面に座って、にこりと笑う。愛想笑いであることはとっくにバレているけれど、彼女は気にしていないみたいだった。
 彼女から、さっき別れを切り出された。この場合、別れと言うのだろうか。不思議な関係だった──彼女にも、おれにも、好きな人がいたから。
 互いを応援し合っていくうちに、
「もしもうちらが付き合ったらさ」
 と彼女は仮定を話すようになった。その仮定には、期待がこもっていた。おれへの期待じゃない。彼女は好きな人としたいことや、行きたい場所を考えながら話していた。同時におれも、ちょっとだけその想像の波に乗るのはわくわくした。
 予行演習、といえば聞こえはいいが、単に好きな人とどうすれば上手くいくのかを、互いで話し合った。待ち合わせの場所、彼女のお気に入りの店のチェック、おれがよく行く猫の溜まり場。彼女には、たくさん利点が合っただろう。彼女が好きなのは男で、隣のクラスのやつで、おれとは背丈も似ている。擬似デートの間、彼女はやさしくほほえんでいた。
 でもおれの思考の果てにはいつも、おれの好きな人がはるか遠くに見えていて、彼女と出かけるたびに霞んでいってしまいそうだった。彼女と好きな人は性別が違う、声が違う、姿形が、考えが──そして、自分に見せる隙の有無が。
 彼女に正直にそれを話すと、彼女はわかってくれて、そうして「やめよっか」と言ってくれた。別れよう、ではない。このつたなくて、どこか愛おしい遊びを、やめる。
「隠岐はさ」
 彼女はおれのことを、他の女の子たちとは違って呼び捨てする。その呼び方も、今思えば好きな人を意識できたから良かったのかもしれない。
「ずっと隠しとくの?」
「なにを?」
「隠岐が、先輩と一緒にいたいってことを」
 ……難しいことを聞くんやなあ、と思いながら、おれは頭をかいた。
「隠しとく、つもりやけど」
「うん」
「どうやろう。相手は、さとい人やから」
 賢い、理解が早い、だけじゃない。目ざとく、感覚が鋭い。人の浮き沈みをよくわかっている人だ。あの人の趣味だって、人間の一喜一憂するさまを表す落語を聞くことなのだ。
 あの人は水のように、流れるように生きている。なのに、一緒に流れようとする人間には不器用に舟を差し出し、こっちに来るなと言う。舟に乗り、来た道を戻れと。
 おれはとっくに舟から降りてしまった。同じ隊へ所属し、仲間も増え、その流れを共に進みたいと願う。
……私さ」
 彼女が口を開いた。
「日焼け止め、今年もう三個も使っちゃった」
「それはよお使ったなあ」
「無駄だよね」
……そうやね」
 彼女には、隙がない。おれはそれもこの子の魅力の一つだと思っている。でも、
「明日から、買うのやめようかな」
 と笑う彼女は、おれと流れていく水の分岐は違うけれど、たしかに舟を降りて思うがまま流れていってみようかとする人だった。自然なままの彼女を、おれは見てみたい。
「汗かいたり、日焼けしたり、別に、悪いことやないし」
「うん」
「ええと思う」
 おれは正直に、思っていることを口にした。この子のいつもの控えめなほほえみよりも、今、歯を見せて幼く笑った顔の方がかわいいと、初めて思った。

 彼女はそのまま日傘を忘れて帰っていった。今度、もしどこかで暑さに参ってる猫を見つけたら、さしてみようかと考える。暗がりの涼しさに安心して、一息くらいはつけるかもしれない。
 おれも、ちょっと、一息つきたくて。ボーダーの用意してくれたスカウト組の住む寮の廊下を歩く。寮とは言ってもちゃんとしたアパートで、インターホンを鳴らして相手を待つ。
 数秒。それがとても長く感じた。カメラもあるから誰がドアのまえに立っているかは相手はわかるはずなのに、たっぷり間を置いて「……どちらさんですか」と嫌味を言われる。
「わかってるでしょ先輩」
「彼女、どうしたん」
「帰りました」
 そう言うと、先輩は「ちょお待て」と言ってインターホンを切る。そして玄関へ出てきてようやくドアを開けてくれた。まだシャワーに入っていないようだ。少しだけ、眉を上げて驚いた顔をしている。てっきり今日、あの子が泊まると思ってたんやろうなあ。でも違うのだ。おれはいそいそとサンダルを脱ぎながら、部屋へ上がる。
「先輩のこと、考えすぎって言われました」
 へらっと笑って本当のような冗談のようなことを言うと、先輩はポーズだが、怒った顔になった。
「なんてこと言わしとんねん」
「実はその、彼女とは」
 おれは彼女と取り決めた約束について先輩にバラす。
 その一、おれに好きな人がいる。
 その二、彼女にも好きな人がいて、もどかしさの共有と、予行演習をするために付き合う。
 その三、キスもセックスも絶対にしない。
 その四、この練習が上手くいかないときは、潔く別れる。
……そんで、別れたんか」
「そうです」
「普通、お互いに好きなやつおっても、練習で付き合ってたやつの良さに気づくところやろ」
「そら、映画か小説やったら、そうかもしれませんけど」
 残念ながら、おれたちはお互いを好きにはならなかった。先輩の思惑通りにはいかず、最高の友人で終わったのだ。
……お前、いや、お前らか」
 先輩はため息をついてこっちを見た。
「コソ練なんか臆病なことしとらんと、はっきり相手に言えばええやろ」
「臆病って、わかっとるやないですか。できたら苦労してません」
「そもそも、付き合っとらんやん。紛らわしい」
 おれはここにいない彼女とまるまる二人分、叱られてるみたいになった。けれど。
「はっきり相手に言えばええ、って、」
「なんや」
「先輩に、最初から伝えたら良かったですか」
 ふとした疑問を焚きつけて、おれは恐る恐る顔を上げる。
……言わな、わからんか」
 臆病という、真っ暗闇の傘から抜け出したおれは、目を丸くしてぱちぱちとまばたきをした。表情筋はまるで動かないのに、わかりづらく耳だけを赤くした先輩を見つめる。
……もしかして、妬いとってくれてた、……とか?」
 おれは先輩に、盛大に嫌そうな顔をされた。
 外は通り雨がやんで、夜だというのに気だるい蒸し暑さが風に乗って戻ってきている。おれは先輩よりもはるかにわかりやすく顔が赤いし、しばらくこれは収まりそうにない。