認めてもいいかもしれない

猫がたくさんいる観光地に遊びにきた二人の話。水→おきになる瞬間。モデルは江ノ島。

『認めてもいいかもしれない』

 楽園、と隠岐は感極まった声でうめいた。どこをどう切り取ったらここがそう見えるのか、俺にはちっともわからなかった。少なくとも、観光名所の裏側、民家の立ち並ぶ静まったこの空間のことをそう呼ぶ人たちがいるらしく、横に立つ隠岐はその情報を仕入れてわざわざ休日に俺をともなって足を運んだのだ。
 俺は寝てたかったんやけど、とぼやくと「体動かして運動不足解消しましょ!」と言われるし、近所のレンタル店で借りたいDVDがあってん、と嘘つくと「後日荒船さんに借りてください」と言われる。荒船やって持っとらんかも、とまであがいたが、隠岐がもうすでに俺のバッグに勝手に俺の財布とスマホを放りこみ、玄関にある靴までご丁寧に並べてくれた。普段はこんなに強引なことをしてこない後輩が、ここまで俺をせきたてるとき、理由はたいてい二つしかない。イコさんに呼ばれたか、猫が絡むときだ。
 動物で、飼うならなにがいいかと迫られたら。俺やって猫がいい、と思う。あの気まぐれさと自由さは、ちょうどいい加減で、体の力がふと抜ける。視線を向けたときにそこに毛玉がふわふわと日向ぼっこをしている姿なんていうのは、頭の回路を和らげてくれそうな気もする。ただ休日に積極的に、飼うわけでもない猫を見に行こう、と言われるくらいに好きかと言われると返答に困る。
 パシャリと小気味よいシャッター音が聞こえた。猫たちは撮られ慣れているようで、腹を出して堂々としている。民家の脇、マンホールの上、ボンネット、屋根、人の家の前庭。猫はそこかしこにいて、隠岐のスマホの容量を写真という名のメモリで次々と食っていく。
「かわいいですねえ、先輩」
 同意を求められたが、あくびをしながら「餌がないなら帰れ」とでも言うようにふてぶてしい姿を見せつけられても、かわいいとはお世辞にも言ってやれない。俺は基本的に思ったことは正直に言ってしまう。
「餌ないんやったら来んな、って言われてるように見えんで」
「餌やったらあかんって入り口の看板に書いてあって……
 気がつかなかった。入り口ってなんや? ここはただの民家の集まりやろ? なんで観光地よろしく入り口とか看板とかあんねん。
 ぶつくさ文句を垂れている俺を尻目に、隠岐はまた少し先に白い猫を見つけた。
「あれ、カイに似てんなあ」
 はしゃぎながら声を弾ませる隠岐は、くせのある毛並みをした猫のことを勝手に隊員の名前で呼び出し、動画を撮り始めた。その猫もまるで海のように人懐こく隠岐の方へ歩み寄ってくる。
「え、撫でさせてくれんの? ありがとうなあ」
 言葉なんて通じないのに、猫の頭を撫でられることを嬉しがり、礼を言う後輩。満面の笑みと細めた目をして、目尻にしわまでうっすら寄せている。
「先輩も撫でさせてもらえそうですよ?」
「いや俺は、」
「ええからええから」
 どこまでも強引に猫と戯れさせる気らしい隠岐の言うことに渋々したがって、俺はしゃがんでそっと猫を撫でた。海似のその猫は俺なんかの手でも嬉しそうに喉を鳴らしている。やわらかい毛がたしかに少しだけ、自分の中に潜む小さな苦痛を取り除いてくれるような気がする。けれどこんなふうに安易に撫でさせるなんて、チョロくて連れてかれんで、と心配になる。俺がちょっとでもそう思った隙になにを感じたのか、パッと目を開いてどこかへ走り去ってしまった。
「あらら、先輩、もしかして連れてこうとか考えたんやないですか」
「違うわ……いや、まあ似たようなもんかな」
「え、先輩猫飼いたかったんですか?」
 ちゃうって、としつこい後輩を振り切りながら立ち上がった。足元がふらつく。自分で思うよりも長いこと、猫を撫でていた。
「先輩、あそこ、いますよ」
 海に似た猫は、くるりと身軽に振り返ってこっちを見ていた。アーモンドの目とはよく言うが、あれはそうと言うよりも完全に丸だ。黄色い目の色でじいっとこっちを見ていて、俺の動きを探っている。
「嫌われちゃいましたかねえ」
 のんびりした声で隠岐は、猫に嫌われるなんて本人にとってはショックであろうことを簡単に言ってのける。
「猫に好かれんような先輩やねん。連れてきたってなんの得もないで」
 隠岐に大人気おとなげなく告げると、キョトンとした顔を見せて、次いで笑う。
「だって先輩、お疲れさんでしょ」
……お前」
「おれ、うまい癒し方知らんから。先輩、寝ても疲れ取れへんやろうし。寝つき良くないって言ってたの、ちゃんと覚えてますよ」
 隠岐のドヤ顔が、しゃがんでいる膝の合間、かしげた首の上に乗っかっている。泣きぼくろが、頬に押されて隠れた。
……それ、連れてきた理由の半分くらいにしかなっとらんやろ」
「バレましたか」
「当たり前や」
 はあ、とわざと大きくため息をついてやった。隠岐はあははと快活に笑い、言い訳をする。
「もう半分は、今島で猫がたくさん見られるチャンスやから、ってSNSに載っとって」
 やさしさ百パーセントでは必ずしもない隠岐なりの気遣いは、俺にとって押しつけがましくなく、適度な自己都合も含まれ、とても人間らしい。
 けれど。
「奨励会って、むずかしいって聞きました」
 次の猫を探しながら、隠岐は小さな声で話す。
「むずかしい、なんて一言で言えるもんでもないっていうのも」
 俺は後輩の言葉をじっと待つ。わずかに右足を横へずらし、重心を片側へあずけた。道路に巻かれた砂の音が鳴り、それ以降、周りの音は止む。
「おれにはその過去のことが、どんなに大変やったかなんもわからんけど、今、水上先輩が隊で、試験で、いろいろ背負ってお疲れなんやったら、ちょっとはお手伝いできるやろかって思ったんです」
 そばに、一匹の猫が歩み寄ってきた。隠岐は話を終えてすぐにしゃがんで、猫が近づくのか警戒するのか様子を見ている。その動作はひどく緩慢でやさしい。猫は額をぶつけるように、隠岐の手にこすりつけてきた。隠岐の顔が幸せにゆがむ。背中をひと撫ですると、猫も満足そうにしていた。
 俺は、後輩の与えてくれた静かな時間の中へ入ってみる。ぬるい風がふわりと舞った。あたりの葉が飛ばされて、カサカサと音がする。俺がふたたびしゃがむと、猫もこっちに気づいた。隠岐がそいつの背を、俺の方へ行ってこいとばかりに二度ほど押してやる。猫はこちらへ向かい、丸い濡れた瞳で俺を見上げた。それは隠岐の目のようにも見える。顎のあたりから手を差し伸べて、触ってもいいか無言で尋ねる。猫は、尻尾を一度だけ左右に揺らし、湿った鼻先で俺の匂いを嗅いだ。指に口の端を強くこすり、額をこれまた強く押しつける──この猫は、隠岐だ。今朝、強引に俺の荷物をまとめ、俺の靴を出して待っていた玄関での隠岐を思い出した。後輩によく似たものを感じて、俺は空気を漏らすように鼻で笑う。
「すっかり猫の虜になってますやん」
 と離れたところで隠岐が本当に嬉しそうにしている。俺は、
「悪くはないな」
 とごまかすように返した。