そして結局荒船が来る日は働いている

あらふね君の苦手を受け止めてくれるほかりと、いい感じの二人に白目むくカゲ。C級時代で穂と影初対面。

(荒船)


 思わず声が出そうになった。吸い込んだ息をうまく吐き出せない。横にいる穂刈の影に隠れそうになるのをどうにか踏みとどまる。同時に二つのことを堪えたせいで、体がガチガチに固まった。

「荒船?」

 穂刈が不思議がるが、その名を呼ぶ声の一部分さえ耳に入ってこない。

 初老の女性だ、ゆっくりこちらへ歩いてくる。そばに犬を連れていて、女性の制止を聞かずにあちこちをうろつき、道ゆく人の匂いを嗅ぎたそうにしていた。

 通行人に目もくれず、まっすぐに歩く犬ならまだいい。俺もそこまで気にすることなくそばを横切れる。でも、あの手の犬はだめだ。たとえ友好な関係を築きたいと足元に寄ってこられても、最初は青ざめながらも対処できるが、だんだん足先からゾワゾワと鳥肌が立ち、蟻走感がただよい始める。首元を埋めつくした粟だった感覚を振り払うように、肩をすくめた。

 そういうとき、犬によっては、感受性の違いなのかわからないが、なんともいえない悲しげな顔をされる。俺が全部悪いみたいな気持ちになる。そのたびに飼い主に「昔尻を噛まれたので」と告白するのも、非常にいろんな意味で苦しい。

 隣の男は近づいてくる犬に好かれていた。いや、まだ触れてさえいないのだが、明らかに犬は穂刈を見て輝いた顔をしている。穂刈も普段は細い目を丸くして、歓迎の姿勢を取っている。犬を嫌いすぎるが故に、通り過ぎるありとあらゆる犬を常時観察した俺の経験と判断は、きっとそこらのブリーダーより正しい。

 俺は立ち尽くしたまま、大変申し訳ないが、穂刈を盾にどうにか犬をやり過ごせないかばかり考えていた。穂刈が挙動不審な俺をますます不審がる。

「まさか、お前」

 穂刈に勘づかれるまえに、とうとう女性の連れていた犬がそばにやってきた。とてもかわいいし、人懐こそうだし、撫でてもちっとも嫌がらないだろう。穂刈がしゃがむと、犬は穂刈のひざに前足をかける。「すみません」と女性が謝るけれどそれは社交辞令で、犬好きの人間同士にはまったく意味のない謝罪なのだ。つまるところ、犬を通じての会話のきっかけなだけ。

「かわいいですね」

 しかし、穂刈はそう言ったわりにすぐ立ち上がり、名残惜しそうな犬に手を振って別れを告げていた。女性も一度だけ会釈をして、紐を軽く引いて犬を連れ、散歩の続きに歩き出す。彼女の背中が夕日に照らされ、やがて小さくなるのを見届けた。

……もっと触りたかったんじゃねぇのか?」

 穂刈は軽く手を払って犬の毛を落とす。長毛のふわふわした毛が舞った。

「苦手なんだろ、犬」

 そう言って、俺の肩にかかってしまった毛を払ってくれる。

「……まあ、そう、だな」

 歯切れの悪い返事をした。

 穂刈とは、ボーダーに入ってまだ日の浅い内に知り合った。攻撃手と狙撃手だから、訓練の場所も違うし顔を合わせるメンバーも違う。けれど不思議と食堂で会ったり、誰かといるときに鉢合わせる回数が多かった。ラウンジで連絡先を聞いて、カゲと一緒の高校だと知る。こいつなら、カゲにあんまり陰湿な感情を刺さないんじゃないかとなんとなく思った。だから先日、かげうらへ一緒に行こうと誘った。二つ返事で了承したこいつは、すぐに予定を見て「行けるぞ、この日とこの日なら」と教えてくれた。その場で早々に日程が決まり、それから無駄な確認の連絡もない。そして今日に至る。

 さっぱりとしていて、裏表もなく、なにかを勘繰る様子もない。つまり出会って間もないが、人として素直にこいつを信頼している、と言えばいいだろうか。なんだか詐欺師が相手を騙すのに使う常套句のようで気持ち悪いが。
 俺よりも少し背の高い横顔を見ると、俺の犬嫌いを掘り下げもせず、悠々と風に吹かれながらかげうらの場所を自分で探そうとしていた。

「昔、犬に噛まれたことがあって」

 絞りだした声は、自分でさえびっくりするほど弱々しかった。滅多にこんなことは話さないから、どうやってしゃべるか喉がわかっていないみたいに。

「今も跡が残ってる」

 さすがにまだ知り合った期間の短さからか気まずくて、どこを噛まれたのかまでは言えなかった。

「痛ぇなそりゃ」

 穂刈は、やっぱり噛まれた場所までは聞いてこない。次いで、もう一つ伝えてみた。

「あとは、泳げない」

「……泳げねーのか」

 これには、どうしてか残念そうな顔をしている。穂刈のその悲しげな表情がなぜなのかわからないまま、どの程度だめなのかを話す。

「プールなんてもってのほかだし、海も足つけんのでやっとだ」

 意外だ、とか、なんでもできそうなのに、とか、そういう言葉は言われ慣れてきた。そのたびに勝手に上がっていた期待値に驚く。小学生のうちは、なにごとも優位であるのが一番すごいという単純な世界だったから、犬が嫌いなことや泳げないことで価値基準の下がったような目をしてくるやつもいた。俺は俺であることがそんな問題で左右されるとは思えないし、気にも止めなかったが、そのときに対処法を学んだ。からかうなら好きにさせておく、同情されるなら感謝こそすれど、その内側にひそむ憐れみにはあえて気づかないふりをする──だから穂刈がどういう言葉を投げてきても、うまい返事をしてやれるけれど、

「じゃあ夏は山だな」

 まさかそう言われると思わなくて、俺は「やま」とおうむ返しした。穂刈は「ああ」と応える。

「釣りか、キャンプでもいいな、あとは」

 いや、釣りは川だから難しいか? と続けて穂刈が聞いてきた。
「もう夏の予定かよ」

「嫌いか? 山は」

「そうじゃなくて。お前は海に行きたそうだったじゃねえか、そしたら海に行きたいやつを別で誘えばいいだろ」
「そのときはそうする」

 でも、と穂刈は食い下がる。

「海に、行きたいんじゃない。お前と、行きたかっただけで」

 そっと視線を返され、俺の心臓が跳ねた。

 夕日は沈み、街灯がぽつぽつと道を明るくして、あたりは薄暗い。穂刈の視線は、その薄闇によく似ている。そこに映る感情はまだわからない。わからないが、俺ももしかしたら似た感情を持っているかもしれない──と唐突に気づいた。穂刈のことを信頼しているだなんてかっこつけた言い方をしたが、単純に言えば、あの透明な性格が一緒にいてとても気持ちが良く、とても、なんというか、その、好ましいと思っている。

 穂刈も今はまだ深く語りたくないようだったが、俺から顔をそらした耳が赤い。

 かげうらまではまだ先がある。ぎこちない会話を交わしながら、商店が立ち並ぶ大きい道路へ出るまで、二人しか歩いていない細い道が続いた。
 心臓が、少しうるさい。




(影浦)



 荒船が変な感情を向けてくるから「なんかあんなら言えよ」と聞こうとしたら、先に向こうから言ってきた。穂刈がトイレにいる間の話だ。

「あいつ、いいやつなんだよな」

 穂刈、という男を、さっき初めて紹介された。学校で見たことのあるデケえ図体と顔だと言ったら笑ってた。ちっとも嫌な感情を刺してこないから、あっさりした性格のやつなのか、なんも考えてねぇかのどっちかだなと考えていたら、荒船にとってはどうやらその一段階上の評価があるらしい。

「いいやつだと思うんなら、いいやつなんだろ」

「まあ、そうなんだけどな」

(なんだこいつ、珍しく間の悪い返事しやがる)
 俺は眉間に思いきりシワを寄せた。

「そういや、お前、あいつらと海行くのか?」

「あいつら……?」

「もう忘れてんのかよ、高校のクラスの」

 ──俺は荒船と共に記憶を反芻する。この間店にクラスの連中と来ていて、どうしてかそんな話になり、渋々荒船が泳げないと話していたのを聞いた。荒船は話したくなさそうな顔をしてたし、聞いたやつらが「じゃあ海行けねーな」って言ってたのを、「悪いな、行きたいやつらで行ってくれ」と愛想よく笑って流してた。結局、行くことになったかどうかは今の今までわからないでいた。

「行かない」

 やけにきっぱりと荒船が言う。

「喧嘩でもしたか?」

 と俺は口の端をあげる。こいつにもしも喧嘩っ早いところがあるのなら、今度のソロランク戦でまたいい試合ができそうだと思ったからだ。

 けれど、

「いや、穂刈が山にしようって言ったから、そっちに行く」

 と酒が入ってるわけでもねぇのに赤い顔で笑った。そのとき、不幸なことに俺にはサイドエフェクトなんてものがあるから、刺してくる感情がかゆくて鬱陶しく身震いした。着ていたサロンまでずり落ちちまうんじゃねぇかと思うくらい呆れ、盛大なため息をつく。

「のろけ話なら、聞かねーぞ」

 荒船は飲んでいた水でむせ、わずかにこぼす。

「のろけなんかじゃ……」

 動揺しているうちに、近くにあったおしぼりをテーブルにブン投げた。荒船の抗議の声を無視し、忌々しく舌打ちをしていたら、トイレから帰る穂刈とすれ違う。荒船の様子に不思議そうな顔をしながらも席に戻っていく穂刈は、新しく注文していたお好み焼きを焼き始めた。また店の一角で、うまそうな匂いが立ち込める。

 やがて二人の話し声がした。荒船の声は、高校のやつらと来ていたときとはずいぶん違う。弾んだ笑い声に、俺はシフト表を思わず見て、「今度は俺の働く日に来んなよ」とよっぽど言いそうになった。

 穂刈が焼いて、荒船がよそう。このルーティンを、どんなにシフトで悪あがきをしたところで、この先何年も鉢合わせて見させられる羽目になることを、俺はこのときまだ知らなかった。