このあと付き合い始める二人

基本的に嫉妬はしないけど、いよいよ取られそうになった時、初めて嫉妬というものを覚えるあらふね君のお話。ボーダー何人かと海に遊びにきてるという設定。

 あいつがそんな顔をするのが嫌だと思った。思ったからむしゃくしゃして、この女性たちのナンパに乗ったらどうなるだろうと思い、口を開きかけた。けれど、喉から出た声は違う音だった。
「悪いけど、待たせてんだ」

 別に今、彼女なんて欲しくない。一夜限りの関係なんてもっと気持ちが乗らない。そんなふうだから経験もないし、うまく女性を喜ばせるようなことも言えない。
 加賀美に、
「荒船くん、本当にモテたいとかないんだね」
 と驚かれたことがある。加賀美としてはありがたかったらしいが、なにがそう思わせたのかわからない。それほど荒船は恋愛に興味がなかった。
 ないない尽くしの自分に、それでも声をかけてくる女性たちの顔は、きっとかわいかったり、きれいだったりするのだろうが、荒船の基準値がまったくのゼロだから、好みかどうかも言えない。
 そもそも荒船がナンパに乗ってみよう、なんて不慣れな考えを一瞬でも抱いたのは、一緒に来ていた仲間のうちの自隊のやつ──荒船はあえて適当な物言いで怒りを抑えた──が先に、別の女性グループに危うく手を引かれかけたからだ。
 自隊のやつ──穂刈は、ほんの数分まえ犬飼と砂浜を歩いていた。荒船はそれを見ていた。タイプの違う二人が並んでいて砂浜にいた女性たちの目を引いたのかもしれない。やんわりかわす穂刈の横で、犬飼はからかいながら悩ましいことを言った。
「いいんじゃない? ちょっとくらい抜けても」
 こう聞きながら、言動と裏腹にまったくそんな気のない犬飼に、穂刈は閉口していた。穂刈の片手には荒船に買ったビーチサンダルがある。
 荒船はサンダルを持ってきていたのだが、荷物の中にあったのを「どうせ俺は泳げないから」と人に貸した。買えるところがあるなんて海に来ない荒船は知らなくて、めざとく穂刈が「買ってきてやる、新しいのを」とさっさと行った。帰ってくるのをこのデッキで座って待っていた荒船は、自分がナンパされるより先に、偶然穂刈と犬飼がナンパされている現場を目撃してしまう。
 穂刈がモテることは構わない。むしろ、いいと思う。惚れた相手がモテるのは、それだけ魅力が伝わっているということだ。自分だけが知っていればいいなんて浅はかな考えは、荒船にはない。なかった。
 けれど、少し強引に女性の手があの腕に触れたとき、一気に体が熱くなる。
(拒絶、しろよ)
 穂刈は女性に対して驚いた顔をした。拒絶でも、嫌がるでもなく、ただ驚いた。犬飼がからかうように口笛を吹いて我に帰った穂刈は、今度こそ彼女の手をそっと外して「悪いけど」と言葉を続けた。そうして犬飼と別れ、今まっすぐこちらに向かっている。
 あいつがそんな顔をするのは嫌だと思った。もっとはっきり否定したり、断ったり、これはもうただの荒船の欲の問題であるが「人を待たせてるから」と言ったらいいのに、と感じた。ろくでもなく渦を巻く、荒船の中の嫉妬という感情。心が鈍器で叩かれたみたいにひしゃげている。自分にも独占欲があるなんて知らなかった。むしゃくしゃしていたら、こんな最善なのか最悪なのかわからないタイミングでなんという偶然なのか、自分にも声をかけてきた別の女性グループが来た。
 彼女たちのナンパに乗ったらどうなるだろうと思い、口を開きかけた。けれど、向かってくる穂刈の顔を見てすぐに放とうとしていた言葉が方々に散って、喉から出た声は違う音だった。
 穂刈は驚いていた、さっき穂刈が女性に腕を引かれたときよりもっとはっきりと、わかりやすく。そして、眉をひそめて荒船と女性たちが話し終わるのを待っていた。手に下げた新品のサンダルは、すぐに履けるように紐を切ってある。浜を蹴るように歩いてきた足には、細かい粒子がすねのあたりまで飛散していた。目を細め、大型の動物が周りをうろつく者を見定めるように、静かに成り行きを見ている。あれは明らかな負、というより、剥き出しの感情をさらけ出している。自分にはろくでもない、みっともないと思っていた感情を、平気で裸にして放り投げ、荒船のまえに差し出している。荒船はおかしくて、今までイライラとしていたことがすべて、どうでも良くなってきた。
 だから荒船は言う。
「悪いけど、待たせてんだ」
 デッキから立ち上がり、彼女たちから逃げるようにして、裸足で砂浜に降り立った。穂刈の目の前でわざと太陽の光を浴びすぎた熱砂に触れて、「熱い」と言う。
 砂の上に置かれたサンダルに足を通し、
「足、冷やしにいきてえ」
 ともう彼女たちを振り返らずに穂刈に伝えた。
「入るのか、海に」
「足だけならいける」
 泳げない荒船を知るのも、荒船のためにビーチサンダルをわざわざ穂刈が買いに行ったのも、自分たちが互いの気持ちを知りつつ告白できていなくて、なのにお互いにナンパされて嫉妬ばかりをしているどうしようもない関係なのも、別に二人だけが知ればいい話だ。他人は関係ない。
 潮がざわりと荒船の足首までを覆った。引き戻されるような感覚をわずかに感じて怖かったが、目の前を歩く男の背中が見えたから、大丈夫なような気がした。
「怒ってんのか、穂刈」
 相手の返事も待たないうちに、荒船は続ける。
「俺も、怒ってんだからな。お前が連れてかれそうになって」
 そう言って、さっき女性が触れたであろう腕の方をつかむ。
「見てたのか」
「見てた」
「よく見てたな……早く帰らなかったからか? オレが」
 暗に待ち遠しかったのかとからかわれ、荒船は穂刈を小突く。
「自惚れんなよ」
 穂刈は笑う。
 けれど、もしかしたら、そうかもしれない。だから、荒船は言うのだ。
……やっぱ、自惚れてろ」
 荒船が言ったのを、穂刈は拾えずに聞き返す。けれど、どこか確信めいた聞き返し方だった。もう一度言ってやるにはプライドが許せなくて、荒船は波際を走る。新しくて履き慣れないサンダルの緒が食い込み、足にひと夏の傷を作った。これは痕が残りそうだな、と荒船は赤い顔で思う。