ちょっと高い店とコンビニ

成人して、ボーダー外勤務のおき君とボーダー勤務の水上くん。おき君がインターン半年行って帰ってくるお話。

『ちょっと高い店とコンビニ』

 初めて入るおでん屋に、ガラリと戸を開けて入っていく水上を追いかけると、カウンターと小上がりが少し、そして奥に接待で使うんだろう個室が四つ見えた。店員が予約表をめくり、「お待ちしてました、水上様ですね」と挨拶をする。
 ふすま越しに笑い声が聞こえ、ちょうど今は十九時、まさにサラリーマンや偉い人の会合の時間であろうな、と察しがつく。天井についた灯りは六箇所ほどだが、どれも薄明るい黄色みを帯びていて、なんとなく隠岐は眠気を誘われる。
 カウンターに座っている男女は、瓶ビールを三本空にしていた。女性の方はしきりに水を勧めていて、男性は「それよりもさあ」と舌足らずに話している。ああここは、そういう場所にもなりうるのか。と隠岐は首をすくめた。男性が女性の腰あたりを触る手つきをあまり見たくなくて、目の前を歩く水上に視線を無理やり戻した。
「こちらです」
 と着物を着た女性店員が案内をしてくれた個室は、騒がしい部屋の隣だった。ときどき壁を叩くような音もする。水上は、こういうところは嫌ではないだろうかと、隠岐は様子を伺った。けれどそれよりも先に店員がスッと立ち上がり、「すみませんね、言っておきますので」と下がった。数分経つと、隣はすぐに静かになる。普段行くような居酒屋とは違う。店のルールが絶対を敷き、従えなければ出払うのだ。しかし一方で、他人が他人を口説くのは、どうあろうと店の責任ではない。あくまで客同士の問題だからである。
「ここ、よく来るんですか?」
「いや、今日が初めてや」
 水上は着てきたブルゾンを脱ぐと、ハンガーに丁寧に引っ掛ける。「お前のも」と言われて、おずおずと上着を差し出した。水上が腕を伸ばしてかけた先の壁には、居酒屋と違ってメニューがくっついていない。木の板が艶を塗られ、きれいに木目を揃えている壁だった。その一面の壁を背景に、水上はいつもと変わらぬ調子で座布団に座る。隠岐はあぐらをかけずに正座でいた。
「飲みもん、なに頼む」
 メニューを開く。淡々としゃべる。こけた頬と面長の顔は、半年前と同じく──いや、ちょっとだけ目を細めて、飲み物が書かれたものを見ていた。
「先輩、目ぇ、悪くなりました?」
「少しな」
 細められた目のまま、飲み物を決めたらしい。開いたページには焼酎と書かれていて、隠岐はとてもじゃないがそんなものは頼めない、と、まえのページをめくった。発泡酒、ハウスワイン、酎ハイ、という見慣れた文字は存在しない。まっすぐ縦一列に並んだ品名と、値段のないページ。わけがわからず、「一番上の」と水上に伝えた。口端を歪めた水上が、先程の女性店員を呼ぶ。ふすまを開けた彼女に、低く、丁寧に酒と料理を頼んだ。
「なんで、こんなとこ、」
「うまいおでんが食いたい言うたやろ」
 コンビニのでもええのに、とは隠岐は言い出さなかった。店にも失礼だし、なにより誘ってくれた水上にも無礼である。前髪をカリカリとかいた。顔を隠せるサンバイザーは、今日はない。
 ふたたびふすまが開いて、トレーに乗せられた飲み物が二つ、テーブルに置かれた。店名の入った厚紙のコースターのうえ、ライトに当たったタンブラーグラスは冷え切っているであろうビールが入っている。結露を見出していないそれに口をつける。再会した記念の乾杯などはしない。水上の中で、この会は日常の延長戦なのだ。隠岐はそれが少し嬉しかった。
「目、悪くなったんならめがね買いにいかな」
「明日な」
 水上のグラスの氷がかたむく。
 また、ふすまがスッと音を立てた。小さな四角い皿が三つ現れ、それぞれを店員が説明してくれるが、隠岐にはさっぱりわからないことだらけだ。ほうれん草、秋の旬で、かぶを、くらいの単語は拾えたが、ほうれん草は通年いつでも美味しいし、秋の旬とか考えんのはさすがやなあ、かぶは自分で使ったこともあらへんわ。と考えながらニコニコと笑って聞いた。
「わ、うまい」
 けれど胡麻和えは口の中でほどけてよく馴染むし、秋の旬と言われたさつまいもはレモン煮だから、照りと色合いが鮮やかで見目も良かった。かぶはあっさり漬けてある。隠岐がコロコロと表情を変えてうまいうまいと言っている間に、水上は焼酎を空にしていた。
「よお食うな、ほんまに」
 隠岐は、よく噛み、よく食べる。水上と暮らしているときもそうだった。「食費が倍以上や」と文句を言われた──この男は家計簿をつけている。隠岐はびっくりして、エクセルで管理されたそれを見せてもらったことがある。食費、雑費、日用品費、その表のいちばん隅に、「隠岐」とある。
 この隠岐という欄は、いつか隠岐が返さなくてはならない金だろうかと水上に聞いた。水上は首を横には振ったが、「いや待てよ、それもええな」と悪い顔をした。
「今日のこのご飯代も、あの『隠岐』の分から支出されてるんですか?」
「そうや。返してもらわなあかんな」
「ええ……どのくらい溜まっとるんやろ」
「聞きたいんか?」
「いやいや、ええです、怖いわ」
 初めて、水上が喉を鳴らして笑った。まえよりも細くなった首の喉仏が上下する。
 おでんが運ばれて、鍋のふたを開けてふくよかな湯気がたった部屋は、温度が少し上がった。とりわけ方を説明しようとする女性店員に、水上は「こっちでできますんで」と断りを入れる。昔の言い方よりも、それはトゲもなくやさしい。店員も悪い気にはならなかったようで、「失礼しました」と部屋を去った。
 雲のように互いの顔を見えなくする湯気を、水上が箸でかき分ける。隠岐の目の前に差し出された皿に、ちょうどよくおでんの具が乗っていた。礼を言って皿をもらい、テーブルに置くと、そこまでずっとついてきた湯気が隠岐の皿の上でもふわふわと浮かび、気持ちよさそうに揺れている。
「好みでこの味噌をつける」
「え、味噌?」
「甘いし、うまいで」
 水上は知ったように言う。きっと知っているんだろう。誰かと食べたときに、初めて知ったんだろうか。おれがそれを最初に見たかったな、と思うが、自分勝手もいいところである。しかし、
(いや、自分勝手は先輩の方や)
 と口を尖らせた。水上は、なにも言わず隠岐に味噌を渡す。
 普通の味噌よりも、濃く赤い色をしていた。いい香りのするそれを試しに入れてみると、コクと風合いが増して、おでんの味が深くなる。出汁と具材と味噌がいいと、こんなに違うものなのか。隠岐が露骨に感動してあっという間に食べ終えると、もう眼前に細長い指をした手が現れる。
「おかわりやろ」
「あ、はい……
 見透かされている食欲を恥ずかしく思う。けれど、玉子、はんぺん、ちくわと乗っていく皿を見ると疼いた。味噌つけるか、いやそのままでもええなあ。隠岐は次の食べ方で頭がいっぱいだった。
 気づけば三分の二を自分が食べ終え、ようやく一杯目のビールを飲み終えそうなころ、水上は四杯目の水割りだった。そんなに新しいグラスに取り替えているとは。
「全然顔に出なくなりましたね、赤いの」
「んー……まあ飲み会は、そこそこあるしな。酒には慣れた」
「おれはアカンみたいです、どこ行っても慣れんくて」
 そこまで言うと、隠岐は一瞬口をつぐんだ。水上が先を促す。
……へえ、あそこではどうだったん? インターン先」
 隠岐は顔を上げた──水上がおだやかな顔でこっちを見ている。
「ええ、と、」
 言い淀んでいてもしかたがない。隠岐は話し出した。
「結構、おもろいモンもあって」
「へえ」
「あ、写真も撮ったんですけど。見ます?」
「見る」
 それから水上は、隠岐が話すインターン先での出来事に相槌を打つ。ときどき、質問も投げかける。急カーブをかけない、なだらかなスローイングで。隠岐は心地よくテンポを失わずに話を続けられる。まるでスムーズな漫談。嬉しくて、話は止まらない。
 隠岐が勤める会社で受けてこいと言われたインターンは半年に及び、その間、二人は本日に至るまで一度も会えなかった。メッセージさえやり取りしなかった。水上がそう望んだから。
 ──連絡もだめなんですか?
 インターンが始まるまえに、隠岐はたしかに水上に聞いた。しつこく聞いた。会えないのならせめて声も聞きたいし、なにをどうしているのかだって知りたいと、当たり前のように思ったのに。
 あかん、と自分勝手な水上はさっぱり言った。決める権利は己にのみある、とでも言うように、すがすがしく、ふてぶてしく。
 ──あかん、向こうをちゃんと見てきたらええ。
 それでも。隠岐は、水上に話を続けながら、脳裏で思う。
 この個室は予約されていた、半年もまえから。ここに最初に入ったとき、店員が予約表をパラパラとめくってちょうど今日より六枚あとに、たしかに「水上様、二名」と文字があったのだ。ページの先頭には「四月」と振られていた。
 隠岐は怖かった。インターン先でもニコニコと笑顔を貼り付けたまま、もしも水上の家計簿の、エクセルの端が切り捨てられていたらと考えていた。隠岐の欄が消えれば、それは水上一人の生活費に自然と計上し直される。エクセルは便利で、非情だ。きっと食費は予算より浮いて、余りを抱え、どうせ水上のことだから貯蓄に回すに違いない。大した豪遊をするわけでも、大酒飲みでもないから。でも、家くらいは買うかもしれない。その住所は教えられないかもしれない。
 そこまで考えて隠岐は夜、一度だけ涙を流したことすらあるというのに。夏を通り過ぎてこの街に帰り、「帰ってきました」とメッセージを送ると、すぐに既読がついてここに来いと言われたのだ。
……インターン、楽しかったですけど、」
 話を終えて、隠岐がしめくくるのは、滑稽なネタでもオチでもない。正直な気持ちの吐露だった。
「やっぱり、連絡できへんのは嫌やった」
「そうかい」
「先輩どうせ、あっちで女の子できたらって考えとったんでしょ」
「半年あれば、人は変わるからなあ」
「でもここ予約しとったやないですか」
「お前が帰らんかったら、イコさん誘おかと思ってな。振られましたわって」
 おでんをとても美味しそうに食べる生駒がすぐに頭に浮かんで、慌てて手で払う。
「誤魔化さんでください。なんでもイコさん出せば解決すると思て。あと振られた側に自分を置かんどいてください。先輩ですよ、連絡すんな言うたの」
 だんだん言葉をまくしたて、頬を膨らませて怒る隠岐を、水上はうすく笑って見ていた。
「そんなんされたら、絶対こっち帰ってくる、って、思うやないですか」
 どうや参ったか、乗り越えて帰ってきたで。隠岐はふんぞり返ってそう言うつもりだったのに。
 気づけばおでん屋の中へ招かれ、高級な料理に舌鼓したつづみを打ち、インターンで楽しかったことをウフフアハハと話している。
「いやウフフアハハとは言うてへんやろ」
「先輩、揚げ足取らんでください。あとおれ、おかえりも言われてません」
「おーおー、おかえり隠岐くん」
 なにもかも水上の手の上で転がされているのが癪で癪でしかたがないのに、笑って見ている水上の顔は憎めない。
 やわらかな灯りの下だ。客同士、口説き合うのは自由である。隠岐は入店早々にそれを知った。
「二軒目、先輩の家ですからね」
「酒代がもうないなあ」
「おれが出します」
「んー……寄んのは、コンビニでええの?」
「はい」
 今度こそ、コンビニでいい。隠岐は嬉しいのと悔しいのと、ごちゃまぜになった感情を締めのご飯をかきこむことで飲み干した。口説いた結果が「コンビニでええの?」とはなんとも色気のない返事をもらった。けれど、このあと買い物カゴに放られるであろう数種類の安酒は、今飲んだビールよりきっとうまい。