計算と計算外

やっと二人で過ごせる日をどうしても無駄にしたくなくて奮闘するほかりとあらふね君のお話。

『計算と計算外』

 何日かまえから、防水のモニターを買ったから、これで風呂でも映画が見られると荒船がはしゃいでいた。荒船に対して、はしゃぐ、と言うと語弊があるかもしれない。表情の中にちょっと喜色きしょくを滲ませた程度だった。でも、オレは昔からそれが荒船のいちばんわくわくしている顔だと知っているので、あれははしゃいでいるんだな、とわかる。
 オレは別に長風呂な方ではないから、じゃあ先にオレが入って、荒船があとからゆっくり入ればちょうどいいな、と考えていた。

 けれど今、
「やっぱ狭いな」
 と、これも表情の中に少しの笑みだけ滲ませている荒船が、オレのまえに座って湯船に浸かっている。湯は二人で入るときに少し流れ出てしまって、やや量が心許こころもとない。
 浴槽のそばにたてかけたモニターからは、映画の始まりを知らせるナレーションの声が入る。チャプンと音をたて、荒船の手がオレのひざを抱えた。オレはさながら映画館のイスのようだが、自分の腕に収まる荒船というも、なかなかいいなと思う。
 登場した俳優が、いつもと変わらない日常を送っている。日常には退屈が含まれる。妻にも愛想を尽かされていて、子どもたちは冷たい。
 最近の荒船はどんなジャンルも映画を幅広く観るようになったものだから、家の中のDVD置き場がまずいことになっている。そろそろ片付けないか、と進言するつもりで、もう何日か経ってしまった。
(そういえば、言えてないな、あれも)
 あれもこれもやってなかったな、ということがオレの中で何個もできていた。DVDを片付けることもだし、たとえば、荒船がボーダーへ着ていくシャツを新しくしないとそろそろへたってきたんじゃないか、とか。雑誌をまとめて次のゴミの日に出したい、とか──今観ている映画の中で、つまらない日常を送る俳優にとっての「つまらない」さえも、オレたちはできていない。
 ひとえに、オレの激務のせいだ。荒船と休みがかぶらない。
 ボーダー外の企業へ就職して、まったく違う世界に戸惑いはなかったが、慣れるには時間がかかった。トリオン体じゃないことは、こんなに大変なんだなと痛感する。これまで育ててくれた親に感謝した。不規則、不安定、不確かな未来。それでも会社へは行くし、残業はあるし、揺られる電車の時間は変わらない。荒船との時間は削られ続けた。
 会えない合間にしたメッセージは事務的なものばかりだった。けれど、
「冷蔵庫にさっき作ったの、入れとく」
 とか、
「掃除は終わってるから」
 とか。手の届かないところを互いに補い合って、この家のことと二人でいるという体制を維持してきた。それでもいよいよ時間が足りなくて、どうすればいいのかと思っていた矢先、やっと休みがかぶった今日の、「風呂で映画鑑賞しようぜ」という荒船からの提案だった。
 ……荒船のやわらかい髪にもたれると、懐かしさを感じた。抱きしめている体はまえよりも引き締まった気がする。痩せたのか、筋トレの効果なのか。筋トレは今もあのメニューをやっているらしい、オレが高校のときに教えたのを。
……こんなやつと、離れてたなんて)
 首筋を吸えば、ひくりと震えた荒船の肩は、しかし数秒ですぐに映画に夢中で、オレのやることには意識を向けない。腹の底から息を吐き、額をこすりつけて安堵した。あまりに、荒船らしすぎる。
「穂刈、」
 映画を観ているのに、珍しく荒船は声を出した。ゆっくりこっちを振り返る。
「眠いのか」
 画面は一時停止されていた。そういえば、この映画は何度か荒船がリビングで観ていたお気に入りだったような気がしてきた。ところどころのシーンに見覚えがある。それに気づくのが遅れるほど、オレの意識はぼんやりしていた。
 湯を揺らして、荒船がこっちを向く。
「正直に言えば、」
「おう」
「安心して、眠い。お前がいるとわかって」
「だと思った。眠いと、半端に手ぇ出してくる癖、あるもんな」
 え、そんな癖あったのか、オレって。荒船に言われて気づいた。こっちが荒船らしさを笑っている間に、荒船もオレらしさを思っていたのだ。
「観終わったら起こしてやる」
 そうしてもらえるのはありがたいが、せっかく二人でいられる貴重な時間なのに。オレは口を尖らせる。自分の眠気が憎い。
 意識の隙間に少しずつ、まぶたを閉ざそうと鉛のような重たい感覚が入り込む。まだだ、まだ、と制止するのに、荒船のあたたかさと、再開した映画のほどよい音楽と、薄暗い室内が眠りを誘う。目の前の体に触れ、もう一度、今度は荒船の首を甘噛みした。さっき吸いついた痕なんてすっかり失われていて、新しく噛んだ場所もそこまで目立ちはしなかった。すでに風呂で体温が上がっているから、赤いのがわからないのだ。
 オレがまた眠たさをごまかしたくて手を出したから、荒船はいよいよ映画を止めた。
「起きてたいのか?」
……もったいねーから」
 駄々をこねるオレにとうとう呆れられたかな、と顔をあげようとしたら──突然、荒船がザバッと湯を跳ね上げて立ち上がった。オレは座ったまま、荒船を見上げる。濡れた肌から水滴がしたたり、荒船の腰から下を垂れ落ちた。もったいない、とそれにさえ思った。
「風呂ですんのは、のぼせる」
 荒船はそれだけ言うと、ドアを開いて涼しい風を浴室に送る。生ぬるい思考が一気に冷やされた。オレが浴槽に手をついて荒船の後ろ姿を見ると、視線から隠すようにバスタオルで覆われる。
 でも──隠しきれていない耳元は赤くて、オレはさっきの荒船と同じように急いで湯船から這い出た。
「お前が、変な気にさせたからだ」
 オレの眠気は吹き飛んで、あらふね、と声を張って呼んだ。しかし相手は「先行ってる」と顔も見ずに立ち去る。着替えもろくにせず、荒船はタオルでおざなりに拭いただけの髪のまま。モニターの完全に停止した黒い画面には、さっきまで眠たげだったオレが打って変わってはっきりした顔をしているのが映っていた。
 オレは荒船と同じくらい、着替えも髪もなにもかも適当にして、浴室を出ようとする。寝室のドアは閉められていて、でも廊下に水滴が続いているから、荒船の痕跡を辿れば会える。けれど。
 オレはふと、立ち止まって考える──たしかに、オレがあの場で変な気にさせた。させたが。
 荒船は、その、いつ準備をしたんだろうか。体の。
 オレは背中の毛をぶわりと立てる。もしかして、もしかすると、と仮定を浮かべる。

 いつも遅く帰るのはオレの方、今日もそうだった。荒船は飯を作ってくれていた。でも一緒にはあんまり食べなくて、もう先に食ってたから、と言っていた。風呂で見た映画は、派手なアクションなんかじゃない。あれは荒船が、リラックスするときに観ている映画だ。そういう静かな一本を一緒に観ると、オレは大抵半分くらい意識が飛んでしまってる。だから風呂で流れるその時間は、やっぱりオレにとってひどく安心して、そうしたら絶対にオレは眠くなる。眠くなると、あいつ曰く、オレは必ず手を出すから。

 荒船がいるであろう寝室のまえに立つ。二人の休日の予定を計算し尽くしてくれた男は、どんな顔でベッドの中に閉じこもったのだろう。
 ここは自分の家なのに、オレは寝室を丁寧にノックした。部屋の中からは動物みたいなうなり声がした、ちっともかわいげのない声だ。こんなことをした自分を今さら恥じらっている。オレは笑いを堪えられず、すっかり醒めた目でドアノブを回した。