穂刈のファーストキスは、

珍しく喧嘩した時の対処法。惚れたら何だって負けだよという話でもあります。
普段のあらふね君はすぐ「すまん」って言える人だと思ってます。

『穂刈のファーストキスは、』

 俺たちの間で、ごくまれにしか起こらない些細な喧嘩。それが解決の兆しを見せそうなのになかなか互いに謝れないとき、決まって穂刈はこの話をし始める。
「冬だった、あれはたしか」
……へえ」
 穂刈はそう言いながら、眉間にちょっとシワを寄せて、ファミレスのテーブルに頬杖をついた。
「クリスマスなのに相手がいなかった、お互いに」
 穂刈は結構イベントを大事にするやつだから、クリスマスだのバレンタインだののまえは必ずそわそわする。
「オレはその子を好きだった、相手はどうかわかんねーけど。でも、脈があるかもって思った、クリスマスに誘われるってことは」
……で?」
 苛立つのを堪えながら俺は体を背もたれに預ける。穂刈は俺の方を見向きもせず、飲み物をかたむける。グラスを持つ骨張った手の甲が、また少し堅さを増した気がする。
「家に行った、ケーキとチキンを買って」
 俺たちの食べ終えた皿を、店員が下げにくる。伝票をそっと置いていくと、店員は逃げるように離れた。たしかに穂刈のいかつい顔はかなり迫力があるし、俺も帽子の暗がりから目を覗かせているから、必ずしも愛想のいい顔をしてるとは言えない。間違いない、ここは不穏なテーブルだとマークされている。
「三門じゃ有名な店だ、ケーキを買ったのは。母親に教わった」
 思い出すように顎に手をやり、かっこつける穂刈に、俺はますます角度をつけて見下ろした。
「並ばないと、危うく買えないところだったな、チキンは」
 穂刈はしみじみと頷く。俺は、そりゃあクリスマスだしな、とつぶやきかけて咄嗟に飲み込む。
「相手の家族もいた、家には。嬉しかった、父親に、篤くんとはいい酒飲み仲間になれそうだと言われて」
 まあ……つまりはその家族は、将来的にも末永く穂刈とはお付き合いを考えていたんだろう。よく食べよく話を聞く穂刈は、たぶんどの家庭でもかなり印象がいいのではないだろうか。見た目に反してかわいがりがいのがあるギャップにやられる親世代は特に多そうだ。でなければ、そんな発言はしない。俺は帽子をより深く被り直した。
「相手が送るって言ってくれて、帰るころに」
 俺の相槌がだんだんなくなっていくことに、穂刈はなおも渋い表情をした。今度こそ視線を合わせ、俺を真正面から睨む。
「オレは断った。暗いし、危ないから。でも送ってくれた、二人になりたいからって」
 家族もいて、話も弾んだ食事になったのなら、必然的に二人きりの時間は家ではほぼなかったと言えるだろう。だから相手は、そりゃあ帰り道という手段をとるしかない。俺はますます、帽子を目深にして、もう顔は半分穂刈からは見えていないはずだ。
「帰り道のコンビニの近くでしたんだ、ファーストキスは」
 穂刈は、睨んでいるんじゃない。
 俺は、低い声でうめいた。
……違う、コンビニじゃねえ。駐車場だろ」
 穂刈は、観念してくれと目で訴えているのだ。
 俺はもはや帽子のつばを持って顔を覆っている。布地に遮られ、くぐもった声でも場所の違いをはっきりと指摘しているあたり、「その思い出は、一字一句間違えてくれるな」と言っているのと同意だ。
 穂刈が堪えきれずに吹き出すのが聞こえた。俺は歯ぎしりをすると、ギリギリという音が帽子の中で反響する。
「見せろよ、顔を」
 すぐそばで、笑い混じりの声がする。
「いやだ」
「今も昔も悪かった、オレが」
 それは、さっきの喧嘩の分も含めての謝罪だ。「この雰囲気のままにしたくない、せっかくのお前との時間を」という意味を込めて(まえに穂刈に言われたクソ恥ずかしいセリフそのまんまだ)。本来なら俺だって謝ることなのに、穂刈はこうして自分の非をあえて作って、先に折れる。折れてくれる。
 慣習法だ──文章にはなっていない、俺たちの暗黙のルール。生活する上での慣習模範があり、過去に慣習を破った判例を元に穂刈が裁定を決める。今のところ、喧嘩するたびに挙げられる判例はいつだってくだんのクリスマスの話で、穂刈がいつも間違うから今回の喧嘩も穂刈が悪いのだ、という、ただの……ただの俺への甘やかしだ。
……俺がガキみてえじゃねーか」
 ──今日の喧嘩は本当に些細だった。筋トレのメニューをどうするか、俺と穂刈の方向性がちょっと違っただけ。それをこのファミレスに来るまでに消化しきれなかった俺たちは、食後の飲み物の時間になってもまだささくれていた。だから穂刈は、ファーストキスの話を持ち出す。最初に降参だと白旗を見せるために。
 喧嘩のことも、根に持ったふりをしているがファーストキスの話も、俺は、もうすっかり許しているのだ。それでも「違う、駐車場だ」と言い返すのは、恥ずかしさを隠すための偏屈な強がりでしかない──だって駐車場は、コンビニの真横にある。別に穂刈は間違っていない。けれど。

 高一のクリスマスの日、俺の家を出て穂刈を送る途中。急に雨が降ってきて、コンビニで傘を買った。安物のそれを広げると、雨の音と穂刈の声だけが心地よく循環した。周りには急ぎ足で帰る人の姿もあったのに、傘の中は二人きりの空間に思えた。
 父さんが、穂刈との将来をほのめかすようなことを言うから、まだ高校一年生だった俺は柄にもなく浮かれていた。傘の先同士が張り詰めるように触れ合うほど、穂刈に近づく。穂刈は人気ひとけのない隣の駐車場へ俺の手を引き、自分の傘を横に倒し、俺の傘の内側に入って触れるだけのキスをした。
 まだ髪の短かった穂刈の頭に手を差し込んで、雨粒を払ってやる。暗がりの中でそれは街灯に当たって光った。その光はとてもきれいだったし、傘の中でのあの湿り気と切なさは今でも無性に恋しくなるから、俺はその記憶を絶対に間違えたくないのだ。

 ……だから許していないことにしてあるのは、こうしてときどき引き合いに出して、穂刈に歩み寄るきっかけを作れるから。俺だって、せっかくのお前との時間を無駄にしたくない。
「荒船のファーストキスでもあるもんな、オレのファーストキスは」
 そう言って、穂刈は飲み物のストローをくわえた。なんで帽子で顔を隠してるのにわかったかといえば、穂刈がグラスの底を吸う音がしたからだ。ズズ……と音が鳴る、肝心なところでかっこつかない。カラリと氷が回る音もする。勢いよく冷たいもん飲んで、あとから絶対「ちょっと冷えたな、腹が」とか言うんだ、こいつは。
 俺はこいつのしょうもない癖を知り、こいつは俺の強がりな性分を知っている。将来酒を飲みながら、父さんと俺のことで話をしても、わかりますって顔であいかわらずしみじみ頷いてやがるんだろう。
 帽子のつばを数センチ動かす。穂刈の笑った口が見える。腹が立つから、テーブルの下で足を蹴飛ばしてやった。「いってぇな」と言われ、それでも口の端が下がることはない。