穂刈の家

書いた、初めて。
よりを戻した穂荒のお話。二人ともお酒が飲める大人の年齢なのと、二人の将来の捏造あります。あらふね君はほかりにだけわがままが言えるという妄想。
サブタイトルは初夜お預け。
なぜかほかりが丁寧な暮らしをしています……

『穂刈の家』

 穂刈の家は、日当たりのいい八畳ほどのフローリングだ。しかしあいつが住むにはやや手狭だった。背の高い穂刈は、ときどき天井から吊り下げてあるライトに頭をぶつけている。長い腕を伸ばせば、その空間は穂刈自身でいっぱいになりそうだった。シングルロングのベッドも、いつかはセミダブルに買い替えたいと言いながらも、もう何年もそこに鎮座している。
 たっぷり入る陽光に目を覚ましながら、穂刈がすることは歯磨きで、ぺたぺたと裸足の音を鳴らしながら洗面台へ向かう。ユニットバスに備え付けの洗面台も小さくて、「使いづらいんだよな」と文句を言っていた。器用に左手で寝癖を直しながら、磨き終わった歯ブラシをコップの中に入れる音は、物の少ないバスルームによく響く。
 部屋に戻ると、廊下が思ったより寒かったことに気づいたのか、暖房のスイッチを入れる。エアコンが静かな稼働音をたて、古いベージュの壁紙に向かってあたたかい風を送るから、穂刈は手で送風ファンの向きを変えた。ここに住んだときからずっとあったから、きっとこのエアコンも相当古い。ああして手で変えてやらないといけない面倒な機械のことを、穂刈はなぜか気に入っていた。少し手間がかかる方が、愛着が湧いてくるらしい。
 昨日の夜、「それなら俺はどうなんだよ」と聞いた。らしくない質問だ。
 けれどそう聞くと、
「湧いたな、十八のときからずっと」
 と穂刈は笑ったのだ。
 質問をしたのは、俺が酒に酔っていたからだ。フラフラの足取りでこの家について、久しぶりの穂刈の空気を吸って、なんだか胸の奥が痛んで締めつけられたからだ。センチメンタルなんてクソくらえだと思って穂刈の顔を見たら、見たことのない顔をしていた。別れ話のときだって、こんな顔はしてなかったくせに。
 手のひらで転がされているような気がして釈然としないが、そもそも穂刈は誰かを手のひらで転がすなんて真似はしない男だ。そういう男だから好きになったのだ、と今さら、本当に今さら俺は気づいて、ベッドの中で下唇を噛んでしかめ面をする。

 ──一年前、「親に女性を紹介された」と言うと、物分かりのいい穂刈は「わかった」と言った。いわゆるそれが一つの別れ話になった。
 理由は簡単で、親が縁談を持ってきたこともあるし、そもそも俺たちには、付き合っているのか確証がなかったからだ。
 穂刈とは、キスもセックスもなかった。ただ隣にいれば、死ぬほど居心地がいい。別れなんていう言葉が自分のまえにまさか横たわるなんて微塵も思わず、今まで過ごしてきた。
「もうボーダーで教官になるんだから、あなたがしっかりしないと周りも困るでしょう」
 親の知り合いにいい子がいて、もう話も通しているからと言われる。親は穂刈とのことを知らないから、久しぶりの晴れやかな席に、わざわざ近所の百貨店へ行って服を新調していた。
 見合いのような席に座り豪華な飯をまえにしても、俺は「あいつどうせ今ごろ筋トレしてんだろうな」とほくそ笑んだ。俺の笑みは勘違いをもたらし、席に座るみんなの期待値を高めてしまい、次に会う日取りを強引に決められた。
 二度目。俺は女性と話を合わせることはできたが、寄り添うことはできない。ふと真剣な表情で、今の悩みや将来のことを話されると、どうしていいか迷う。こんなとき、穂刈はきっと黙って話を全て聞けるんだろう。実際に、俺は何度もそうして話を聞いてもらったことがある。
 二度目の会合が終わってすぐに、俺は親に
「申し訳ないけど、断ってくる」
 と告げた。
 親は焦った。次から次へと周りから勧められたのであろう話を持ちかける。俺のためという名の親心を、俺は飲み込めなくなった。笑みもだんだん消え失せる。
 そのうち、俺は親の元に帰らず、ボーダーに入り浸るようになった。入り浸れば、穂刈と会うかもしれなかったが、不思議とすれ違いさえもしない。明らかに避けているようでもないが、自ら足を向けようとも思えない。親からの連絡は日を追うごとに減っていったが、諦めてはいない様子だった。
「穂刈」
 自室の中で、小さくゆっくり口に出した。思いはすれど、名前を出すことは今まではばかられた。ずっと胃の中に押し込んで、どろどろと溶かしきれなかったかたまりをとうとう俺は吐く。横からすぐに「どうした」と言って本人が出てくるんじゃないか、と思いながら。
 キスも、セックスもない。ただ漠然と付き合っていた。けれどそれだけで居心地が良くて、それは同時にあいつへの束縛にもなるんじゃないかと感じていた。
 穂刈の隣に別の人間を思い浮かべる。ボーダー関係者でもなんでもない、見知らぬ存在。きっと穂刈は俺に紹介する。一緒に人生を歩むんだとあいつは笑う。笑う穂刈を、まえまでは想像ができた。だから「親に女性を紹介された」と言って穂刈の家を出たとき、俺の肩の荷はストンと降りた。はずだった。
 通話ボタンをタップした、連絡先は両親。電話をかけるとき、俺はスマホを持ちながら、ぶるぶると震える手を抑えられず、床にスマホを落としてしまった。角が欠け、画面はひび割れ、『もしもし? もしもし?』と母親の声だけが聞こえる。その声にやっと我に帰り、
「ごめん、やっぱり俺は、一緒にいるならあいつがいいから」
 とのたまった。母親の疑問も聞かず、俺は玄関に崩壊したスマホを置き去りにして、布団に潜りこむ。冷たい布団は、ちっとも体を温めない。闇夜がずっしりと俺を覆う。重くて、苦しくて、俺は穂刈のことを、肩の荷が降りたと思い込みたいだけなのだと知った。
 それきり連絡を途絶えさせた俺を見かねて、親はある日ボーダー本部へ行く直前の俺を訪ねてくる。もうすぐ冬が終わるというのに、寒い風がマンションの廊下を撫でつける昼間だった。
「無理言ってごめんなさい。ただ、心配だったのよ」
 俺はやっとまっすぐな親心を痛いほど感じた。静かに泣く親の背中を撫でる。俺よりもはるかに小さい母親の背中を、責める気にはなれない。「もういいよ」と言うと、今度こそ俺の体は、憑き物が落ちたように軽くなった。
 そしてとうとう昨日、少しまえに買い替えた新しいスマホから連絡をする。
「今日、夜空いてるか?」
 新しく自隊を組んで演習に任務にいそしんでいるであろう穂刈は、
『空いてる、何時だ?』
 と変わらない返事をよこした。
 近況報告をし合いながら、鉄板に並んだお好み焼きをいい頃合いでひっくり返すのを眺めるころには、もうビールジョッキは五杯以上並んでいた(本当はかげうらに行きたかったが、痴話喧嘩ならよそでやれって言われた)。焦げ色のついたお好み焼きをぼんやり眺めながら、
「ほかり、」
 と酒で満ちた頭で呼びかける。それをあいつはお好み焼きがまだできないことへの不満だと捉えて、
「もうすぐできるぞ、こっちとこっちは」
 十八のときと同じように、待てをかける。
「違う。穂刈、お前なんでそんなに落ち着いてんだよ」
 別れようって言ったくせにこうやって呼びつけられて、驚いたり、困ったり、もっと嫌そうにしていいんだぜ。振った俺がなんも言わずに焼かせてんのだって、嫌だろ?
 俺は穂刈に罵られたかったのか、今となってはわからない。酒が入っていたから、ベラベラと支離滅裂なことを散々口にした。俺から振って俺から連絡をしてなかったのに、お好み焼きを焼く手順もかける調味料も、俺好みに仕上げてくれる。あまりに淡々としているから、ジョッキをテーブルに強い力で置き、「俺のことを殴れ」とかも言った気がする。「殴るのは無理だ、オレが捕まる」とか言いながら、穂刈は、
「驚いたし、困った。でも嫌じゃない、荒船のことは」
 と告げる。
……そうかよ」
「別れようとも言われていないな、あとは。紹介されたと言われただけだ、女性を」
「紹介を断らないでフラフラそっちに行っちまったことを怒るとかは、」
「ないな。むしろ、荒船らしいと思った、親の願いをまずは聞いて試してみるところとか」
「なんだよ、それ……ちくしょう、俺が絶対お前んとこに戻ってくるみてえな顔しやがって」
「どんな顔だ、それは」
 俺は拍子抜けして、そういえば、と穂刈の家を思い出した。
 ライトに頭をぶつけても、「痛っ」と言うくせにあんまり痛そうにしていない。洗面台で窮屈そうに鏡を見ていても、鼻歌を歌っている。エアコンの風がちゃんと部屋に行き渡っているか確認をするのも、慣れた手つきだった。
 困ることがあっても、嫌うことなくそれぞれと付き合っていた。
「穂刈ん家、行きてえ」
 だからもう一度、ああやって家の中で、機械や道具を労りながらちまちま動いている穂刈が、急に見たくなった。
 ……家に着けば、暗がりの玄関で明かりもつけないうちに俺からキスをした。映画なら、ちゃんとうまく舌が絡んだり、歯なんてぶつけないんだろう。でも血が出るかと思うほどがっちりぶつけた俺たちは、しばらくその場でうずくまる。涙目の俺に近づいて、今度は穂刈がキスをした。
 ここへ来る途中、コンビニでガムを買って噛んでおいて良かった、とつい考える。しかし穂刈は、辛めの強いミントを感じて、口を離して鼻にシワを寄せる。俺は思わず声を上げて笑った。穂刈からは甘い味がしたから、こんななりであいかわらず生やさしいフレーバーのガム選んでんだな、とわかった。
 何度も言うが、映画なら、きっとこの後のセックスだって体同士が吸い付くように触れ合えて、気持ちが良くて、何度もお互い名前を呼ぶんだろう。
 俺たちだって名前までは呼べたが、やっぱりなんともお粗末で、
「荒船。無理すんな」
「うっせえな、お前が、っ動かねえから!」
「できるわけねーだろ、痛がってんのに」
 シングルロングの狭いベッドがセックスの激しさじゃなく、ギャアギャアわめく大人の体重でギシギシと鳴る。だって、ちょっとだけ抱く手つきが慣れているような、そんな気がしてムカついちまったんだ。
 ひどい男だ、俺は。俺の都合で別れを告げて、俺の都合で振り回して。酒で酔ってじゃないと本当はもっとお前と繋がりたかったんだと態度で表せず。
「ほか、り、嫌になれねえの、なんでだよ」
 んー……と腹のあたりで声がする。言葉を選んでいるのか、腹を舐めるのに夢中なのか。
 しばらくの沈黙ののち、こっちを見ないで穂刈が告げる。
「愛着が湧いてくるだろ、少し手間がかかる方が」
 手間って。俺は呆れて詰めていた息を吐いた。腹筋の力を抜くと、途端に穂刈が舐める舌をくすぐったく感じる。まるで手入れをするみたいにしつこくするから、お返しに崩れた髪型を上からぐしゃぐしゃにしてやった。
「それなら俺はどうなんだよ」
 俺はこいつの家の中にある道具みたいに、お前に従順にはできない。少しどころじゃなく、さんざん手間をかける。
 穂刈はやっとこっちを見て、髪も直さず口の端を上げて笑った。
「湧いたな、十八のときからずっと」
 そしてこいつは、笑っているはずなのに寂しそうにしていた。それは見たことのない顔だった。鳴きも吠えもせず、ずっとずっと傷を隠して堪えているような。
 俺は驚いた猫みたいに目を丸くして、次いで後ろめたくなり、本当に小さい声で、
……悪かった」
 と呟く。「おう」と穂刈はまた元の無表情に戻ると、結局セックスなんて無理で、抱き合うことしかできなかった狭いベッドの中で、俺に布団をかける。
「だからもう行くな、どこにも」
……わかってる」
 ちっとも素直に謝れなかった俺を、穂刈も理解していて、なにも言わずに甘やかす。

 翌朝である今、布団と穂刈の体温で久しぶりにぐっすり眠った俺は、ちまちました穂刈の動きをベッドの中から見ている。エアコンを操作し終えて、初めて俺の視線に気づいた穂刈がもうすぐここへ入ってくる。
 大の大人が二人でシングルに寝るのはやっぱり狭すぎるから、セミダブルかダブルに買い換えろって言ったらいいか。それなら、部屋を丸ごと引っ越しちまった方がいいかもしれない。でもそうなると、穂刈がこうして狭い家と古びた道具たちを、気にかけて動くことはなくなるのか。
 俺はまるでそれが自分のことのように、寂しく思っている。だからこの家の空気を目一杯肺に入れた。部屋の窓なんてどこも開いていないのに、日差しを含んだ初春の匂いがした。