宮治の初めて

治の色んな初めてを知りたかった北さんと、実は密かに大事な初めてを二つ捧げた治の話。餅にまつわる二人。
大人になって付き合って、家も一緒になった場合の二人です。
治に彼女がいた描写があり、しかし未経験という捏造があります。

 俺、専門行って自炊も始めたころ、餅の焼き加減ひとつ知らなくて。オカンになんとなくは聞いてたのに知ったかぶりしてトースターで焼いとったんですけど。
 いつ焼けるんやろ、いつ焼けるんやろ、ってトースターが熱で赤くなるたびに見てて、膨らんできた餅見て「もうええやろ」って取り出したら中の方はまだ固かったり……ただの四角い切り餅やなくて、丸いでっかいやつだったりすると、中まで全然あったまってないんですね、あれ。
 中途半端に固い餅を、砂糖多めについてしまった醤油につけて食いました。「これに海苔あれば良かったなあ」とか、「やっぱ甘すぎや、砂糖のかたまり潰さんと適当に入れたからや」とか後悔ばっかで初めての餅焼きを終えたんですけど。
 今みたいに網買って、均等に焼けんのがわかりやすいからってコンロで焼くようになったり、作り慣れた砂糖醤油と、忘れずに海苔も用意したりすんのは、全部その失敗があったからやなって思います。
 ちゃんと人の話聞いて、餅の焼き方くらい検索したらええんですけど……自分でとりあえず体験して、体に「覚えたか?」って叩き込まんとな、とそんときは思っとったんです。これから調理の道歩いていくのに、知識だけで頭でっかちになんのもあかんし。
 ……あ、これですか? よおわかりましたね。火傷。もうだいぶまえですけど、この網の角で。
 そんときですか? …………えーと、まだ付きうてませんよ。網だって、一緒に家決めるまえにもううてたでしょ? それまではトースターでどうにかして上手く焼きたいってねばってました。
 餅の回数……は、増えた、増えましたね。トースターのときより、網買ってからの方が増えました。え? いやそりゃそうですよ、去年北さんとこでもち米出してみてんって言われたら、自分でも食いたいし店でもどうにか出せへんかって、そりゃあ練習しまくりました。北さんも、知ってはるでしょ。あんときの俺。
 餅つきですか? 餅つきはバイトの子らに手伝ってもらいました。初めて臼と杵使って。結構にぎやかにやれましたよ。今どき親戚の家でもやらんから楽しいって。もうその餅も残りわずかですわ。
 ──北さん、今日めっちゃ質問しはりますね。
 ……俺の初めて、見ときたかった。ですか?
 すんません。そう、なんすか。でもほんと、毎回初めてなんかやろうとするとき、北さんとタイミングが合わんくて……いやいや、俺の初めてなんて失敗しまくりやし、そんな大それたもんやないし……あ、餅、焼けましたよ。え? 照れてないです、焼けたから皿取りに行くだけ。照れてないですってば──ああはい、白状すればいいんでしょ。照れてます、恥ずかしいですよ。嬉しいし。
 でも俺、北さんに人生最大の初めて、二つも渡しましたよ。ん? 最大やから二つはおかしいて? いいんです、宮治の最大は二つあるんです。


 治が専門学校に行ったとき、まだ北とは付き合えていなくて、フラフラと人間関係に対して希薄な生活をしていた。バレー部のみんなと学校で知り合った近しい人間数人とつながりがあれば、治の世界は完璧であった。
 専門に入り、治が実家に帰るのが難しいことから一人暮らしを決める。当時治には、今となっては顔もうろ覚えの彼女がいた。そのとき実家から届いていたもらいものの餅を焼いて、二人で食べた。トースターのまえでじっくり餅と向き合う姿を呆れて眺めていた彼女からは、夜にセックスをしようと誘われていた。
 治は、第二次性徴期から、セックスに微塵も興味がなかった。性欲はあるし、AVも見る。雑誌や動画を見ることもある。けれどそれだけ。人に対して湧き立つ欲求はこれっぽっちもない。あるのは食に対しての果てしない探究心だけ。
 いよいよ自分は変態なのでは、と恐れ、彼女の誘いを受けてみた。けれどベッドの中で待つ彼女に対し、食指はちっとも動かない。ブラジャーに手をかけたところで、そのレースの繊細さときれいな青色にめまいを覚えた。
 昼間に焼いた餅を思い出す。彼女は失敗したそれを、「食べられなくはないよ」と美味しそうに食べていた。
 そういうとき、治は嬉しいと感じるのに。誰かに食べさせている状況を、幸せだと感じるのに。このレースにも、なだらかな曲線にも、豊満な胸にも、一筋もピンとこない自分の下半身に驚き、ため息をついた。彼女はわかっていたかのように、そっと治の家から出ていった。最後にぽつりと「ごめん」と言うと、「いいよ」と言ってくれた。
 そこからは、少し晴れやかな気持ちになれた。もう俺は、調理一本で歩いていく。治の頭は吹っ切れて、脇目もふらずに邁進した。あいかわらずトースターで焦げ目を作る餅を正月まえにたらふく食べながら、いつも明日あすの実習の用意に追われていた。
 そんな折、ふと北と再会した。米農家が順調と聞き、そのあかぎれの増えた手を見て、治はもう一度、自分を変態かと思った──その働き者の手を、掴みたいと思ったのだ。
 今思えば。高校のころより北は気高く、凛とした横顔であった。治がはっと息を飲むこともある。そして今、やりたいことに突き進む彼の姿は、笑顔も増えてまぶしかった。治は、とうとう初めて恋をした。宮治の一つ目の初めてである。
 餅を焼く網を買い、うつくしく均等にそろった網目に餅を置く。網の形に焦げ目がつく。この方がトースターより自分の目できちんと確認ができてええな、と満足すると、ふとそれを美味しそうに食べる北のことを思った。ああ、いいな。となんとはなしに治は惚ける。
(ああ、いいな。あの人が幸せそうに食べんのは)
 気がつけば、自分の腕は金属にしっかり触れていて手酷い火傷を負い、流水の中でじくじくと痛む腕を見つめながら、それでも治は恋をしていた。
 店をかまえ、北の米を使い始め、己の恋心の主は常に裏口から軽トラックに乗ってやってくる。見つめているだけでじゅうぶん、だなんてシャイすぎる男子中学生のような恋を抱えながらも、北と話をするわずかな時間を愛しんだ。
「治、もち米使う機会はあるか?」
「もち米、ですか?」
「そうや、結構粘りのあるやつやからええなと思って、まえから作付さくつけ面積増やしてん」
 表情は変わらないまでも活き活きとした声のトーンでわかる。治はすぐに是を唱え、レシピを考案した。その夜から、自宅のキッチンは明かりが灯りっぱなしになる。
 小さなアパートの、キッチンのそばにある窓が明るくなるのを何度か見送ったある日、北が家を訪ねてきた。治の手元にはボールペンと、ぐちゃぐちゃにした紙、食材の切れ端とまな板、包丁。ここに鍋と網がなかったら、なにをお前は殺したのかと問い詰められても仕方のない表情で、治は北を出迎えた。
「ちゃんと寝え」
 店には休まず出ていた。客からもなにも言われるようなひどいサービスはしていない。ただ、新しいレシピを作るために、あまり眠れない夜を過ごしたというだけ──北曰く、「あまりやのうて、全然や」といまだにじっとりとした目で見られる。
「好きやから、期待に応えたかったんです」
 布団へ無理やり連れていかれる寸前に、うつろな意識の中で告白した。敷き布団に沈められ、農家の腕力をバカにしてはならないと思い知った夜だった。
 翌朝、久しぶりにすっきりとよく冴えた目が見たのは、朝食を作る北の姿だった。片付いた台所、そろった箸と茶碗、二つずつ。いつまでもこんな夢みたいなの続いたらええのに、と願っていたら、
「一緒に住もか」
 と言われてあっさり叶った。
 いまだにどうして、北が自分を好きでいてくれたのかはわからない。もしかしたら今は現実世界の自分ではなくて、あの告白をして寝てしまったときから、とんでもない次元に引き込まれたのでは、と粒だったきれいな白米とみそ汁の朝食を目の前にして思う。
「そんなん、好きになんのに理由がいんのか」
 と大層男前な彼氏を迎えた治は、その二週間後にあんなに捨てられないのではと覚悟していた童貞を捧げた。これが宮治の、二つ目の初めてだった。

 以上のような背景を、治は北に言っていない。今さらとも思うし、格好のつかないことである、とわかっている。一緒に暮らすこの家のダイニングで、焼けた餅を皿にのせながら、意気揚々と北のまえにそっと置いた。北の変わらない表情の中で、瞳だけが少し大きく開く。腹減ってたんやろうな、とわかると、冷蔵庫に眠っているあれもこれもを並べよう、とつい勢いよく立ち上がる。
 美味しそうに食べ始める北を確認しながら、治はつくづく思う。
 ああ、いいな。あの人が幸せそうに食べんのは。