十八本分の日々を

スの石化復活後~月へ行くまでの間、スのクソデカ感情に応えるために少しずつもう一度スに恋するゼの話です。スはスでまたゼを改めて大事にできてハッピーだし、月という遠い場所に行く前に、愛し合えてよかったね。という感じ。

 部屋の扉を開けると、スタンが立っていた。ただそれだけなのに。


「す、すまない、邪魔をした……!」

 驚いた顔をしたスタンを含む幾人かがこちらを見ていたのが、視界の端で確認できた。バタンと大げさに閉じた扉が忌々しい。そんなに派手な音をたてて、自分が無理やり世界をシャットアウトした、とわからせてこなくてもいいじゃないか。

(これじゃ、まるで逃げているようだ)

 やわらかい布地でできた床を歩く。カーペットなんていう贅沢品はまだないから、僕らが歩く床はいつもむき出しの木目かせいぜい麻と綿の織物の上だ。土や草の上に固めの土台を敷き、そこに木の板を張る。さらに織物のある場所は、人々が着替えをしたり、食事を取ったり、生活をしやすいように作られた場所だ。

 だから、スタンがさっき数名の男性たちと一緒に鍛錬後の着替えをしていることは、なんら不思議ではない。当たり前の光景だ。

 そして僕も、先ほどの実験で疲弊し、汗をかいたシャツを取り替えようとそこに入ることもまた、当然の権利があるのだ。

(でも……)

 よりによって、スタンは一番手前にいた。ドアのすぐ近くだ。言葉は少なかったが、たしかに数人と片言の日本語で話していた。上半身は裸で、ゴソゴソと上着からタバコを探しながら。その横顔は少しあどけなくて、気を許しているようだった。張り詰めて息をしていた軍人時代の中でも、こういう時間は束の間の安らぎであったんだろうか。

 海兵隊はとても厳しい。おしゃべりをする時間まで限定されていて、ほんのわずかだったそうだ。だからこそ、そのくせが抜けないスタンの話が聞けるのは、みんなにとっても貴重だろう。ここでしかスタンと喋れないのであれば、ここぞとばかりにいろいろ聞きたくなるのは誰もが思うところで。

 そこにやってきた僕は、小さな、ほんの小さな沈黙を彼らに生んでしまった。

 別になにも悪いことではない。誰かが入ってきて数秒沈黙が生まれるなんていう出来事は、どこの空間、どこのロッカールームでもごく普通にある。でも僕はとっさに、「いけない」と思ってしまった。

 なにがって、自分の対応がだ──部屋に入った瞬間、僕はスタンの裸に目を奪われてしまった。

(見慣れているはずだったろう、ゼノ。どうして僕は息を飲んでしまったんだ)

 彼の体は、飽きるほど見たことがあるはずだ。小さいころから、大きくなるまで。そして僕を抱きしめてベッドで横になっていたことだってある。喘ぐ自分を包んで、やさしく丁寧にセックスをされたことも。

 次いで、部屋の中の鍛錬後の彼らの会話とリラックスしたムードが、情報としてあとから僕に入り込んでくる。

 まえまでの僕なら、スタンの裸を見ようとなんだろうと、その中に堂々と入っていけた。「おおスタン、君たちも。ずいぶん汗を流したんだな」と軽口を言い、彼らも笑って受け入れて、スタンもタバコをつけながら「あんたもたまには体動かしたらどう?」とでも言ってくるだろう。

(できない)

 僕はぎゅっと唇を噛んだ。続けて目を閉じる。廊下の片隅で、まだ明るい昼間だというのに僕の世界は真っ黒になった。

(できない、なぜだ)

 心臓が跳ね馬のようにとんでいる。視覚を塞いだせいで、みょうにそれははっきり聞こえた。そしてだんだん痛くなる。苦しくなる。スタンのことを思うと、最近いつもこれだ。

(誰だ、この痛みを甘いとか言ったやつは。全然違う、これは甘いんじゃない、確実に心臓が潰れている!)

 僕は理不尽な怒りを抱えながら、あるはずのないことをぶつくさ言って、その場を離れた。


 ──僕は、これが恋であると知っている。さまざまな文献を読んで、統合的に判断し、そう結論づけた。小説にも映画にも、登場人物が恋をしたとき、胸を抑えて立ち止まるワンシーンが織り込まれていることは多々あるものだ。

 スタンからの莫大な愛を知り、その彼にこれまで以上の感情を抱いた。

 そう、わかっている。これが恋だとは。
 でもだからって、今なのか。

 これからスタンが、月に行ってしまう今なのか。



 ◇



 星がよく見える夜になった、その中に月も煌々と照っている。あの遠く離れた惑星が「これから向かう先なのだよ」と言われて、3700年以上まえに果たして何人が受け入れただろう。

 僕のようにNASAに勤めている者でなければ、「宇宙飛行士でもないのに」と嘲笑って終わっていただろう話は、今や身近で現実のものになりつつある。

 コンコンとノックされたドアに、顔を向けずに「どうぞ」と告げた。こんな夜に僕の部屋を訪れるのは、決まって一人──スタンしかいない。
「ゼノ、まだ寝てねえの」

 顔を背けたまま、うなずいた。

「夜食は? 手ぇつけてねえじゃん」

「いらないんだ、喉を通っていかなくてね」

 すっかり冷めているスープと、赤みを帯びてしまったフルーツがのった皿は、たしかゲンが置いていってくれた。やることがひと段落したらしい彼は、疲弊しているのにそれを見せないようにカラカラと快活な声で、夜食を届けにきた。

 ──美容にいいんだって、この料理。

 そんな情報を付け加えながら。

「そういや千空が、電子レンジ作ったっつってたな。あっため直してくっか?」

 彼の口から自然と千空の名前が出たことに、ちょっと驚く。そのせいでつい体を彼の方に向けてしまった。

……どうしても僕にそれを食べさせたいみたいだね、スタン」

「最近のあんた、ほんとに食ってねえかんね」

 心配で、と言うわりに、スタンはとくに表情筋を引き締めず、ゆるやかにほほえんでいる。そのまま彼は壁に体をあずけて、腕を組んだ。タートルネック越しにわかる胸筋に目がいきそうになって、咳払いをする。

「それなら僕が自分で行くよ。君にわざわざご足労いただくまでもない」

 わざと大股に歩いて、食事ののったトレーを持ち上げようとする。その手首を、スタンに捕まえられた。

「……ッスタン……離してくれ」

 決して痛くはない。スタンが僕に傷をつけることなど、万に一つもありえないから。ただ、眉を潜めるにはじゅうぶんな力だった。僕はようやく真正面からきちんとスタンと向き合うと、さっきまでの笑みは漂うほどにしか残っていなくて、細めた瞳の内から、しっとりと僕を見ている。

「……スタン?」

 タバコを吸っていない艶めいた唇から、

「ゼノ、」

 と僕の名前が出てくる。

「気まずいなら、無理しなくていい」

 普段のスタンなら軽い調子で話すのに、その言葉はフレーズ一語一語をたしかめるように、ゆっくり省かずに綴られる。幼いころ、教師に習ってアルファベットをなぞったときみたいに。

「無理なら言って。俺が押しつけすぎてるだけだし」

 それはまるで、僕に刻みつけたいんじゃなく、おそらくスタン自身に言い聞かせているような。

 ──僕は驚いて、目を見開いた。そして、しまった、と悟った。言ってはいけないことを、スタンに言わせている。

「そんなこと、」

「ない、って言い切れんの?」

 僕はこんなときに、肝心の頭が回らなくて、視線を泳がせてしまう。

(そうじゃない、そうじゃないんだスタン)

 僕にとって、言いたいことがまとまらずうまく発言できない、なんていうのは、どんな学会や発表の場においてもなかった。今までさんざん展開してきた科学理論と、習ったことのない感情の整理は違う。当たり前だ。でも今は、たとえ支離滅裂でも彼に話をしたかった。

 けれど。

 スタンはパッと僕の手首を話して、食事のトレーを、給仕のようにわざとうやうやしく持ち上げる。

「まあびっくりしたよな。急に腐れ縁の俺が、あんたが科学を進めるためにってずっと考えてたんがわかって。世界よりあんたを選んだなんて、重てえのもわかんよ」

 食事を置きにきたゲンほどではないにしろ、それでもカラリと笑って、スタンはドアを開ける。

「キッチンまで行ってくる。他にいるもんは?」

 振り返ればもう、いつものスタンだった。明るい目の色をライトの下でキラキラと輝かせて、長いまつ毛を揺らしている。僕がたっぷり時間をかけて、ようやく「……ないよ」と発すると、彼は片手を振って部屋から出ていった。


 僕は腰の力が抜けてしまう。脱力したまま椅子に座ると、頭を抱えた。

(傷つけた)

 ワンフレーズ、たったそれだけ。僕の体中をぐるぐる巡る。彼は決して僕を傷つけないのに、僕は彼を傷つけた。

 気まずいんじゃない、君の気持ちが押しつけがましいだなんて、微塵も思っていない。むしろそれは逆で、僕は君のことを。

 僕はデスクの引き出しをそっと開ける。入っているのは何枚ものうすいペーパー、片手に収まるサイズのローラー、そこにセットされている僕の意匠の入った紙、そして細かく刻まれた葉の入った袋。スタンがまだ石化しているころ、南米で遊びのように作った手巻きタバコの道具。

 これを見ると、自分で作ったものなのにどうしてかスタンを思い出せて、少し力が湧いた。名残を惜しんで結局日本にもこれを持ってきたが、結果的に持ってきて正解だった。スタンは復活して早々に、新鮮な空気と同時にこの煙を肺に入れることができたのだから。

 今、スタンは現実にいる。生身の体で、僕のことを見つめてくれる。もうこんな道具に頼らなくても、本人は惜しみなく僕に愛をくれるのに。

(逃げるな、ゼノ)

 のろのろと、ローラーの溝にフィルターをセットする。葉も横に詰め込んで、二周ほどローラーを回した。うすいペーパーを一枚取り出して、さらに巻き込み、最後に切手を貼るのと同じように舌で先端を舐め、ペーパーをくっつける。取り出すと、「XENO」と書かれた文字がきれいに横向きに表示される。これはスタンに渡したタバコと少し違う趣向をこらしたくて、わざわざこだわってみた──月の上でも、僕がついていると思い出してもらえるように。

 僕の指がつかむきれいな細い円柱状のタバコが、ライトに照らされている。引き出しの中で出番を待っているシガレットケースに一つ、それを放った。残りはあと十七本入る。月へ行くまでにケースの中を埋めるつもりだ。僕の、無事を祈る気持ちとともに。

 おもちゃのように道具を両手で扱いながら、ふたたび心臓がぎゅっと潰れそうなほどきしむ。

(僕は、ちゃんと伝えられる)

 どんなに物に命を吹き込んでも、伝えなければ始まらない。きしんだままの心臓を上から手で押さえた。服にシワができるほど掴んでも、自身の心臓にじかに触れられるわけじゃない。けれど深呼吸をして背筋を伸ばせば、やがて気持ちは落ち着いて、上を向くことができる。

 窓に映る月が見ている。今僕の瞳を覗けば、きっとその光は反射しているだろう。まもなく聞こえてくる足音に、僕は道具をしまってゆっくり振り返り、ドアを見た。ドアノブが下がり、ガチャリと音をたてて扉が開く。

 部屋に入ってくる、本物のタバコの匂い。そして後から湯気のたったスープの香りが漂った。

「あっためてきた、ここ置いとく?」

 にこやかにそう言うスタンに、僕はこくりとうなずいた。僕がとりあえず食事を取ることにした、という事実に満足そうなスタンは、テーブルの隅にトレーを置いた。

 その袖を、今度は僕が力を込めて捕まえる。

…………? ゼノ、どうしたんよ」

「聞いてほしいことがあるんだ」

 言えた。そしてきちんと、彼の顔が見ることができた。スタンの秀麗な顔、うつくしくなめらかな頬、夜になびくきれいな髪、それらにひとつも屈しなかった。数分前までの僕は、どれひとつにも勝てずに目を背けていたのに。勇気とは、おそろしい。

「言い終わったら、ちゃんと食べるから」

 食事を温めてきてくれた彼への配慮もきちんと告げる。スタンはプッと吹き出して、「食えなかったら、俺が食ってやっから」と甘やかしてきた。僕は彼の笑顔に頭の裏側が沸騰しそうになるが、グッと堪えて自分を奮い立たせる。

「スタン、さっきは本当にすまない。君を傷つけた」

 彼が僕にしたように、僕もはっきりわかるように、丁寧に発音する。心を込めて。自分の非を言い出すのは、苦しいものだ。声がややしぼみそうになる。それでも、スタンは黙って聞いてくれた。

 僕がスタンの愛の上で、いい気になっていたこと。キスやセックスも、君からはとても大事にされて愛を受け取っていたというのに、半分も気づけずにいたこと。

 たしかにそれらは、僕にとって当時は恋と名のつくものだったかもしれないけれど、

「……君がくれたものの大きさに、僕は圧倒されて、そして感動してしまったんだ」

 やがて気づいたときには、君に本当に恋をしていた。

「君を起こすと言われたとき、君が目を開けて石から目覚めたとき、君がまえと変わらず、僕に笑顔を向けてくれたとき。僕の心臓は張り裂けそうだった。君の裸を見ても、興奮するとかじゃないんだ、その……直視できない。スタンってこんなにかっこよかったか? って自問自答するんだ」

 ちゃんと落ち着いて整然としゃべっていたはずなのに、だんだん崩れてくる。おお学会で堂々と僕に論破された愚者どもにこれを見られたら、そりゃあもう唖然とするだろう! 真っ赤な顔で、恋をしている男のまえで、取り繕うこともできずうろたえて。

 でも今ここで、照れてなにも言えないままではいけない。彼はもうすぐ、宇宙へとのぼるのだから。

「僕は、君が好きだよ」

 窓からまるく、大きな月が見ている。月明かりで背中がほんのりと暖かい。その暖かさをスタンに分けてあげるように、静かに僕は言った。

「出会ったころよりも、君と初めてキスをしたときよりも……今がいちばん好きだ。君を見るとドキドキするし、落ち着かない。こんなに素晴らしい君が僕を好きでいてくれていることも、夢みたいだ」

 僕は一息に言うと、ふう、と息を吐いた。肩の力が抜けて、以前よりもいくぶんか気軽にスタンのことを見られる。

「はは……言ってしまえばどうってことないのに、言い出すまでにずいぶん時間がかかった。告白がこんなに勇気がいるなんてね」

 世の中の彼彼女はすごいな、と僕がすっかり感心しきっていると、スタンは口の端を上げて笑う。

「やっと気づいたか」とも、「どんだけ待たすんだ」とも彼は言わない。普通の男なら見返りを求めたり、無遠慮にキスをしかけたりするんだろうが、スタンは違う。彼の愛は無償で、報われることなど考えていない。

 たった一言、ほほえみながら、

「……嬉しいよ、ゼノ」

 とやさしく言うだけ。

 今の僕らには、それでじゅうぶんだった。充足すぎるほどの、幸せ。

 僕は涙をごまかすように、トレーにのったスプーンに手をつける。恋をして喉を通らなかったはずの食事は、ようやく本日嚥下することができた。

 スタンは横に座っていた。体の側面が触れ合うと、少し熱い体温が伝わる。ああこれは、さっき分かち合った月明かりの温度だろうか。切り揃えてあったフルーツはさっきより多い。もともとの空気に触れすぎてしまっていた方をスタンが食べようとしていたけれど、僕はその口からそれを奪った。代わりに新しい方を差し出すと、スタンは笑って咀嚼する。僕は笑われたことに少し照れてしまって、彼からフイと顔を背けたけれど、さっきあんなに勇気を出したのだから許してほしい。
 相変わらずありったけの愛で僕を大事にしてくれるスタンに、対等に並び立つために。今日だけは。



 ◇



 翌朝、鏡を見るとどことなく肌艶がいいような気がした。ゲンがすぐに気づいて、
「昨日の夜食のおかげかもね?」

 なんてからかってくるけど、内心心配をかけていたのかもしれない。

 それ以上にこの肌は、スタンとまた改めて恋を始めたおかげなんじゃないか、とも思っている。

 内緒のシガレットケースに噛みタバコができるにつれ、僕らは恋のステップを進める。明日でタバコは三本目ができる。きっと恥ずかしがりながらも、手を繋ぐことができるだろう。五本目には、キスができるかもしれない。

(十七本目ができるころは……?)

 僕らはそのとき、やっと体を重ねる。嬉しくて、寂しくて、泣いてしまう。泣きながら何度も君の名前を呼ぶ。等身大の愛をささやき、ありのままの僕をぶつけて、君の愛はそれを包んでくれるだろう。

 僕は今度こそ背伸びをしないで、スタンにシガレットケースを渡す。

 そして君という半身が月へのぼるのを、いつまでも見守る。