イン・ザ・ホテル

学会後、酔っ払いのゼと、なんとなく面白くない気持ちを抱えたまま介抱するスの話。石化前、社会に出たてでまだ20代前半あたりです。

 僕らは肩を並べて歩いていた。夜の街は賑やかで、街灯のあかりが滲んでかすむほど、周囲のライトは夜など知らぬ顔で人々の横顔を照らす。ビル、商業施設、デパートメントの装飾。そういえば、感謝祭を終えたブラックフライデーとやらがやってきていて、クリスマス商戦で大いに賑わっている時期だ。僕はそんなことも失念していて、人に肩でぶつかりながら歩いている。

「スタン、いまだれかとぶつかってしまったよ」

「だから、こんなに飲むなっていつも言ってんじゃん」

 いらだちながら、律儀に歩く速度を合わせてくれる幼馴染は、人を一人肩で引きずっているのに器用にタバコを吸っている。僕は「はは」と力なく笑い、タバコの煙が流れてくるのを手で払う。

 長いスタンの脚に、ときどき僕の脚が絡んでぶつかる。赤い顔をしてこっちを見つめるスタンの顔は、じとっと僕を睨みつけている。痛いんだろう、僕が酒で加減を忘れて彼に体重をかけているから。

 信号を三つほど通り、四つ目の信号を越えれば本日の我が家にたどり着く。学会発表のあと、飛行機が欠航になったから慌てて取ったホテル。作りは古いが「騒がしい都会を忘れさせるような内装」だそうだ、ネットに書いてあった。おすすめ度が四ポイントとまあまあなところを見て、ボタンを押した記憶がある。

(ところで、)

 スタンはどうしてここにいるんだろう。彼は休暇で、僕は日帰りで終わる予定だったこの学会。会えない期間はわずか一日。出かけるときに、僕はそう言ったはず。そんなに僕に会いたかったんだろうか。

「あんたが呼んだんよ、もう忘れた?」

 スタンがここにいることを不思議がっていたことが、口から漏れ出てしまっていたらしい。スタンは片眉をあげて、「あきれた」と肩をすくめた。僕はすくめられた肩の上下する動きを脇あたりで感じて、首と頭が揺れる。

(そうだ、スタンに連絡して、それで)

 ポケットに入っているスマートフォンの存在を今さらながら思い出した。電源が落ちて、今はなんの通知も教えてくれない。それでいい。酒の入った身で、誰かから──とくに学会関係の人間の通話に澄まして出てやれるほど、今日の僕はお利口にはできていない。しかも、そういったやつらはあらかじめメールをしてきたあと、同じ内容を通話でも話すのだ。うざったい。何度も同じ話を聞くほど僕は暇じゃないんだ。

「さっきから声に出てんよ」

 また漏れ出ていたようだ。おお、と僕は嘆く。僕の独り言に、ではない。こんなことをスタンに聞かせてしまうほど無能な、この世の衆愚に対してだ。

「だってスタン、ひどいと思わないか? あの発表、あのスピーチ、あのくだらないおべっか!」

「そんなにひどかった?」

「ああ、最悪だ……そういうやつに限ってつまらないことを話す」

 僕はNot elegantと吐き捨てた。それは僕にとって最も時間をかけるべき要素ではないものを表す。そうわかっているスタンは、穏やかに笑った。

「あんたがそんなに言うんなら、きっととんでもねえ内容だったんだな」

 タバコをくわえながら話すから、スタンのきれいな歯並びが見えた。歯のしろさが妙に記憶に残っている。小さな八重歯は幼いころからあって、歯列矯正を彼が拒んだ理由にこの八重歯がある。
「ゼノが好きって言ってくれたから」と断ったんだと彼の母親に言われたとき、僕の母はびっくりして僕を見た。
「スタンは矯正しなくても、十分きれいな歯並びだよ」と開き直って僕が言うと、母は額に手を当ててうなだれ、スタンの母は苦笑していた。

 実際、こうして酒が飲めるほどの大人になっても、スタンの歯はうつくしく並んでいる。ちなみに僕はスタンと出会うまえに歯列矯正を済ませた。だから初めてキスをしたとき、ひそかにやってて良かったと思った。歯をなぞられたとき、ガタガタだったら嫌だからね。

 ああ、そんなことを考えていたら、

「キスがしたいよ、スタン」

「嫌なことあると、甘えグセ出んね。いーけど、ちゃんと部屋入ってから」

 僕の機嫌はそれだけでは直りそうになかったけれど、ひとまずはキスがもらえそうなことに満足した。ホテルのルームキーをもらう手続きもわずらわしく感じた。早く早く、とスタンをけしかけて、エレベーターに乗り込みボタンを押す。十五階をさした数字を確認して、ドアからいっせいに二人で出る。沈みこむようなカーペットに足を取られ、僕はぐらりと体をかたむけた。そこをスタンが支えてくれる。まるで踊るような華麗さ。

「プロム以来だね、こうやって支えられるのは」

「あのときとゼノは変わんねえな、体、軽いよ。ちゃんと食ってんの?」

「もちろんだとも」

 背中を抱かれたまま、僕はにっこり笑った。

 卒業のプロムは僕らには華やかすぎて、早々に抜け出し、スクールの暗い庭で踊った。誰かと踊るなんてごめんだ、踊りたいのはスタンとだけ。あの庭は小さくライトアップされていて、きれいだった。さっき歩いてきた道の過度な照明とは、比べ物にならない。

「卒業式のときの庭は、薄暗くて、ゼノの顔があんま見えねえのは不満だったけど」

 スタンは僕が思っていたことと反対のことを言っていた。

「そうかい? 僕としては、君の嬉しそうな顔と初めてのキスを独り占めできたと思っていたんだが」

「……あっそ」

 照れ隠しにそっけない返事。僕の手を引く力が強くなった。彼はルームキーに書かれた部屋番号を見つけて、そっちへ引っ張ってくれる。そのたびに歩くと体が沈んで、カーペットの弾力に一言文句を言ってやろうかと思うくらいだ。

 カーペットとしゃべり出す酔っ払いになるまえに、スタンが鍵を開けて僕をベッドへ放り出す。天井の照明が右に二つ左に三つ、ふむ、まぶしすぎない。次いで換気口が見えた。冷暖房もある。装飾も控えめで申し分ない。ホテルの評価ポイント四は、妥当だろう。

 その僕のうっすらとした視界に、きらびやかな男の顔が映り込んだ。この顔に、ポイントなんてつけようがない。だって彼は最高なのだから。

「スタン、部屋に着いたよ」

 僕がもったいぶって言うと、「わかってんよ」と頭をなでて、キスを額にしてくれる。あたたかい唇の感触に酔った頭はうっとりとしたが、すぐに物足りなくなる。

「ちがう、額にじゃない」

 酔っていて舌足らずな口調で言うと、スタンは肩をすくめた。

「ゼノ先生はお休みまえにちゃんと歯磨きできんだろ?」

 つまり、酒くさい、と言いたいのだろうか。いつもの君も、毒ガスくさいのに。

「……できるよ」

 重い腰をあげると、スタンはエスコートのように手を差し伸べて、洗面台まで手を引いてくれる。

 ホテルに備えつけの歯ブラシとペーストで歯を磨く。舌も忘れずになでて汚れを落とした。スタンがくれるキスのために準備をしているだなんて、少しばかり興奮する。こうしてさんざん焦らすんだ、こうなればときめくようなキスをしてもらおう。僕はチラリと鏡越しに彼を見た。彼もからかうように笑いながら、僕が終わるのを待っている。

「終わった?」

 知っているくせにわざと聞いてくる。僕はうがいまでして、つるつるになった歯を自分の舌でなでた。終わったよ、とうなずきだけ返すと、かかとを鳴らして近づくスタンを見つめる──やはり、鏡越しに。僕の心臓はひとつ高鳴り、そのぶん酔いが深くなる。

 スタンがそばにきて、背面から手を回して僕の唇に触れてくる。僕は正面を向いたまま、背後のスタンに体をあずけた。わずかなタバコの匂いと、嗅ぎ慣れない香水の匂いがする。香水とタバコなんて、往々にして相性が良くないものが多いはずなのに、僕の頭は酒で回路を飛ばしているのか、それはどこかとてもよく合って、スタンそのものを表しているようだった。

「スタン、君、香水なんて」──そう言おうとしたが、舌が回らない。スタンの人差し指が僕の前歯を軽くなぞり、上唇の形をたしかめるように移動する。

 くすぐったさはのちに快感につながる。それは以前、首筋や足で経験済みだ。ゆっくり行き来する指が手首についたフレグランスを濃く、うすく、かぐわしくさせて、僕の鼻を刺激する。
 鏡の前に立つ僕は、まるでセックスのまえのように、火照ってうるんだ顔をしている。媚薬を嗅いだわけでも、直接性器を触れられたわけでもない。ただ、酒を飲み、歯と唇に触れられているだけ。

(キス、を、)

 してほしい、とかすれた声で言うまえに、スタンはようやく僕のあごをつかんで自分に向けた。

 ときめくようなキスを待っていた唇に、吸い付くように重なったスタンの唇。そこから、指で焦らされていた分の感度が増して伝わってきた。背筋に痺れがはしる。指先がピンと突っ張る。

「ん……ふぅ……

 声も漏らさぬよう、塞がれたキスは、スタンというけものに頭から食われているようだ。うっすら目を開けると、彼が長いまつ毛の奥に、冬の海のような色をたたえて、こっちを見つめている。

 その不安そうな瞳は、今日の僕のすべてを、余すところなく見たがっている。



 ◇



 ──そこから、僕は記憶がない。酸欠になるほどの深いキスを味わい、舌の感触を覚え、気がつけば朝になりベッドの上にいた。セミダブルのベッドの脇に置かれたソファに、窮屈そうに眠っているスタンを見つける。僕の服は全部ハンガーにかかっていて、ホテルのパジャマを着ていた。髪は昨日のセットのままで、きしんでいるからシャワーに入らなければいけない。

 ふと、スタンの鞄が見えた。小さいが、香水の瓶が入っている。僕を迎えにくるまえに買ったのか、購入先のレシートと袋が投げやりに鞄の中で放られていた。あえてこれを買い、香りをつけてから僕に会いにきた、とわかるが、どうしてなんだろう。彼は、普段香水なんかつけない。

(珍しいこともあるものだ)

 瓶からは、かすかにあの香りがした。なぜか少し物足りない。スタンの体臭、タバコの匂い、それがあって初めて、この香水は完成するような、そんな気がした。僕は鞄に瓶をしまい、スタンの方へ歩み寄る。

 ああ、この匂いだ。

 スタンが背を丸め、横向きに眠っている。その頬にキスをすれば、首元から求めていた香りがした。嬉しくて、猫のようにぐいぐいと顔をうずめると、さすがのスタンも起きてきた。

「……ゼノ? ……何やってんよ」

「君の匂いを嗅いでいた」

「変態? 俺、昨日あんた寝かせてそのまんまだから、汗くせえよ」

「あまりわからないな。君が珍しくつけていた香水のおかげか」

……あー、あれ、ね」

 大きく伸びをして、スタンは首を鳴らした。どうやらずいぶん寝心地が悪かったようで、ソファに座って脚を前へ投げ出している。

「どうして買ったんだい?」

 そう質問して、すぐに思い直す。彼の行動ひとつひとつに僕が知る必要はないはずだ。束縛の強い人間のようなセリフだったな、と問いを取り消そうとすれば、

……あんたの周りに、負けたくねえから」

 僕は、耳まで赤いスタンの様子をまじまじと眺めた。穴が開くほど。

「学会のあと、必ずパーティーすんじゃん? まえにゼノが帰ってきたとき……知らねえ誰かの香水の匂いだった。それが嫌」

 スタンはこういうとき、存外素直に述べてくれる。隠すことだってできるのに、心の内を気恥ずかしそうに明かす。

「それで来る途中に、思い出して買ったのかい?」

「……そ。ガキくさいって思ってんだろ」

 だからか。

 キスをねだってもはぐらかしたり、いたずらに焦れさせたり。かと思えば、不安げに瞳を揺らす。

 僕のことなんてすみずみまで知っているのに、まだやきもちを焼いてくれるなんて。僕に漂う香りにすら。

「スタン、こっちを向いて」

「やだね」

「スタン」

「いやだ」

「ふうん、そうか困ったな……一緒にシャワーを浴びようかと思ったんだが」

 彼がもし狼だったら(スタンがもしもけものなら、狼か山猫が似合うと常日頃僕は思っている)、その言葉で耳がピンと立ち、こっちを向いているんだろう。僕は彼の背中にのしかかり、さらに呟く。

「君におあずけをさせてしまったようだね、僕ってやつは」

「んなの……酔ってたんだから、しかたねえじゃん」

「キスだけで寝てしまったどうしようもない僕と、一緒にシャワーに入ってくれる?」

……断るはずねえのに、あえて聞く?」

 僕は喉からくくっと悪く笑った。スタンはまだあっちを向いたままだ。

 そうだなあ、と僕は悠長な声を出した。

「バスルームできっと僕らは長居してしまうだろうから、朝食はホテルのを取らずに外でブランチにしよう。君の香水は僕にも似合うかな、お揃いでつけるのは楽しそうだ」

 ようやく顔だけを器用にこちらに向けて、スタンは楽しそうな顔で僕を見る。もうその瞳は不安の色をしていない。そのことに安堵して、僕は彼から体を離した。

「ここのホテルのバスタオルは、やわらかいといいのだが」

「なんで?」

 ソファのスプリングが、大げさに跳ねた音がする。僕はうしろに目がついているわけじゃないからわからないが、たぶんスタンが勢いをつけて降りた音だ。

「肌が乾燥しやすいから、やわらかい方がありがたいんだよ。傷がつかなくて」

(君に抱かれたあとの肌のまま、デートをしたいんだ、愛されたんだと見せびらかしてやりたくて)

 本音を隠した言葉で濁すが、しかしスタンには伝わっている。またほんのり顔を赤らめて、頭をかいているから。

 裸足の裏に、マットの感触が心地いい。僕の足がついとスタンのつま先に触れる。爪で軽く彼の足の甲をなぞって、急に方向を変えてバスルームへ裸足は走り出した。スタンの足はしばらく呆然としていたが、やがて僕を追いかけてゆっくり歩き、バスルームのドアが閉まる。マットに当たるライトは、二人分のシルエットを映している。それはやがて一つの影になった。