冬に来た春

鈴なりメンバーが揃ってしばらく経ったころで、村→来(実は村←来でもある)になるお話です。ちょうど荒船くんに師事し始めた時(1〜2月)くらいのイメージ。時系列調べて書いたのですが、間違っていたらすみません。

 来馬先輩が立ち止まるとき、たいていそこには小さな魚が泳いでいる。
 いろいろな場所がある。カフェの窓際、どこかのショップの飾りとして置かれた水槽、レストランの中に天井まで届くような大きなアクアリウムの中。そして、水族館の大きな魚を展示している場所よりも、誰もが通り過ぎてしまいそうな小さなコーナーまで。
 そういうときは、先輩の澄んだ目に映る泳ぐ魚群が、安らかにゆったり動いている。魚たちの細かいヒレが太陽や蛍光灯を反射して、チカチカする。湖面に太陽がきらめくように、粒だった光が先輩の目を、頬を、鼻筋あたりを輝かせる。俺は先輩の横顔を眺めながら、いつもその光を目で追った。
(俺の目には、きっとああは映らないだろうな)
 自分の瞳の色素はずいぶんと濃くて、瞳孔の開きさえも見えづらい。肌の色も、先輩よりは色があってよく日焼けをしやすい。色素の薄い先輩だからこそ、魚が映り込むのも光を反射するのもできてしまうんだな、と考えながら、俺は見つめていた顔を逸らした。もうそろそろ、この人が気を使ってこっちを向くから。
「わ、ごめん、村上くん。見すぎちゃったね」
 急ぐ用事があるわけでもないのに、丁寧に謝罪をしてくる。つい自分が魚に夢中になっていたことを恥ずかしく思ったのかもしれない。俺は「いえ、」とぎこちない笑顔を作った。
「本当にお好きなんだな、と思って」
「はは、小さいころからなんだ……両親がなかなか水槽から離れなくて困ったってさ」
 品良く控えめに言うと、先輩は買い物をしたあとでずっしり重いはずのエコバッグを難なく持ち上げた。「筋トレ代わりだから」と言って俺が持つことを許さなかったこの人は、今のところ息も切らさず順調に鈴鳴支部までの坂道を歩いている。
「僕の家にもアクアリウムはあるんだけど、人によって装飾の入れ方とか、ライトを入れたりだとか、違いが出るのも見ていて楽しいんだよ」
 俺はなるほど、とうなずいた。自分にもその感覚には共感できるものがある。以前親に連れられて、巨大なアクアリウムのある家へ入ったことがある。派手な色味のライトとギラギラとした鮮やかな魚たち。繁華街のネオンみたいだった。もうその家にはそれきり、入ったことはない。親も終始苦笑いをしていた。他人の心の機微には、そのころからすでに聡かった。
 先輩のところのは──どんな色をしているのだろう。飼っている魚はなんだろうか。あのときのような主張の激しい魚はいたとしても、きっとこの人の水槽の中でなら、穏やかに泳いでいるんじゃないか。
 エコバッグが歩くたびにガサガサと音を鳴らした。野菜と卵と魚が入っている。揺れる買い物袋の中は、どんなに荷物があっても先輩が持っているのなら割れたり傾いたりはしないだろう。俺は米と調味料を持ちながら、鈴鳴支部までの道を歩く。
「今日は鍋にしようか」と来馬先輩に提案されて、みんなでつつく鍋はいい匂いがするだろう、と思った。また太一は怒られるのかな。まあまあ、とたしなめながら、湯気に包まれた食事は体を満たして温かくしてくれるだろう。豆腐も、白菜も、出汁も、たぶん忘れられない味になる。
「楽しみ?」
 今度は自分の横顔を、来馬先輩が見ていた。ぼんやりしながら歩いてしまっていただろうか。慌てて取りつくろうと、先輩は目を細めて笑う。
「ぼくもさっきぼんやりしていたから、これでおあいこだね」
「俺のはぼんやりですけど、先輩のは……
 否定しようとしたが、まだ笑顔を絶やさないこの人に声が詰まる。
 人間って、こんなに心からニッコリ笑えるものなんだな、と俺は不思議になる。両親のあのときの苦笑いなんて、感情の裏も表もごちゃごちゃになったような顔をしていたのに。
「嬉しいんだ」
 もう少しで支部に着くというころ、先輩はぽつりと言った。これから鍋を食べるという陽気な雰囲気のまえに、しんとした冬の空気をたしかめるような言い方で。
「村上く……鋼、が、鈴鳴を楽しんでくれてさ」
 こう、と呼ばれるそのニュアンスが、親とも友人とも違う、初めて耳にした音だった。やさしくて、やわらかくて、そして自分によく馴染む。
 なんとなく、もう一度聞きたいと願った。でもその日は結局鍋の準備や太一の様子を伺うことで手一杯になって、食事の後片付けまで聞くことはなかった。
 でも皿洗いを手伝いながら、
「鋼くん、来馬先輩の仲良くなったのね」
 とこんに言われて、うろたえる。
「さっきトイレですれ違ったときに、先輩が『鋼との買い物は楽しかった』って」
 今も、来馬先輩と同じくらい晴れやかに笑ってくれた。
 ……俺は手を洗い、食器を片付けて、みんながくつろいでいる部屋へ戻る。来馬先輩が「太一」と呼ぶ声が聞こえた。それはダメだよ、と伝えているあたり、食後になにかをしようとして慌てて止められているんだろう。
 そして、
「あ、鋼、お皿洗いどうもありがとう」
 と伝えてくれる先輩の声が聞こえた。それが他のメンバーを呼ぶときよりもほんの少しだけぎこちなく、けれど嬉しそうに感じるのは、自意識が過剰すぎるのかもしれない。
 呼ばれやすい名で良かった。この支部に来られて良かった。そして、先輩にこれからも呼ばれ続けたい。この、ほのかに胸に宿る温かみは、冬だから余計に温かく感じられるんだろうか。
「来馬先輩、お茶入れましょうか」
 俺はちょっとだけ、先輩の名前を意識して呼んでみる、胸に残る感情をそのまま乗せるように。冬の空気を溶かすような温かさで。先輩は目を開き、次いで笑うために目を細めた。それが嬉しいときの来馬先輩の癖だというのは、買い物のときに知っている。
「うん、お願いしようかな」
 そう言ってほほえむ顔にうなずいて、俺はふたたびキッチンへ向かった。
 足取りがいつもより軽い、かかともつま先も、なんだか自分のものではないみたいだ。冬なんて早く終わればいいのに、と思うのは、なぜだろうか。わからないまま、俺は廊下を歩いた。