嫌い、の内訳(jojo承花)

9年ぶり?くらいに書きました。徐倫視点の承花。6部前の話で、ジョリン16歳ころ。ジョタロ離婚済みですが結婚の話や奥さんも出ます。家族も花も大事にする複雑な愛を持つジョタロの話。

『嫌い、の内訳』承花

 親父が犬を飼った。犬種は二匹ともシェパードで、名前を決めかねているらしい。
 そんなどうでもいい話題を母親が振ってくるから、あたしは適当に返していた。あんな親父のことなんてどうでもいいし、母がそれをまんざらでもなく嬉しそうに話しているのが気に食わない。
 でもそのうち「名前、決まったんだって」とまた母が言ってきた。自分の意向を介さないで親父が自身で決めたんだとか。むくれる母親にたいそう呆れた。あたしたち母子をほったらかしにして、いつまでも帰ってこなかった男をそんなに好きでいられるなんて、どうかしてると思う。あたしだったら耐えられない。
 飼われているらしい犬たちは、子犬のときから少し成長して、送られてきた写真ではすでにかなり大きかった。母親はそれを見て「うちも飼おうかしら」なんて親父と接点を作ろうとする。
「やめなよ、そういう理由で命を飼うの」
 母はあたしを見てびっくりして、そして顔を伏せた。真っ当な意見で、何も間違えていないことを言った。それなのに傷ついた顔をした母は、しかし前を向いて、
「そうね」
 と言う。
 母はまえに一度だけ「その言い方、あの人にそっくり」と言った。きっと今もそう言いたかったんだ。口元がまごついたのを見ていればわかる。あたしが怒るから言い淀んだ。
 この母は、今も変わらず親父のことを愛している。だから親父も、応えられなかったくせに週末の電話には必ず出て、まるで付き合いたてのティーンみたいにぎこちない会話をする。まあ主に、喋っているのは母ばかりだけど。
 だからあたしは、ますます親父が嫌いになる。

 ──写真に映る親父はいつも無表情で、怖くて、家族写真なのに笑顔ひとつない。母は満足そうに隣でほほえんでいるけれど、あたしの目には奇妙にしか映らなかった。
 母はアメリカで、世間を知らず、時代遅れのお嬢様のように育てられてきた。そしていささか傲慢で、強引なところもあった。自分の手に入れたいものは全て簡単に手に入ると思っていた。そんなときに出会ったのが、どこかの企業のパーティーに呼ばれた親父。母はすぐに親父を欲しがって、欲しがって、仕方がなかった。
「一つ、条件がある」
 親父がついに結婚を承諾したとき、人差し指をたてて警告した。それ以上近づくな、とでも言うように母と距離を取る。これから結婚をしようという女性相手に。
 条件? そんなこと、些細なものだ。と母はきらきら顔を輝かせてその条件が話し出されるのを待った。
 沈黙が長らく続いたのち、吐き出すように親父は言った。
……俺がこれからやることに、絶対に口を挟むんじゃあない」
 その言葉にムッとした母は、どういう意味か問おうとした。けれど親父は追随を許さなかった。詮索しようものなら、あの緑がかった瞳でじっと見つめられ、それ以上の言葉を発せられなかったとか。夜、ベッドの中で自分を抱くときはやさしいが、それはただ単に母の体が細い女性的な体つきで、親父の力がセーブできないから、なんて理由。なんともあいつらしい。
 結局親父はあたしが生まれても、あたしが熱を出しても、母が「帰ってきて」と訴えても、一切家庭に寄りつかなかった。
 だから母が、
「離婚よ」
 と泣きわめいても、
「そうか」
 とたった一言で終わってしまった。その重苦しい一言を、深夜のリビングの明かりが漏れ出る廊下で、あたしは息を殺して聞いていた。母の泣き声はこもって聞こえた。きっと母が憧れた親父の腕の中で、泣いていたんだろう。

 ここまでは、母と親父の悲しい話。ここからは、あたしと親父の数少ない思い出の話だ。

 長い時間、共にいて、親父が内面を話したのはほんの数回だった。
「徐倫」
 小さいころのあたしを呼ぶ不器用な男は、何も語らない背中と横顔で、いつも遠くを見ていた。遠くの景色を見ているわけじゃない。海や、山や、草原を見て和んでいるわけでも。
 あの目線の先には、親父しか知らない世界が広がっている。その世界にはあたしたちが踏み込むことは許されていなくて、そのとき一緒に旅をした人としか話は通じない。
「徐倫、これを見たのか」
 親父のことをまだ少しは知りたいと思っていた十二歳の春、写真立ての中に映る人たちを見た。まだ若い親父がほんのり笑顔で映っているのなんて、珍しいから。あたしには見せたことのない、年相応のみずみずしい笑顔。
……この人たち、は?」
 恐る恐る尋ねると、あたしにだけこっそり教えてくれた。
……昔、一緒に旅をした。ここより遠い、エジプトでだ」
「旅を?」
「彼らは……最高だった、いや、最高の仲間だ」
 厚いくちびるにぴくりとも笑みを乗せないで、親父は静かにそう言った。そのときあたしは、ああ、彼らはもうこの世にいないんだ、と子どもながらに悟った。
 あいつの親指が、写真たての一角をなぞる。愛おしげに目を細める。映っているのはアラブ系の男と犬。横にいるのは「フランス人だ、なにかと騒がしいやつだった……そのうち会うこともあるかもな」と親父に言われた。そしてひいおじいちゃんの若いころ。
 最後に、親父が親指の先で涙を拭くときのようになでる彼のことを、あいつはたった一言「日本人だ」と言った。
「日本人?」
 与えられた単語をくり返すと、親父はうなずいて、写真から目をそらした。
 ただそれだけの情報をまえに、あたしは立ち尽くした。わからなかったのだ、他の人のことは饒舌とはいかないまでも、かいつまんで少しずつ話してくれるのに、この日本人のことだけは一切明かしてくれない。
 親父より背が低く、控えめに笑っている彼は、こっちを向いてひどくやさしく幸せそうにしていた。この人ももしかしたら親父と同じように、旅の出来事を楽しんでいたんだろう。過酷で、危険で、悲しいことがたくさんあったであろう旅を。

 そのあと、あたしが偶然彼のことを知ったのは、さらにその一年後だ。
 親父と母親が、くだんの大喧嘩をした。
「離婚よ」
 とさんざんわめく母の声から耳を塞いだ。明かりに影がうつらないように、廊下から走って階段を上がり、あいつの部屋にこもる。
 扉を閉めた風圧か、ガタンと音がして床に写真立てが落ちてしまった。あたしは慌ててそれを拾い、もう一度写真と向き合う。
 柔和な顔をした親父、そして、正体を明かされなかった日本人。みんながやさしい顔で、こっちを向いている。
 写真立てのすぐ下、親父のデスクの引き出しが空いていた。書類が整理もされずに溜め込まれていて、普段はいっさい惹かれないその中身。
(封筒……?)
 A4の封筒に、コピーされた用紙が何枚か入っている。そんなに厚みもない。階下ではまだ親父たちの声がした。あたしはそれに手を添えて、流れるような親父の文字を見つける──「花京院」。
 封筒はいちばん上に置かれていた。ところどころ古いインクの滲みや、シワのできた角があるのに、褪せた紙からは親父の香水の匂いが濃く香る。ついさっきまで、親父がこれを見ていたんだ。
「花京院」という文字が、なんと読むかはわからない。なにを意味するのかも。封筒の中身を見てみないことには。
 あたしが慎重に開けると、複数枚の用紙の上部にはすべて親指で引き出した跡がくっきりついている。親父はもう何度もこれを見ている。あたしも同じように、つまみ上げて月明かりにさらした。
 日本語だから、なんと書いてあるかはわからない。表の中にも細かい日本語が並んでいて、その中に「花京院」という文字がある。おそらく生年月日であろう数字、なにかの日付、あとは難しくて読むことができない。漢字ばかりが連なっている。
 紙をめくると、今度は英語が多かった。端の方に「SPW財団」の文字がある。
(Japanese……日本人、ノリアキ・カキョウイン……
 あたしは「花京院」というあの謎の日本語が、カキョウインと読むことを知った。そしてこの用紙が、死亡診断書と検視結果だということも。そして用紙の最後に、小さな震える文字でまた別の花京院家の誰かのサインがあった。たぶん、この人の父親か母親だろう。
 顔は映っていないから、その結果がどんな人のものなのかわからない。ヒントは日本人、ということだけ。
 そしてあたしは、運がいいのか悪いのか、親父に関わるキーワードの中で、日本人という単語を偶然知っている。
 封筒を戻すと、ひらひらと一枚のなにかが引き出しから床に落ちた。それもまたずいぶん古い写真のようだったけれど、やはりいちばん上に置いてあった。あいつの文字で、端的に日付だけが書いてある写真を裏返せば、
(白いタキシード……
 母親と親父の、結婚式のときらしい。ライスシャワーと大勢の人に囲まれて、誰かに撮ってもらった写真だ。
 白い服に身を包んだ親父は、ほんの少しだけ笑っている。
 階下の音が止んだ。あたしは急いで封筒と写真を引き出しにしまい、部屋のすみへ引っ込む。階段を上がってくるような音はしなかった。玄関のドアが開いて、ふたたび閉まる。泣いている母親の嗚咽がほんのわずかに聞こえた。
 次の日、親父の姿は見えなかった。あたしが近所の友達と遊んで帰ってきたころ、豪華な花束と引き換えに、あのデスクと写真立てだけがぽっかりと家から消えてしまっていた。
「出ていったわ」
 母はあたしにそう言って、泣き腫らした顔を隠そうともしなかった。氷で冷やしながらも、夜ご飯用のスープを作っている。それでもキッチンには花瓶が用意してあって、花束は母の好きなガーベラの花が、季節外れなのに惜しげもなく入っていた。メッセージカードを開ければ、どこか遠くの住所だけが書いてある。親父の新しい住まいを表すそこは、昔夫婦でよく行っていた場所だと聞いていた──

 親父からまた連絡があったらしい。母が犬の話をもちかけると、しばらく経ってこう返ってきたとか。
『実は、もういない』
 不在がちな親父に代わって、ハウスキーパーにばかり世話を任せていたせいか、ハウスキーパーに懐いてしまって、そのままその人に譲ったらしい。初老の彼女はとても喜んでいて、旦那さんと一緒に犬二頭と楽しく暮らしているんだとか。
(またあいつは、愛情をかけるのに失敗したんだ)
 あたしは心の片隅で、ひそやかに思う。
 本当かどうかは知らないが、あたしの血にも受け継がれているというジョースターという遺伝子は、一人の人間を深く愛する傾向があるらしい。わからなくもない。あたしもときどき、母親にでっかいプレゼントをしたくなったりする。
 きっと、親父もそうなんだ。結婚したいという母の押しに負けたのも、あたしにエジプトの話をめずらしくしてくれたのも、犬を飼ってみたのも、自分の中でかけたかった愛情の矛先を定めたかっただけ。受け止めてくれる人はもうこの世にいないんだ、って、何度でもあの封筒を見て現実に引き戻し、これからを大切にしたいから結婚式の写真を眺めていたんだろう。
 母からの連絡を三度に一度必ず取るのは、罪悪感からかもしれない。もしくは、愛情をかけたいと一度は思った人間への、精一杯の不器用な歩み寄りなのかも。だからその不器用な声で、
『徐倫は元気か』
 ってスピーカーから聞こえてくるのを、よせばいいのにあたしも聞いてしまう。
 だから親父は嫌い。死んだノリアキに教えてほしい、あんな親父のどこがいいのって。
 他人のことをうまく愛せなくて、ノリアキのことを引きずりながらも前に進もうとしてる優柔不断な男。あたしだったら好きには絶対ならない。そんなのは、親父だけでじゅうぶん。
 あたしはテーブルに頬杖をつく。あいつからの電話でニコニコ話す母を見ていると、その横で困ったように笑うノリアキが見えたような気がした。