やがて昔日となれど

いつか思い出になってもいろんなことを、特に北さんとのことを覚えていようと思う治の話です。ポテチ食べてるとあっという間になくなるから、あんなにあったのにな…と思って書いた部分もあります笑

 こたつでどうやら眠ってしまったらしい。治の温かい体は、しかし乾いていて、水分を欲して手が動く。その自分の右手に冷たいグラスの感触をおぼえた。
「あれ」と声を出したような気がしたが、なにせ声が出づらい。乾いた喉はひりついている。そこをやわらかく北がすくってくれる。
「喉乾いとるやろな、思て」
 ありがとうございます、と形だけ口を開くと「金魚みたいやな」とほほえまれた。その目は幼児や子どもを見るときとさして変わらない気がして拗ねたかったけれど、子どものままでもいいか、と思い直す。
 今日は休日で、なんの予定もない。

 ──先週、社会科見学だと言われ、快く受け入れた。そして昨日、店の中にはキラキラした目をした園児たちが五人やってきた。来年から小学校に上がるのだという。今度園で、お店屋さんとやらをするために、必要なものを見にきたんだと先生に言われた。店からなにか、物品的に与えられそうなものはあったかと考えをめぐらす。
 一人の少女が端の方にいた。引っ込み思案な子はどこにでもいる。治も、侑の影に隠れていた時代を思い出した(あれは隠れていた、というより、侑がなんでも目立ちたがり屋で、治はでしゃばる必要がなかったのだ)。その子の視線の先にはきちんと畳まれて置いてある米袋があった。たまにお客さんに「このお米、どこの使ってるん?」と聞かれたときのために、取っておいてある袋だ。生産地も、生産者の名前も、顔まで入っていて、ちょっとむずがゆい気持ちにはなる。真面目な顔で──いつも真面目だが──米の袋に写真でうつるその人は、さっき納品のときにちょっとだけ、治にキスをして帰っていった人だ。
 園児がそれを持ち上げて、しばらく考えると、
「これ、何が入ってたん?」
 と聞いてくる。たしかに北のところの米袋は、一般家庭にあるようなビニール製のものではないから、わからないかもしれない。
「米や、ここから炊飯器に入れて炊く。お手伝いしたことある?」
……ある、ママが帰ってくるの遅いときに、パパと」
 治は、健気な少女の頭をなででやる。自分の手というのは、大きい男たちに囲まれてきたからわからなかったが、この子どもの頭を軽く覆えるほどの大きさであると知った。なるべく力を入れないようにやさしくなでると、「パパより手、大きい」と言ってくれた。
 園児たちがかわるがわる炊飯器に米を入れてみたり、看板を拭いて掃除をしたり、おにぎりを小さい手で握ってみたりする。具を欲張ってたくさん入れすぎた子、手にあり余るぐらい米をつけている子、熱いあついと騒ぐ子も。さっきの女の子は、やっぱり「パパに教わった」と言って丁寧なおにぎりを作る。
 ……でもいざ食べるときに、みんなで「いただきます」と手を合わせ、次いでかぶりつき、そして少女は「あっ」と小さい声をあげた。治が横から顔を覗かせると、具を入れ忘れたらしい。形をきちんと整えるのに一生懸命で、うっかりしていた彼女は、見るからに落ち込んでいた。
 治は、
「どうしたい?」
 と彼女に聞く。タッパーにより分けた、具材を並べながら。
……もう一回具入れて、握る」
「ええよ。ラップ使う?」
 彼女のうなずきに治は笑って、口をきゅっと結んでやる気をみせた少女を見守った。他の園児たちも、それぞれにエールを送る。
 結局、米が足りなくて米も足す羽目になり、少女はまわりより二倍近くおにぎりを食べた。それでも、口の端に米粒をつけて「おいしかった!」と笑う。他の子どももまた食べたいと言い、炊飯器は空になった。先生たちは恥ずかしそうに頭を下げるけれど、治は「気にせんで」とむしろ満足した。
 帰り際、少女が最後の最後に治の元へ走ってくる。しゃがんで目線を合わせると、「あのな、」と嬉しそうに笑っていた。
「おにぎり、具ないの、初めて食べてん」
「そうなん?」
「うん、具なくてもおいしい。おこめのうかさんにありがとうって」
「わかった、言っとく」
 彼女の頭の中に、お米農家さん、は漢字変換されていない。多分、ママかパパから聞いた言葉をそのまま覚えている。それでもその笑顔はできれば北に写真で送りたいぐらいまぶしいものだったし、あの真面目な顔して米袋にうつってた人のことを、この子が最後まで記憶してくれていたことが嬉しい。
 バスに乗って園児が帰る。お調子者の園児が立ち上がってこっちに手を振った。バスが発進し、揺れて、イスに慌てて座る。ほんま、侑みたいやな。でもあの子らも、きっとたちまち大きくなる。治はバスが遠くなるまで、ずっと店の前で立っていた──

 こたつの天板に頬をくっつけて、北を見上げる。おこめのうかさんにありがとう、は、とっくに伝えた。そのとき北は、はにかみながら朝食を食べていた。
 そして今、北は珍しく、おやつにポテトチップスを食べている。いつか治が地元の青年会の打ち上げで、会長の自宅で大人数で宅飲みをし、余ったのをもらってきた。「芋だけはいいのを使っているから」って押し付けられて。
「うまいで。治も食うか」
「食います、でももうちょい飲みもん取ってきます」
 治はのそのそとこたつから這い出して、冷蔵庫に飲み物を取りに行く。干からびたままポテトチップスを食べると、さらに水分不足になりそうだ。グラスを二つ、冬でも飲みたくなるかなと、作っておいた麦茶を注ぐ。こたつに戻ってくると、北は真剣な顔で袋を見ていた。
「なんか書いてありました?」
「作ったとこと、作った人の顔」
 いつもなら、治はそんなところ見ないで終わっていたかもしれない。けれど、北と過ごすようになってから見るようにした。米袋に彼の顔が載っているのと同じで、大事にこれを作っている人がいるんだと考える。ちょうど、昨日きたあの女の子のように。
「へえ、こんな工夫してるんや」
 北が感心するたび、口の中に入る風味が一つずつ豊かになる気がする。パリ、パリと音がして、くだけていくポテトチップス。また北が「俺もこやって商品説明書けばいいんか」と学びを得ていた。袋一つ、侮ることなかれ。そこには見方によって大きな学びがある。
 ふと北の横顔が、昨日きていた少女と重なる。真剣に、夢中で、一つのことにとにかく一生懸命な。
 それは北が子どものときもそうだったんだろうな、と勝手に想像して、治は口の端をこらえきれずにつり上げる。すると足の先がたまたま二人で触れ合って、治は北の足を足で覆う。
「お前、足の裏冷たいな」
「今外に出たんで」
 まるで幼児のように体温の高いぬくもりが伝わってくる。それはこたつの効果だとわかっているのに嬉しくなった。北の子ども時代を垣間見ている自分に酔って見つめていたら、ふと口からポテトチップスが一枚こぼれた。
「行儀わるいで、子どもやないんだから」
 と言いながら拾ってくれ、そのまま口の先に押し付けられるそれを、口を開けて受け取った。あっという間にもろくなくなる。時計を見れば、もうそろそろおやつどきは過ぎて夕方の日差しが文字盤の下を明るくしていた。時は進むのが早過ぎて、まもなく北はきっとこたつを出て夕飯の支度を始めるだろう。
 今度は自分で一枚袋からつまみあげ、パリパリと咀嚼し、できる限りゆっくり飲み込んだ。まだ、まだと願っても、袋の中身もなくなりつつある。
 今日は休日、なんの予定もない。決して口にはしないが、明日もこうして北とだらだらしていたい。言えば呆れられる。
 でも。

……もう夕方か、お前とこうしてんのも悪くないと思っとったのに」

 昨日の少女と重ねていた表情は、いつの間にか大人の北の面影を濃くして、治の方を向いてほほえんでいた。北も同じ気持ちだったことに驚いて、咀嚼がおくれてむせた。慌てて麦茶を飲みながら、「今度は年寄りみたいやな」と北に心配されながら。窓の外の太陽は山あいにゆっくり沈む。
 参ったな、と治は思う。昼寝をしたことさえ少し後悔した。今日このあとは夜が更け始めた切なさを、一緒に体験していきたい。夕飯もよく味わって食べよう、いつも以上に。
 そうしてずっと、今日を惜しむように北を見つめていたら、
「なんでそんな見てんねん」
 と言いながら、真面目な顔が少し赤くなる。それは「おこめのうかさんに」とあずかった感謝の言葉を伝えた今朝よりも、いっそう愛おしく思えた。