ファーストキス

文字通り、初キスの話。

「しますね」
「ええよ」
……し、しますね」
「おん、早う」
…………っ」
「俺からしよか?」
「いやです、俺からします」
 問答の続く北の部屋で、カーテンの揺らめきが北の髪をさらった。度胸がないのに踏み切れない後輩は、相変わらず真っ赤な顔のまま北の肩を掴んだままで、もうすぐ二十分が経とうとしている。
 いい加減、肩が重い。指の跡がついてしまいそうだ。それはそれで密かに風呂場であとで見て、ふ、と笑える思い出になりそうなものだが、今は少し食い込んで痛む。
 キス、なんていうのは、簡単なことではないのか。北はまるい目をぱちくりとさせながら、窓から入ってくる風に当たる。すると外から舞い込んできたホコリのようなものが、目をかすめていった。
「あ、いた」
 急に目の前の人がガクンと首を下げて目を覆うから、治は驚いて、え、と素っ頓狂な声を上げる。
「ゴミ、入ってもうた」
「み、見せてください……大丈夫ですか?」
「ん……
 治の大きな、分厚い手が北の頬に添えられる。親指が壊れ物に触れるように、やさしく涙袋をさすった。熱があるような温かさ、皮膚を引く力も普段の治からは考えられないほど。数回まばたきをすれば、ゴミはどこかへ行ってしまったが、治がなおも心配そうに覗き込んでいた。
 キスの前に、あの子にも、そんな顔をして見せとったんかな。いや、こいつはそんな殊勝な男やないか。
 北の内側から、ふつふつと、青い炎のようなものがうごめく。

 ──北は、見たことがある。
 部活を終えて、帰り道だった。電車がプワンと音を立て、遠くへ走り去る高架下。治は背が高いからすぐにわかった。声をかけようとして、ハッと気づいてやめた。上げた手を下ろした理由は簡単だ、治の銀髪を梳くように細い女子の指が絡んでいたからだ。
「髪、染め直さないの?」
 たった一言、その言葉だけ北は拾った。女子の柔らかい、高い、くすぐったくなるような声だ。北にも彼女がいたことがあるからわかる。守ってあげたくなるような、自分たちよりは太くない声。
 治は面倒臭そうにしていた。本来、人付き合いを面倒がるタイプだ。ん、とか、うーん、とか唸っているだけで、北の前で見せるようなハキハキとした姿はない。いや、あの姿は緊張からきているだけだというのは己だってわかっているが、性にだらけた治を見るのは珍しいし、貴重だった。他人には見えないようにこっそりと食べ散らかし、こっそりと別れ、あとは素知らぬ顔をしているものだから。
 すると、彼女が治の唇にすばやく触れた。一瞬だった。北が目を逸らす隙も与えてくれなかった。彼女は撫でていた治の髪を少し掴んでしまったらしい。それが治に火をつけたのか、男はぐいっと女子の腰を掴んで、噛みつくようにキスをした。
 情熱的、だとは、北は思わなかった。むしろあの治を、普段自分がよく見ている治と重ねて、しっくりきた。
 あれはよくよく品定めをする獣だ、と北は思っている。ボールを投げ、打ち、コートに落とし、相手がどんな顔をするか見ている。自分の好みに合うか味を確かめて、舐め取り肉を食み、様子を見る。気怠そうに見えて、じっと、そっと、検分している。
 治の中で仕分けられた人間は、そばにいることを許される。例えば角名、銀島、バレー部の連中。侑はそもそも、血を分けた双子だ。喧嘩はするが、テリトリーは十分に互いに理解している。

 では──では、自分は?

 北はそこまで思い至って、我に帰る。
 目の前の男女は、すでに体を一つ、二つ分ほど離していた。治の頬に、真っ赤に腫れた跡がある。女子が怒りで肩を震わせて、地面に置いていたカバンを引っ掴んで足音を立ててどこかへ消えていった。
 多分、明日、治の頬は少しまだ赤いだろう。彼女はネイルもしていたから、もしかしたら引っ掻き傷でもできているかもしれない。それを見つけて、何と言おうか。
「ずいぶん男前になっとるやん」
「ほどほどにな」
「かわいい子やったのに」
 どれも、これも、自分らしくない言葉。
 数日前北の教室で、治は犬みたいにコロコロと懐いて将来の話をしていた。部を引退して、治たち後輩に代を譲り渡し、さあ自分はやるべきことをやろう、と一歩進もうとした矢先、後ろからぐいっと引っ張ってきたのが治だ。何も背中やシャツを、ではない。その呼び方たった一言で、だ。
「北さん」
 目を輝かせて自分を呼んで、「今、空いてますか?」の二言目。それだけで自分はわりと胸が簡単に踊ってしまうんやな、と思いながら、「ええよ」と返す。
 あの子にも、そんな顔をして見せとったんかな。
 自分の中に、ちくりと胸を刺す痛み。けれどそれは決して表に出さなかった。北の習慣には存在したことのない痛み。誰にも明かさず、そっとしておいた──

 そうして恋人になった今、あの頃の痛みは疼きになる。もっと自分だけが治を見たいと思ってしまう。
 そうして、早く、この治の顔に慣れてしまえたら。
 目を閉じて、窓からの風が顔の表面を撫でていくのを感じ取る。治の小さな息遣いも感じた。柔らかい弾力が唇をなぞる。ぞくりと背中を震わせたら、覆われて、呼吸を忘れた。こういう時は鼻で息をするんやろうな、と思ったけれど、ファーストキスの緊張の合間にそんなことは思い出せない。
 酸欠になってきた頭は、チカチカと星を飛ばす。長い密度のあるまつ毛が当たってきた。角度を変えてキスをする治は、一度ずつ離すたびに漏れる自分の吐息を嫌に思わないだろうか。
 ──こんなの、慣れる、んやろうか。
 北の毎日に新たに加わった行為はずいぶんと新鮮で、蕩けるようで、怖くなった。毎日これを続けたら、自分はどうなってしまうんだろう。
 まずは、数分先の未来の自分を想像した。
きっと顔を真っ赤にしている。酸素を求めて口を開けば、目の前の男にキスを催促していると思われるかもしれない。
 でも、それでもいいと思えた。今はまだ、慣れるまでに時間をかけたい。
 治の首に手を回した。髪をほんのわずかに引っ張ってみる。「あかん、」と治が言うものだから、何がだめかと聞いてみる。
「興奮する、から」
 試合とは違う顔をしている。品定めをしていない。あの子のように、見下ろされて検分されていない。むしろ、
「余裕、ないんか」
 と問うと、治は、は、と息を詰めた。
「当たり前でしょ」
 その言葉は、北の中の青い炎をあっという間にかき消す。自分の過去も、治の過去も、全てがどうでも良くなって、今ここにいる自分たちのキスだけが真実なんだとわかる。
「ふ、ふふ」
……なに、笑てんの」
「いや、治らしいなあ、思て」
「らしいって……どうせ、北さんの前ではかっこつけてもかっこつかんし」
 そうやなあ、とは言わないでおいた。かっこつけようとしていた治も、なかなかお目にかかれない。そして、それに逐一自分の前では失敗しているというのも。
 抱きしめる力はお互いに、ゆるいが確かなものだった。北はそっと鼻を押し付け、もう一度、と囁いた。体温が上昇した相手の体がおかしくて、今度は自分からキスをした。