農業ヘルパー前川くん

北さん家にお手伝いに来ている前川くんというヘルパーのお話。治の小さな嫉妬。

 治は混乱している。
 激怒はしていないし、さめざめと悲しいわけでもない。妙にむず痒いものを胸に覚える。
 主にその相手は、恋人のテリトリーをよく知る人物で、恋人に休暇などが欲しい時は代わりとして畑を見てくれる役割を担い、給料をもらって生計を立てている。それが彼の当然の権利だし、当たり前の需要と供給だ。そして彼がいることで、治は恋人と休暇を過ごせるありがたみもあるから、本来感謝をすべき存在なのだ。その彼──前川に混乱している。
 治は前川に出会った日、瞬間まで、あまり激しく北と他人に対して感情を揺さぶられてこなかった。何よりも、自分の方が北を知っている、という大きな自負があった。しかし自分たちよりやや年下の、犬っぽい顔をした幼さの残る彼、前川は、治のテリトリーの外、そして北のテリトリーの内側にいる。
 つまり、農業ヘルパーなのだ。

 前川は、きっと働きづらいだろう。雇い主の背後でどデカい男が、恨みがましい視線でこっちを見ながら「早よどっか行け」とも言えずにうだうだと居るのが。それでも、そばかすをつけた小麦色の肌に、明るい染めて日が経った金髪をパッと輝かせて、「おはようございます、治さん!」と言われれば、治も様々に混濁した感情を飲み干して「……おん、おはよ」とくぐもった声を出すしかない。
「治、調子悪いんか?」
 恋人は素知らぬ顔で覗き込んでくるし、前川もひどく心配そうな顔をする。虚しい感情に振り回されているのは自分だけなのだ。だって相手は、治さえ知らない北の、最も大事とする仕事の面をサポートできるのだ。困ったことも、協力することも、何かを提言することも、治はできる。できるが、一緒にやってみることはできない。前川にはそれができる。
 付き合って数年、今更、いまさらだ。こんなふうに北を欲しがる自分がいるなんて。浅ましい、と頭を振って、北と前川が新しく試そうとしている内容を楽しげに話している横を通り過ぎる。米をもらったら、今日は帰ろう。軽トラは明日返してくれればいい、と言っていた。店のそばの駐車場のおっちゃんに、停めさせてもらうように頼みにいかな。
 前川の、特徴的なそばかすがひょいと目の前に見えたのは、その時だ。

「治さん、これ」

 差し出された年間スケジュールと書かれた用紙は、ヘルパー用のものだ。「北さんにも、渡したんスけど」と言いながら鼻の下をかく前川から、戸惑いながら受け取って、治ははてと首を傾げる。こんな用紙、もらったことはあまりない。今までのヘルパーに見せてもらう程度のことはあったが、あくまで北が休暇をもらう時くらい。
 さらさらと稲穂の音と、紙がなびくのが同時になる。やけに小さな音だった。それだけの沈黙を二人の間に生んでしまった。慌てて、何か喋らなければ、と前川が汚れたつなぎをはたいて居住まいを正す。
 しかしそれは、治にとって嵐の前の静けさだった。

「北さんとのお休み、これ見たら取りやすいかな、って」

 ──ぐんぐん赤くなる治の顔と、同時に前川も「え、あれ、俺、余計なこと言いました?」と赤くなる。
「知っとったん?」
 北が道路を越えた向こう側の畑で作業をし出したので、治は慌てて前川を追い立てるようにしつつも、小声で耳打ちする。幾分自分よりも小さい前川の頭は、しょりしょりと短くて後頭部が爽やかに刈り上げっていた。涼しそうで、作業のことのみを考えた効率的な髪型をしている。
「え、えと……よく、北さん、治さんの話するから」
「え、どんな⁈」
 食い気味に身を寄せてしまった。人から聞く恋人の話題など、好きじゃない人間はいない。前川が勢いに負けてよろめいて、ガラン、と大きくじょうろが倒れた。中に入っていた水が排水溝へ流れていく。
「この間は、畑でこんなんやれたらって治さんが言うとって、とか、この米が店の味を決めんねんから、とか」
 ぶわわ、と汗と熱が同時に込み上げる。恋人に文句を言っても仕方がないのだが、そんなことは一つも言っていなかった。朝も、夜も、飯時も、睦言を囁く時も、北は一切そんな様子を見せないで。
 まえかわあ、と遠くから、伸びやかな北の声がした。ぐん、と伸びる秋の穂のような。治は前川の背を押して「早よ行ったって」と呟いた。右手に持った前川のくれた用紙がくしゃりと歪む。
 他人から得た北の顔、他人から知った自分の執着。治は顔を伏せたまま、膝に手を置き頭を垂れた。
 北の全てをわかっていると、自負していたのが恥ずかしい。同時に初めて見た一面が、こんなにくすぐったくもどかしいものであったとは。知らないでいたことはもったいなかったが、知ってしまった今、どの顔をして恋人に会ったら良いものか。
 穂の中で、北と前川が何やら話し込んでいる。微笑みながら前川に、そうやな、と頷いたであろう北を見て、少しばかりの嫉妬以上に、ほの明るい気持ちが灯るのを、太陽の下で感じた。