襟ぐりが深く沈んで、柔らかな膨らみを覗かせるシャツ。それとは対照的に足首までしっかりと隠すズボン。学生時代とは正反対の服装を見るに、実は制服には多少なりとも不満があったのかもしれない。
朝一番に整えただろう髪は時間の経過でややほつれてしまっていて、隙とも取れるそれが鈍い酒場の光を弾いてちかちかと燦めいている。記憶の中では丸みを帯びていたはずの頬の輪郭はすっきりとした曲線に変わっていたものの、彼女の手のひらに寄り添うだけの柔さを保っていた。
ふ、とアルコールに浸されて重たくなった吐息と同じくらいの気だるさを湛える眼は、彼女が実際疲れ切っていることを示している。酒場の長椅子で幾度も夜を明かして来たのだから当然と言えば当然だが、彼女の心労の原因はそこにはない。
運良く手にした仕事をなんとしても手放したくなかったと彼女は言う。金のためでも名声のためでもなく、そこなカーヴェが求め続けた環境があったから。その代償で素寒貧になっていては元も子もないとはアルハイゼンも思うものの、今更そんな事を言ってもどうしようもないことも承知していた。
――とにかく、彼女は自らのために仕事をし、それが原因で仕事から放逐されかかり、自分以外のすべてをほとんど投げ打って、そして。
そして、それでも届かなかった。
だから彼女は今疲れ果ててしまっている。かつて自身が突き放した男を家に帰そうとせず、アルハイゼンであれば構いはしないとばかりにすべてを吐露した。これが今の僕のぜんぶ、と、うとうととまどろむようにカーヴェはアルハイゼンに告げる。
かつてのアルハイゼンのはんぶんであり、ほとんど癒着していた場所をたいそう痛めつけながらアルハイゼンを拒絶した女だった。いや、その頃のアルハイゼンにとってこの人は女という枠にはいなかった。他でもない、ただのカーヴェとしか名付けられない人だったのだ。
自己から引き剥がされた彼女を見た瞬間に抱いた強烈な違和感を、アルハイゼンはよく覚えている。きっとその時になってようやく、アルハイゼンは本当の意味で彼女が自分とは異なる生き物であると理解したのだ。
カーヴェは特別な存在でありながら、同時に完全な相互理解が不可能な他者である。そんな当たり前なことをアルハイゼンはいつの間にか分からなくなってしまっていた。
かつての自分が認識できなかった彼女の価値を今のアルハイゼンは嫌というほど理解させられていた。少し話をして立ち去ろうと思っていた自身の上着をそっと摘ままれてどこか覚悟を感じる眼差しと共に誘われただけで、ラストオーダーも終わったというのにアルハイゼンは席から立ち上がれていない。
君はいったいどうしてた。仕事が順調なのはしっているけど。そう角のない声音で尋ねられて、カーヴェからすれば随分と素っ気なく感じるだろうアルハイゼンの生活をぽつぽつと話す。その一つにカーヴェは一つ一つ頷いて、君らしいと最後に苦笑した。
本当に君は変わらない。
まるで、自身もそうあれれば良かったと言うように、カーヴェがそっと小さく笑う。それから寄せられたまなざしを、アルハイゼンは忘れることはないだろう。
瞬きと共にその視線がアルハイゼンから離れるのを良しとできるのであれば、今夜ここにアルハイゼンはいなかった。
「――――……」
アルハイゼンの問いを前にして、カーヴェは薄暗い照明の下で瞳孔を絞り込んだ。途端にかつての今にも爆ぜてしまいそうな薪を思わせる雰囲気をまとわせて、ささやかな喉仏を一度動かす。きっと彼女が描き求めるそれはまだカーヴェのまなこの内にあるのだと、アルハイゼンは確信する。今はそれだけで十分だった。
墜落するような日々をアルハイゼンは思い出す。積み重ねた友愛を薪にしながらなんとか形を保っていたあの日々の果てには何もなかった、なとど言うつもりはない。いっそ何もなかった方が良かったのかもしれないとは思う。
焼け残ってしまった願望に似た思いをアルハイゼンは使い道のない記念品のように、ずっと整理せずに置いていた。その正体がどのような形をしているかも分からぬままどうにもしなかった己を恨む気持ちが、即座に塗り替えられていく。
今度こそ、この人に破滅させられてもいい。
本当はあの時アルハイゼンはカーヴェを引き戻し、そうなるべきだったのかもしれない。あの頃のアルハイゼンは冷静で、自身から分離した彼女に焼かれる度胸もなかった。今の自分の方がおかしいのだと、誰かに指摘されるまでもなくアルハイゼンは承知している。
一方的に思いを注ぐ男が女を一人抱え込む。その行為がアルハイゼンの生活を乱し、同時に社会的な立場を損なう可能性があることも理解している。
そういう結末を迎えてもいいと、アルハイゼンは思ってしまった。この先の己を待ち受けるものが生涯に暗い影を落としたとしても、アルハイゼンはカーヴェをここに置き去りにはできない。他の誰かにこの役目を譲るつもりも、到底なかった。
自分が築き上げてきた全てをこの人に壊されてしまっても構わない。アルハイゼンに与えられていたのはその覚悟を固めるための時間に他ならなかった。
カーヴェが自らのために生活の基盤を差し出したと言うのなら、アルハイゼンも同じ物を賭けよう。だから、彼女が密やかに伸ばした指先に自身のそれを絡め、強く引き寄せることを許してほしかった。
「荷物をまとめるといい。家に案内する」
これっぽっちも想定していなかっただろうアルハイゼンの指示に、カーヴェが間の抜けた声を上げる。準備ができたら降りて来るようにと言い捨てて、階段を下りれば一日の売り上げを確認しているらしいランバドに声をかけた。
「二人分の会計を」
二つ分の伝票の上に数字を書き足して検算してから、ランバドが大体思った通りの金額を伝えてくるので財布から引っ張り出したモラを手渡す。
「あんまり酷いことはしてやるなよ」
アルハイゼンが渡したモラを確認しながら視線を上げずに、ランバドがアルハイゼンに釘を刺してくる。仕事柄、男女のことはそこらの人間よりよほど理解しているのだろう。まあ、行く当てのない女の食事代を出す男と出くわしたらアルハイゼンだってそう思うだろうが。
「酷い目に遭うとすれば俺の方だ」
それでも心外だとばかりに返せばランバドが顔を上げてアルハイゼンを見て、大まかなところを察したらしく時間帯に似合わぬ明るい声でからからと笑う。そうか、そりゃあ大変だ、と愉快そうに続けながら釣り銭を揃えたかと思うと、慰労金だとちょうど今日のカーヴェの酒代くらいの額を付け加えた釣り銭を寄越された。
彼もきっと彼女を案じていたのだろうと黙って受け取ることにして、アルハイゼンは階段に意識を差し向ける。まるでそれを待っていたかのように、たじろぐ彼女の靴底が使い込まれた階段を打つ音が響いた。
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