柚子子
2024-10-18 20:01:36
10696文字
Public ベリーベリー
 
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爆豪と緑谷(+3)

爆豪長編『ベリーベリー』の番外編。破局期間中の話なので夢主不在です。

苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字「飯行くからツラ貸せ」
 ある日突然、本当に突然、かっちゃんからそう呼び出しを受けた。ほかに誰かを誘っているというわけでもなく──たとえそうであったとしても、そういうときにかっちゃんから僕に連絡が入ることは稀だったけれど──驚いたことに、僕とかっちゃん、ふたりでの食事の誘いだ。
 場所は僕の通う大学のほど近くにある、味も値段も申し分ない学生御用達の飲食店。今時風の店内ではないので、女子はあまり好みそうになかったけれど、大学一年のときから僕が何度か利用している店だった。
 呼び出されたのは夕方を少し過ぎたころ。四月の終わりで、外はすでに、夏のにおいが空気に混ざり始めていた。
 がらんがらんとやけに大きな音の鳴るベルのついたドアを開き、のれんをくぐる。店内にはほとんど客はおらず、厨房のなかから「好きな席どうぞー」と適当に声をかけられた。
 ぐるりと店内を見回す。キャップを深くかぶった男の人が、壁際の席で携帯をいじっている。
「おまたせ、かっちゃん」
 声をかけると、かっちゃんが顔をあげる。
「遅ェ」
 ひとことあいさつ代わりに文句を言って、かっちゃんは僕をにらんだ。

 卒業後、ベストジーニストの事務所のサイドキックになったかっちゃんは、就職と同時に住まいを東京に移していた。僕の通う大学も東京にあるから、この店は僕にとってもかっちゃんにとっても、それほど不便な待ち合せ場所ではない。ちなみに僕の下宿先はこの近所。大学一年のあいだは頑張って静岡の自宅から通学していたけれど、この春からは諦めて下宿に切り替えた。
 飾り気のない二人掛けの席で、僕らは久しぶりに向かい合っていた。高校を卒業してからというもの、かっちゃんともなんだかんだ疎遠になっている。会うのはだいたい、半年ぶりくらいだろうか。もっとも、かっちゃんの活躍は噂に聞いているので、僕の方はあまり久しぶりという感じもしない。
 角がぼろぼろになったメニュー表を開く。料理に統一感はなく、とにかく学生の胃袋を満たすことを最優先にしたような料理名が、画質の荒い写真とともにずらりと並んでいる。
「そういえばかっちゃん、もう二十歳になったよね。お酒飲む?」
 試しにそう尋ねると、
「飲まねえ」
 すぐに返事が返ってくる。そう答えるだろうとは思っていた。かっちゃんはサイドキックとはいえ、すでに立派なプロヒーローだ。緊急要請にそなえて、普段から飲酒を控えているプロは少なくない。
「誕生日過ぎて、もう誰かとお酒飲んだ?」
「親と一回、あとジーパンたちと一回な。けど別に、そんなうまいとも思わねえ」
「そういうものなんだ。じゃあ烏龍茶ふたつでいい?」
「おー」
 店員を呼んで、適当に注文する。料理が来るのを待つあいだ、僕はさてどうしたものかと思案を巡らせた。
 かっちゃんからの個人的な呼び出しなんて、高校時代を振り返っても、そんな機会はほとんどなかったように思う。そもそも僕とかっちゃんの関係は、幼馴染の腐れ縁というだけだ。それ以上でも以下でもない。
 高校時代はクラス全体で仲が良かったし、おまけに寮生活だったから、なんだかんだで一緒に過ごすことも多かった。それでもお互いタイプが違うので、特に仲のいい交友関係が重なっているわけではない。一緒に行動することはあっても、ふたりでということはあまりなかったはずだ。
 過去のわだかまりが水に流されたからといって、それでいきなり無二の親友になるわけじゃない。
 そのかっちゃんからの呼び出し。
 切島くんや上鳴くんではなく、わざわざ僕を指名し、電話でもなくあえて呼び出した理由。
 まあ、いろいろと考えられなくはないけれど……
 僕が思案しているうちに、烏龍茶が運ばれてきた。乾杯などするはずもなく、それぞれ勝手に飲み始める。
 テーブルの上に右手はのっているものの、かっちゃんがジョッキを握るのは左手。きっと右手が使えるようになっても、かっちゃんは左手でジョッキを握るのだろうなと漠然と考える。そんなことを僕が考えてしまうのも、かっちゃんがなかなか本題を切り出さないからだった。
「ええと……、あ、かっちゃんとふたりでご飯って、高校のときもそんなになかったよね」
 ひとまず、探りの一手を打ってみる。
「なんで好き好んでてめえとサシで飯食わなきゃなんねンだ」
 すぐにかっちゃんらしい一言が返ってきた。相変わらずの憎まれ口に、気を遣っているのがばからしくなってくる。
「今日誘ってきたのそっちじゃないか」
「気色悪い言い方してんじゃねえ! またぶっ飛ばされてえのか」
「ぶっ飛ばされるのは困るよ」
 僕の返事に、かっちゃんは何も言い返さなかった。これ自体は珍しいことではない。ただ、その口の噤みかたが、いつもと違って微妙に歯切れが悪かった。
 うーん、これは……。多分、何か言いたいことがあるものの、ばつが悪いか体裁が悪いか、とにかくなかなか言い出しにくくなっているとか、そんな感じなんだろうな。
 長年の付き合いと観察の結果、その程度の推察ならば僕でも容易にできた。口に出したらめちゃくちゃ怒られるだろうから、絶対に本人には言わないけれど、むやみやたらと怒鳴り散らすのをやめたかっちゃんは、年々分かりやすくなっている。
 かっちゃんから僕に話があるとすれば、まず真っ先に思いつくのは個性に関連した話だ。
 大戦のあと、僕のなかから残り火が消えていくにつれて、かっちゃんの何か考え込む頻度が増えていったことには気付いていた。とはいえ、わざわざ僕を呼び出して、今更そのことについて話すとも思えない。
 大戦のことでベストジーニストやほかのプロヒーローから僕への伝言、という可能性もある。けれど、そういうときにはかっちゃんを通さず、僕に話が直接来そうなものだ。プロヒーロー、というかヒーロー公安委員会からは、いまだにたびたび僕のもとに連絡がきている。
 ほかに、かっちゃんが僕を呼び出しそうな理由。切島くんたちではなく、僕を呼び出した理由。僕に限定される、かっちゃんに関連した何か……
 そこまで考えたところで、閃いた。
 季節は春。四月の終わり。
 僕が二年生に進級した大学にも、この春新入生が入学してきたばかりだった。そしてその新一年生のなかに、僕が昔から見知った顔がひとり、思いがけず混ざりこんでいるのを僕は知っていた。
「そういえば、苗字さんがうちの大学に入ってきたんだよ」
「知ってる」
 試しに軽く放った話題に、かっちゃんはいつも通りの声音で返事をする。けれど、僕は気付いていた。僕に返事をする前に、かっちゃんの眉がぴくりと動いたことに。烏龍茶のジョッキを握る左手に、わずかに力がこもったことに。
 うわぁ、まじか、かっちゃん……
 今日の呼び出しの理由がはっきりし、僕は謎の興奮と衝撃におそわれた。
 いや、まじか。そうかもしれないとは思ったけれど、本当に、まじか、かっちゃん。
 料理が運ばれてくる。ほかほかと湯気をたてた料理を挟んで、僕とかっちゃんは無言のまま食事を進める。
 と、かっちゃんが唐突に箸を置いた。勢いよくジョッキを手に取ると、烏龍茶をそのままぐびぐび喉に流し込む。
 その様子を、僕はややびびりながら見つめていた。かっちゃんのこういう、シュバッシュバッとした機敏な動作、やたらと迫力があるんだよな……
 やがて、ぷはっとジョッキ半分ほどの烏龍茶を一気に飲み干すと、かっちゃんはダンッとジョッキをテーブルに戻した。
「出久、おまえ二年の前期はそんな忙しくねえっつっとったよな」
「う、うん。この機会にとりたい資格とかもあるから、暇を持て余しているってほどではないけど」
 よくそんなことを覚えてたね、と僕は感心して言った。
 それは少し前、A組のみんなで集まろうという話でグループトークが盛り上がったとき、僕がちらりと話題に出した程度の情報だった。僕の発言に対して、かっちゃんはその時は何のリアクションも示していなかったはずだ。
 かっちゃんは苦虫をかみつぶしたような顔で、僕の前に置かれたかつ丼のかつを見つめている。かと思えば、これもやはり苦虫をかみつぶしたような、というか苦虫を完全に飲みこんでしまったような声で、低く、渋く、うめくような調子で切り出した。
「出久。おまえ、ね、根暗と……
苗字さんと?」
…………
…………
 落ちる沈黙。流れる時間。
 別のテーブルの中年客が「ごっそさん」と厨房に呼びかける声。
 かっちゃんを見つめる僕。
 かつ丼を睨みつけるかっちゃん。
…………
…………
………………
 先に限界を迎えたのは、かっちゃんのほうだった。
「っぱなんでもねえ! 忘れろ!!」
 そう叫んで、残っていた烏龍茶をぐびぐび飲むかっちゃんを見て、僕はついつい言わずにはいられなかった。
「かっちゃん、苗字さんのことが心配なんだ……
「誰がっ!」
「きみが」
「ぐっ」
 言葉に詰まる様子から、図星であると察せられた。やっぱりな、という気持ちと、まじかよという気持ちが、ほとんど同時に湧き上がる。
 そもそもかっちゃんが、この僕に図星をさされて何も言えなくなるということ自体、滅多にあることではない珍事だ。普段のかっちゃんならば、たとえ図星をつかれたところで、めちゃくちゃな論点のすり替えと相手を委縮させる怒鳴り声、開き直りとごり押しを駆使して、必ずや相手を黙らせる。かっちゃんが舌戦で敗北を喫するなど、絶対にありえない。
 多分、自分でも知らないうちに僕は好奇の目でかっちゃんを見ていたのだろう。実際、レアなかっちゃんだな、とは思っていた。
 かっちゃんは僕に視線を戻すと、ものすごく、ものすごく本気で不本意そうに、特大の舌打ちをひとつお見舞いしてから言った。
「悪ィかよ。どうせ世間の大半の大学生なんざ、勉強もせずにアホほど遊びまくってんだろ。あんなクソ陰気女子校育ちが大学なんて行ってみろ、一瞬で食われたあと、遊ばれもせず捨てられて人生終わるわ」
「それは偏見では……。少なくとも僕のまわりは違うし……
「それはてめえがクソナードで、てめえの連れももれなく全員クソナードどもだからだろうが」
「すぐそういうこと言うんだから。知りもしない友達を貶すのやめてよ」
「正論かましやがって、相変わらずムカつくなぁてめえは」
「かっちゃんも相変わらずだけどね」
 相変わらず口が悪くて、相変わらず暴言がひどくて、そして相変わらず、苗字さんのことを気にかけ続けている。別れて二年以上、もうじき三年も経つというのに。
 自分の前に置かれたかつ丼に手を付けつつ、僕は苗字さんのことを考える。
 昔から成績が良くて、頭がいい人だった。中学のころから目立つタイプではなかったし、どちらかといえば静かなグループに属していて、かっちゃんとは僕以上に、接点が皆無だったと思う。
 仲がいいとか悪いとかじゃない。中三の最初のころの苗字さんは、かっちゃんの存在そのものを嫌悪しているというか、接することも嫌でたまらず、極力視界に入れないようにしている、そんな感じだった。
 そしてそれは、かっちゃんの方も同じだったと思う。僕から見れば、むしろかっちゃんの方がたちが悪くて、苗字さんが意識してかっちゃんを視界から排除していたのに対し、かっちゃんは本気で、苗字さんの存在に気付いていなかった、彼の言葉を借りるなら「モブども」として背景扱いしているような、そんな雰囲気だった。
 それなのに、気付いたらかっちゃんと苗字さんは付き合っていて、気付いたらものすごく仲睦まじくなっていた。そういう状態がだいたい一年くらい続いて、けれど、気付いたらふたりは別れていた。
 高校時代、最後に苗字さんとちゃんと会って話したのは、たしか大戦のあと、僕が入院していたときだっただろうか。中学のときとは全然違う雰囲気で、女子ってすごいと思ったし、かっちゃんと付き合うってこういうことなんだな、とも思った。
 大学で再会した苗字さんは、こう言ってはなんだけど、昔の苗字さんに戻ったように見えた。
 かっちゃんと苗字さんがふたり一緒にいるところを、僕は一度も見たことがない。けれど、かっちゃんと付き合ってからの苗字さんが、中学時代と比べて大人びたように見えたのはたしかだ。その大人びた印象が、大学では少し薄れていた。
 かっちゃんと別れたからなのかは分からない。僕に分かるのは、なんとなく印象が変わったような気がするとか、その程度のことだけ。
 ただ、かっちゃんが危惧していることについては、僕にも多少は理解できる。
 今、大学に通っている苗字さんが、かっちゃんが昔好きになった苗字さんに近い姿の苗字さんならば、その状況をかっちゃんはきっと放っておけない。自分が好きになったものを、ほかの誰かが好きになったって、そんなのはちっともおかしなことではないから。
 だからといって、僕を頼るというのも、それはそれでどうなんだ、とは思うのだけれど。
「かっちゃんがどういう用件で今日僕を呼び出したのかは、うん……。なんとなく分かったよ」
 相変わらず渋い顔をしているかっちゃんが、不機嫌そうにこちらに視線を向ける。
「だけど、そもそもの話なんだけど」
 引き続きかつ丼をぱくつきつつ、僕は切り出した。
「そういうことは僕に任せず、かっちゃんが自分で出ていけばいいと思うんだけど」
「あ?」
「大・爆・殺・神ダイナマイトがバックについてること知ってたら、誰も苗字さんに手なんか出さない……、いや出せないんじゃないかな」
 そのくらいのことを、かっちゃんが考えていないとは思えない。けれど、それでも僕には、かっちゃんが自分で出ていかない理由がよく分らなかった。苗字さんにバレたくないにしても、やりようならいくらでもある気がする。
 僕の言葉に、かっちゃんが鼻にしわを寄せた。
……だからこそだろ。俺が出ていくわけにゃいかねえ」
「別れて三年だから?」
「まだ三年経ってねえ!」
 ぐわっとかっちゃんが吠えた。そこはこだわるんだ、と少しだけ呆れた気分になる。いや、こだわるか。かっちゃんはどう見ても、まだ苗字さんのことが好きなのだから。
 かっちゃんはひとつ溜息を吐き、視線を周囲に走らせた。さっき中年男性の客が出ていったことで、店内には僕とかっちゃんのふたりしか客はいない。
 もともと広くない店だし、店員は厨房に引っ込んでいる。今この場には、僕ら以外に誰もいなかった。
 かっちゃんは頭痛をこらえるときのように、こめかみを軽くおさえる。また溜息。それからようやく、口を開いた。
「ここで俺が出ていったら、あいつは大学でもまた『大・爆・殺・神ダイナマイトの女』をやらねえといかんくなるだろ。その役から降りるために別れてんのに、そうなっちまったら意味がねえンだ。ここで俺が出ていけるかよ」
「かっちゃん……
「その点てめえなら根暗のまわりうろついててもおかしかねえからな。陰キャ同士馴染みもする。おまけに、腐ってもてめえは『デク』だ。てめえの周りで悪さするやつなんかいねえだろ」
 かっちゃんの言っていることは、たしかに的を射ているように、僕にも感じられた。
 僕はすでにヒーローを目指すことを諦めた身だけれど、市民のほとんどはまだ大戦の記憶を最近のものとして持っている。僕の一挙手一投足は「デク」として、いまだ常に衆目に晒されている。
 もちろん、そうではない友人たちもたくさんいる。僕のことをただの緑谷出久だと思って、普通に接してくれる友人も、大学に入ってたくさんできた。
 どちらがいいという問題ではない。ただ、どちらのタイプの人もいるという話だ。
 その意味では、苗字さんはかなりフラットに僕を見ていた。中学時代から僕を知っているから、逆にどちらに寄りすぎているということもない。友人として付き合っていくのなら、かなりちょうどいい距離感だろうとは思う。
 かっちゃんがそこまで考えて、僕にこの話を持ちかけてきたかどうかは分からない。ただ、かっちゃんが今でも苗字さんのことを大切に思っているということだけは、痛いほどよく伝わってきた。そうでなければ、わざわざ僕を呼び出したりしないだろう。
「かっちゃんって」
「んだよ」
「本当に、苗字さんのことが好きなんだね……
「根暗が! 俺を! 好きなんだわ!!」
 かっちゃんの顔が真っ赤になっていた。すごい、あのかっちゃんが、露骨に照れている……。幼馴染の滅多に見ない姿を目の当たりにし、僕はなんとも言えない感動をおぼえていた。
 思い返せば、かっちゃんには昔から信じられないほど嫌な思いをたくさんさせられてきた。けれど同じくらい、高校に入学してからはお世話になってもいる。
 ここで少しでも恩を返せるというのなら、僕としてもそれはもちろん、やぶさかではなかった。無理難題を押し付けられているわけでもない。とはいえ、あまり過剰な期待を寄せられるのは困る。
「別に、苗字さんのこと気にかけておくくらいなら、僕は構わないんだけどさ。でも僕と苗字さんじゃ学年も学部も違うし、ずっとってわけにはいかないよ」
「出久の勉強の邪魔にならねえ程度でいい」
 即答するかっちゃん。その点については、すでに想定問答を済ませてきたらしい。
「そもそも、出久に何かしろってわけじゃねえ。わざわざ苗字に接触しにいく必要もねえ。出久は普通にしてりゃそれで十分だ」
 かっちゃんのその言い方で、僕は理解する。これは端から、そういう話なのだ。
 かっちゃんにとっては、僕に話をしておくこと自体に意味がある。僕を呼び出し、この場で顔を合わせている時点で、かっちゃんにとっては目的の半分くらいは達成されているのだろう。
 こうして僕に伝えておくだけで、僕はこれから意識の端で、なんとなく苗字さんのことを気にかけるようになるだろう。最悪、苗字さんの話すらしなくても問題はない。かっちゃんに呼び出された時点で、僕はその理由を考える。そのなかで、当然苗字さんのことも思い出す。それだけで、かっちゃんにとっては十分だった。
 僕の意識のなかに、一度苗字さんを滑り込ませておくだけで。
「確認だけど、このこと、苗字さんには何も言わなくていいんだね?」
「つーか、言ったら殺す」
 そう言って、かっちゃんは僕の目を正面からまっすぐ見据えた。
 さっきまでの照れた顔ではない。今のかっちゃんはもう、真剣な顔で僕に向かい合っていた。
苗字だけじゃねえ。このことは、俺とお前以外の誰にも言うな。それから、今後苗字について、俺に何か報告したりとか、そういう必要も一切ねえ。俺からも聞かねえ。監視してほしいわけでもねえしな」
 淡々と言われ、思わずごくりと息をのんでいた。かっちゃんは、あまりにも真面目な顔をしていた。ともすれば弱みともなりかねない話を、真剣に、腹を割って僕にしているのだ。そのことの重みが、今更のように実感となってやってくる。
 きっとこの件について、かっちゃんが僕と話をするのはこれで最後だ。報告もいらないということは、つまりそういうことだろう。これはそういう、かっちゃんにとっては成果の見えない、ただ、僕に貸しをつくるだけの約束。
 目の前のかっちゃんは、照れてごまかしたり、必要以上に格好つけたりしていない。自分が出ていけない場面だからこそ、真剣に僕に頼み事をしている。
 別れて三年、いや二年半以上経っている恋人の身を案じるのに、かっちゃんはこういう顔をするのだ。
 それならば、僕も報いようと思った。かっちゃんがそこまで真剣に、苗字さんのことを思っているのなら。かっちゃんの幼馴染として、ふたりを中学時代から知っている人間として、僕も応援したかった。
「わかった。僕でよければ引き受けるよ」
……助かる」
 そう言ったかっちゃんの肩から、ほんのわずかに力が抜けたのが分かった。見ると、かつ丼をほとんど食べ終えている僕とは対照的に、かっちゃんが注文したチャーハンはまだ半分以上残っていた。
 ようやく食事に専念し始めたかっちゃんに、僕は少しだけ悩んでから、追加で問いを投げかけた。
「かっちゃん、これはなんていうか……他意のない、純粋な疑問なんだけど」
「んだよ。回りくどい前置きやめろ」
「もし、苗字さんにその……好きな人ができたら、そのときはかっちゃん、どうするの」
 この話を始めたときから、じつはそこが引っかかっていた。
 僕がこの話を引き受けることに決めたのは、かっちゃんが報告のひとつもいらないと、そう言ったからだ。何かあったら言え、なんてかっちゃんが一言でも言っていたら、多分僕はこの話を断っていたと思う。
 うっかりすると、この話自体がストーカーっぽいというか、若干のあやうさをはらんでいるように思えなくもない。そしてそれは多分、そこに苗字さんの意志がまったく絡んでいないからだ。
 苗字さんから頼まれて、僕が苗字さんと親しくするわけではない。そこには打算と思惑が存在していて、苗字さんはそれを知らない。そういう状況は、やはり少し気が咎める。
 かっちゃんが苗字さんのことを、いまだに大切に思っているのは十分伝わった。それはいい。思うのは自由だし、誰に迷惑をかけているわけでもないから。
 ただ、その反対が必ずしも成り立つとは限らない。苗字さんがかっちゃんを、とうに吹っ切っているとしたら。その場合、かっちゃんの思いは完全な空回りということになる。
 僕のこの質問は、かっちゃんにとってはかなり失礼なものだったと思う。正直、怒られることも覚悟していた。
 けれどかっちゃんは、僕の質問を静かに受け止め、
「そんときゃ、諦めるしかねえだろ」
 やはり静かに、そう答えた。
「んなもん、当たり前だろうが。だいたい、俺らとっくに別れてんだぞ。別れた後のこと強制する権利なんか、俺にもあいつにもお互いねえだろ」
「それはそうだけど」
 正論だ。一分の隙もない正論。それだけに、返す言葉が思いつかなかった。
 言葉を選びあぐねる僕にかまわず、かっちゃんは続ける。
「今でもたぶん根暗が俺を好きだって自信は、まあ、ある。けど、実際ンとこは分かんねえだろ。これからどうなるかだって、何も確かなことはねえ。大学の四年は長ェだろうし、そもそもあいつが四年で勉強をやめられるとも思えねえ。ほぼ間違いなく、あいつは大学に住み着いて出てこねえぞ」
「勉強好きなんだっけ、苗字さん」
「クソみてえなガリ勉だからな。そのうえ、あいつは元々は俺みてえタイプより、根暗と同じ地味でパッとしねえ、優しいんだか頼りねえんだか分かんねえようなんが好きだしよ」
「そうなの?」
「中学ン頃思い出しゃ分かるだろ。男として云々以前に、人間としての好悪の話だ」
 忌々しげに、かっちゃんが鼻を鳴らした。
 中学時代のかっちゃんと苗字さんが、お互い嫌いあい、いがみあっていたことを言っているのだろう。たしかに苗字さんとかっちゃんは、本来は水と油のようなものだった。
 本来は惹かれあうはずもないはずのふたり。少なくとも、かっちゃんはそう思っている。惹かれるはずがないのに、どういうわけかくっついてしまった。運命がねじまがって、おかしな方向に向かってしまったふたり。かっちゃんの口ぶりには、そういう意識が透けてみえる。
 僕はこれまでずっと、かっちゃんと苗字さんのことを、運命のふたりのように思っていた。コミックにあるような、初対面の印象最悪なふたりが惹かれあい、数多の苦難を乗り越えたさきで、最終的には強いきずなで結ばれる。なんとなく、ふたりにはそういうイメージを当てはめていた。
 だけど本当は、ふたりが結ばれたのは奇跡のようなものだったのかもしれない。
 嫌いあって、いがみあって、煩わしく思いあって。本当ならば中学三年間で接点を持たなかったふたりは、高校に進学した時点で、さっさとお互いを忘れていたはずだ。
 そしてそれきり、互いの人生にかかわりなど生まれるはずもなかった。
 普通に考えれば、そっちのほうが自然なはず。同じ中学三年を十回やりなおしたら、多分九回はそういう展開を迎える。
 だけど、そうはならなかった。そうならなかったからこそ、一度手を放してしまったことが、今のかっちゃんには余計に重たくのしかかっている。
 奇跡は二度は起こらない。
 起こそうと思わなければ、絶対に。
「根暗んとこの母親にも、あいつにいい相手ができたら、そん時ゃ身ィ引いてほしいって言われとるしな」
「え!? かっちゃん、苗字さんの家族とまで付き合いあるの!?」
「多少はな。保険みてえなもんだ」
 何の保険、とまではかっちゃんは言わなかった。けれど、これもやはり、できることすべてをやろうとした結果なのだろう。奇跡的につながった苗字さんとの縁を、断ち切ってしまわないように。
「本当に、かっちゃんって……
「あ? んだよ、殴り合いなら相手になってやる」
「なんでそうなるの」
 僕にとって、かっちゃんは昔から、勝利そのものだった。かっちゃんが負けるところなんか見たくないし、実際、完膚なきまでに敗北したことなど、これまで一度もないんじゃないだろうか。
 小さな敗北はあっても、そのあとで必ず、もっと大きな勝利をおさめてくる。かっちゃんはいつだって、最後には勝って笑っていた。
 それならば今回も、きっとかっちゃんは勝つだろう。本気で勝ちを獲りに行く。
 勝つための泥臭い努力は厭わない。少しでも勝率を上げる努力を積み上げることを、かっちゃんはまったく躊躇しない。苗字さんには、少し気の毒ではあるけれど。
苗字さん、大変なひとに好かれちゃったんだなぁ」
「鈍くさく捕まる間抜けが悪ィだろ」
 鼻を鳴らしたかっちゃんの耳は、お酒も飲んでいないのにやけに赤く染まっていた。