めまめ
2024-08-23 21:48:27
8282文字
Public 村荒
 

もしもの話

村荒
むらかみ君が違う世界のあらふね君に会う話。

たくさんあるうちの未来の一つ、または得られなかった未来の一つ。マルチバースのような感じ。100%のハッピーエンドではないかも。

 花火大会の開始時間が近づくにつれ、会場である川へ向かう人がどんどん増えている。屋台の並ぶメイン通りは、すし詰め状態になりつつあった。焼きそばやたこ焼きの匂いを嗅ぎながら、オレと荒船は人の流れに逆らい、屋台の裏を抜けて脇道に入った。
 道を一本挟んだ向こうで提灯の明かりが微かに揺れている。地元の人間しか通らないような裏通りには浴衣を着た人がごくたまにいるくらいで、ひと気がない。二人分の下駄の音をカラコロと転がしながら、オレは荒船の指先に触れる。浴衣の袂が擦れ、掬い上げるように手のひら全体を包めば、きゅっと握り返される。
 荒船と手を繋ぐたびに、初恋のようなときめきを感じる。ずっと追いかけていた背中が隣にあるのが信じられず、今でもたまに夢ではないかと疑ってしまう。荒船の横顔をこっそりうかがうと、荒船が照れたような笑みを浮かべた。
 おじいさんから譲り受けたという濃紺の浴衣がよく似合っている。オレも来馬先輩が貸してくれた浴衣を着てきたけれど、荒船ほど着こなせている自信はない。しかも香水よりももっと控えめなお香の薫りが隣から漂ってきて、なんだかムズムズした。
「荒船。神社ってもう少し先だったよな」
「覚えてたのか」
「もちろん」
「さすが」
 ヨーヨー釣りでとった緑色の水風船が、荒船が歩くのにあわせてちゃぷん、と揺れた。
 三門市主催の花火大会に行くのは今年で二回目だ。オレの地元にも花火大会はもちろんあった。しかし三門の大会は出店の数も花火の打ち上げ数も、なにもかも規模が違いすぎた。
 一回目のときは穂刈や当真が先頭に立って案内してくれたのだが、オレは地元とは比べ物にならないほどの人出に翻弄された。圧倒されすぎて、見かねた荒船がこっそりとオレだけを「ほとんど知られていない穴場」という神社に連れ出してくれたくらいだ。
 穂刈たちには悪いと思いつつ、そのまま荒船と二人で花火を見た。三門で見る花火の迫力に、オレは写真を撮るのも忘れて見入ったのをよく覚えている。
 オレたちは今年もあの神社に向かっていた。去年と違うのは、穂刈たちはいなくて、最初から荒船と二人っきりだということ。その事実にニヤけてしまいそうになる。
「そっちが近道」
 荒船に言われたとおり、一軒家に挟まれた道を進む。並んで歩くのにはやや窮屈なので、繋いでいた手を離し、オレが先を歩いた。道が開けると、小さな石鳥居が見えてくる。鳥居の手前には用水路が流れ、そこに二、三歩で渡れてしまうほどの石橋がかけられている。
「鋼、悪い。下駄になんか入ったから、待ってくれ」
 石橋を渡りきったところで、オレは振り向いた。荒船は石橋の前でしゃがんでいた。
「大丈夫か?」
 オレが石橋を戻ろうとしたとき、夜空が真昼のように明るくなった。どうやら開始時刻を回っていたらしい。どぉん、という音とともに、大会のオープニングに相応しい大輪の花火が、連続して打ち上げられた。
 神社の拝殿の背後に咲く花々に本格的に目を奪われそうになり、頭を振った。こんなキレイな景色は、荒船と見たい。
「今のすごかったな」
 言いながら振り返る。
「荒船?」
 石橋の先に、荒船はいなかった。
 どこに行ったのだろう。あたりを見回しても、ただ暗闇があるだけだった。
 どん、どん、と今度は朱色の花火があがった。
……鋼?」
 聞き慣れた声がして、再び前を向く。拝殿のほうから荒船が歩いてくるのを見つけ、オレは下駄を鳴らして駆け寄った。
「急にいなくなったからびっくりしたよ。どこにいたんだ?」
「どこって……すぐそこだけど……
 荒船は困惑の表情を浮かべていた。ぼーっとしていたオレに痺れを切らして先に行ってしまったのかもしれない。
「そっか。でも心配になるから、今度先に行くときは声をかけてくれ」
 オレは巾着袋から綿のハンカチを取り出し、荒船の額に滲んでいた汗を拭った。前髪を指先で梳く。荒船の両肩が、びくりと跳ねた。
「荒船、あっちのほうが見やすいから行こう」
 オレは荒船の手をとった。指を絡めようとしたのに、荒船の手のひらは堅いままで、オレを受け入れてはくれなかった。それどころか怯えたような目つきであとずさる。行き場を無くしたオレの手は、宙を彷徨った。
「荒船……? どうしたんだ?」 
「どうしたもなにも、その、おかしいだろ。そもそもおまえ、今日来ないって言ってなかったか? 俺とは約束してねえだろ?」
 荒船の言葉に血の気が引いた。約束を無かったことにされるほど、怒らせていたのか。
 荒船がさらに一歩後ろに下がったので、咄嗟に手首を捕まえる。荒船がまた肩を震わせる。力任せに手を振り解かれそうになり、オレは必死に荒船の腰を抱き寄せた。
「おい、なんだよ!」
「ごめん、オレ、本当に……! 怒らせたなら謝るから、逃げないでくれ」
 オレの懇願は聞き入れられなかった。どん、と荒船に突き飛ばされる。絶望で目の前が真っ暗になった。もう指先すら動かせなかった。恋人に、荒船にここまで拒絶されて平静でいられるわけがない。オレはほとんど涙が混じった声で、あらふね、と縋るように呼んでいた。
……鋼。どうしたんだ? なんか、今日のおまえ変だぞ」
 思ったよりも近くで荒船の声が聞こえた。オレはゆっくり顔を上げる。眉根を寄せた荒船が、オレの顔を覗き込んでいた。心底困っているふうだった。
「そんな情けない顔すんなって。突き飛ばしたのは、悪かった。ごめんな」
 荒船がオレの肩を軽い調子で叩く。そして眉をひそめ、
「でも鋼も悪いんだぞ。あんな、手ェ繋ぐみてえな……冗談でも驚くから、今後はやめろ」
 と言い放った。 
「も……う、オレと、繋ぎたくないって、こと?」
 心臓が潰れそうだった。まるで空気が無くなってしまったみたいに、呼吸ができない。
「はあ? 当たり前……いや、前提が違うな。俺たちが繋ぐ必要なんかないだろうが」
「なに、なんで、オレ、オレは」
「だーかーら……!」
 荒船が声を荒らげる。するとオレたちの諍いなんか関係ないというように、空がひときわ明るくなった。バチバチと金色に弾ける花火が、拝殿と木々の間からこぼれる。目が眩むほどのまばゆさに、オレも荒船も、たぶんほんの少しだけ冷静になった。
……あれ、荒船。浴衣どうしたんだ? 脱いだのか?」
 花火の輝きのおかげで、違和感に気づく。荒船は、いつのまにかTシャツとベージュのズボンを穿いていた。それだけではなく足元は下駄からスポーツサンダルに変わっている。
「脱ぐどころかハナから着てねえよ。そういう鋼こそ、『今年は行かない』って言ってたくせに、浴衣着て気合い充分だな?」
 荒船もやや落ち着きを取り戻したのか、幾分表情がやわらかくなっていた。オレは自分に言い聞かせるように、荒船に訊ねた。
「オレは今日、浴衣を着た荒船と花火を見に来た」
「俺は浴衣も着てないし、……鋼じゃなくて、違うヤツと来てた」 
 オレたちは黙りこくった。
 絶対に、何かがおかしい。荒船と顔を見合わせる。
「ちょっとそこに座ろうぜ」
  
 境内にあった簡素なウッドベンチに並んで座ったオレたちは、今日の自分の行動を話すことにした。
「オレたちは、三門川駅で待ち合わせた。それで屋台で買ったお好み焼きを荒船と半分こして、あとはヨーヨー釣りもした」
 オレが説明すると、荒船は「そんなことやってない」と首を横に振った。オレと荒船は二人して顔をしかめた。
「多元宇宙論ってとこか」
「え?」
 考え込むようにしていた荒船から、耳慣れない言葉が飛び出た。
「宇宙はひとつじゃなくて、複数の宇宙があるってやつ。かなりざっくり言うと、『別の世界の村上と荒船』になるか」
「なるほど……?」
 わかっているのか、わかっていないのか。オレはそんな相槌を打ったあとで、唾を飲み込んだ。
 つい最近荒船と観た映画の中で、そんな設定があったはずだ。映画を見終わったあとで「イフの世界ってことなのか」と荒船に質問したら、多世界解釈とか分岐とか熱心に教えてくれたのに、難しくていまひとつ理解できなかった、アレだと言うのか。
「荒船は、今のオレたちはいつもと違う世界にいる、って考えてるのか?」 
「ああ。もしくは『俺が鋼の世界にいる』のか『鋼が俺の世界に来た』のか、それはわからない。どっちにしろこの状況は、『別の世界に住む俺たちが出会った』って可能性が高いと思ってる。おまえが嘘ついてるとも思えねえし。鋼は、どう思う?」
 オレは荒船の意見を頭の中で整理しながら、口を開く。
「正直、受け止めきれない部分はある。そんなことが現実に起きるんだろうかって。でももしそうなら、オレと荒船の食い違いにも納得がいくから……うん。オレも、その可能性はあると思う」  
「そうか。まあ、言ってる俺も信じきれてねえよ。半信半疑ってところだ」
 荒船がはーっと深いため息をついた。背もたれのないベンチから仰け反るようにして空を見上げている。オレも、同じように花火を眺めた。
「鋼の世界では、今は何年の何月なんだ?」
「〇〇年の八月だよ」
「こっちと同じだ。別の世界の俺たちなのに、時間のズレは無いのか。世界が並行してんのかな」
 奇妙奇天烈なことが起きているというのに、荒船は飲み込みが早いというか、順応性がすごい。おもしろいな、と笑う荒船を、ついじっと見てしまう。
『別の世界の荒船』は、笑いかたも、ふとしたときの仕草も「オレの世界の荒船」とまったく同じだ。ここの荒船のほうが、少しだけ髪が長いか。荒船はオレの観察じみた視線に気がついたのか、居心地悪そうにベンチに座り直した。
「鋼は」
「え?」
「俺に訊きたいことはないのかよ」
 先ほどとは逆に荒船に見つめられ、オレは口ごもった。気になっていることは、もちろんあった。しかし、確証を得るのが恐ろしかった。
「今日の花火大会、荒船は誰と来てたんだ」
 花火の火花を反射する荒船の瞳に誘われるように、オレは恐る恐る訊いていた。
 荒船は目を丸くして、それから吐息のような声で、はっきりと言った。
「彼女と」 
 薄々、そうだろうと思っていた。別世界説に加え、さっき荒船に触れたときの反応から、予想はしていた。とはいえ事実を突きつけられるとキツい。オレは浴衣の胸元をギュッと握る。
「そ、っか」
「彼女とは途中ではぐれちまって。会場近くでゼミの友達と会ったって連絡あったから、この人混みじゃ合流は難しいだろうし、向こうはそのまま友達とまわるってことになったんだよ」
「それで荒船は、ここにひとりで来たのか」
「ああ。帰るのももったいないからな。それにしても、鋼がここを知ってるのは意外だった。知る人ぞ知るって場所なのに」
……去年、荒船が連れてきてくれたんだ」
 オレはぎこちなく笑い返す。荒船は腕を組み、首を傾げる。
「去年? 去年なら俺も鋼たちとこの花火大会に来たぜ」
「え、じゃあ射的は? 俺は、そのとき荒船と一緒に射的をしたんだが、そっちは?」
 思わず荒船のほうへ身を乗り出す。荒船は腕を組んだまま、それとなくオレから距離をとった。オレはわずかに傷付きつつも、仕方がないと無理やり自分を納得させる。
「あー射的もしたな。おまえは一等の的を撃って、景品貰ってた。そのあと全員で川原に移動して、花火見て、ファミレスで飯食ってから解散。それがどうかしたのか?」
 荒船は昔を懐かしむように目を細めている。
 荒船の話を聞きながら、落胆のようなものを感じていた。オレの心はジクジクと悲しみを訴えていて、気を抜くと押し潰されてしまいそうだった。
 オレは『荒船の世界』がどんな世界なのか、わかりかけていた。
 
 去年の八月、オレは荒船に告白した。荒船のことがずっと好きで、でも告白するタイミングを掴めないでいたときに、穂刈に花火大会に誘われた。荒船も来ると聞き、チャンスだと思った。意気込みすぎたオレはカッコいいところを見せたいあまり、無謀にも荒船に射的勝負を挑んだ。当然、惨敗した。カッコつけることはできなかったけど、最後のほうは荒船のレクチャーのおかげで、屋台で一番小さい的を倒せた。
「センスあるじゃねえか」
 荒船は自分のことのように喜んでくれた。それだけでオレも嬉しくなった。順番待ちをしていた犬飼が銃を構えると、荒船と穂刈から「構え方が甘い」と野次が飛ぶ。そのやりとりを横目に、オレは屋台の人から景品を受け取った。
 景品として渡されたのは、オレの手のひらに収まる程度の小さなプラスチックのケースだった。ピンク色のやや分厚いケースは真ん中で開くようになっていた。化粧品かな、と思いながら蓋を開けた。
 出てきたのは、指輪だった。オレは一度ケースを閉じた。それでまた開けなおした。
 指輪には一円玉くらいの大きさの、キラキラと光る宝石がついていた。もちろん本物じゃない。いかにも女の子が喜びそうな、おもちゃの指輪だ。宝石を模したプラスチックの石の周りを、銀色のツメが彩っている。おもちゃといえど、よくできている。紫色の石もキレイだと思った。
「そろそろ会場に移動すっかー」
 当真に言われ、ケースはひとまずポケットに突っ込んだ。
 たくさんの人が観覧場所に流れていく。うっかりすると他人の足を踏んづけてしまいそうだった。
 オレは焦っていた。この人混みだ。会場に着いてから移動するのは難しいだろう。それに花火があがっている中、荒船だけを自然に別の場所へ連れ出す自信もない。このままだと告白できずに終わってしまう。そんな緊張と焦燥が表情に出ていたのかもしれない。
「大丈夫か、鋼。人混みがキツいのか」
 歩調を緩めた荒船が、心配そうにオレの顔を覗き込んできたのだ。
「吐くか?」
「吐かない」
 吐きはしないが、荒船との距離の近さにどうにかなってしまいそうだった。そわそわしつつ、屋台に挟まれた道を進む。後ろからさらに人がやってきて、先を行く穂刈たちの背中を見失いかけていた。
「鋼、こっち」
 荒船が、オレの手首を掴んだ。手首を掴まれたまま、オレたちは屋台の脇を足早に通り抜ける。ゆっくり走りながら、オレの手を引く荒船の背中を目で追いかけていた。
「花火はちょっと見えづらくなるが、その代わり人はほとんど来ねえ。芋洗い状態で見るより、こっちのほうがゆっくりできていいだろ」
 辿り着いた神社は、荒船の言うように静かだった。さっきの人混みに比べて空気もおいしい。ずっと緊張していたオレはようやく深呼吸をした。
 荒船は帽子を脱いでいた。首筋を流れる汗をぐいっと手の甲で拭い、
「あいつらには内緒な」  
 とイタズラっぽく口角を上げた。
 荒船の笑顔を見た瞬間、オレはポケットからプラスチックのケースを素早く取り出していた。
「荒船。好きだ。付き合ってください」
 オレはケースの中身を——おもちゃの指輪を見せながら告白した。荒船は間の抜けた声で「はあ?」と言ったあと、喉を鳴らした。
「実は、俺も言おうとしてた。俺も鋼が好きだ。……けど、それは気が早えんじゃねえか?」
 荒船は眉を八の字にしたけれど、指輪を受け取ってくれた。
 
 そう。オレと荒船は、去年の花火大会の夜に付き合った。
 オレは隣に座る『荒船』を見つめた。オレの意見を待っているのか、荒船は口を閉じたままだ。
「荒船」
「なんだ?」
「オレの世界では、オレとおまえは恋人同士なんだ。……信じるか?」
 荒船が、息を呑んだのがわかった。
『別の世界のオレ』は、指輪を見せなかったどころか、荒船に告白すらしていないんだろう。タイミングがとか、緊張とか、そういった言い訳を盾に、去年の花火大会で想いを告げなかったのだ。
 オレだけじゃない。荒船は告白の返事で、「俺も言おうとしてた」と言ってくれた。たぶん荒船のほうも、花火大会中にオレに告白しようとしていた。神社に連れてきてくれたのだって、オレの体調を気遣ったのはもちろんあるけど、告白する場所として考えていたと思う。そして荒船がオレを神社に連れ出してくれたからこそ、オレは告白できた。
 けれど『別の世界のオレたち』は違った。どちらも行動を起こさなかった。何もしないことを選んだ。オレはポケットに指輪を隠し持ったままで、荒船は神社へオレを連れて行かなかった。因果関係なんてわからないが、そこで道が完全に分かたれてしまったのだ。

 この世界はきっと、オレと荒船が勇気を出さなかった世界だ。

「恋人……そうなのか」
 荒船がぽつりと呟いた。
「ああ」
「『俺たち』は付き合って、どのくらいなんだ」
……一年くらいかな」
「ふーん」
 荒船が空を見上げる。惑星の形の花火があがった。 
「いいなあ」
 消えそうな声で、荒船は言った。
「あらふ……
「荒船っ」 
 突如オレと荒船の間に割って入ってきた人物を、荒船はポカンと見つめていた。オレはなぜかあまり驚かなかった。
「こ、鋼……?」
「荒船! 大丈夫か?」
 どうやら、オレのほうが『別の世界』に紛れ込んでいたらしい。『別の世界の村上鋼』は荒船を庇うようにして立ち、睨みつけてくる。オレはまた、胸が締めつけられたように苦しくなる。
 そんなに汗だくになって荒船のもとに駆けつけるなら、あのとき勇気を出せばよかったのに!
『別の世界の村上』に言ってやりたかった。でも言えるわけがない。ここにいるオレだって、荒船に告白したら関係が壊れるかもしれないと怯えていたのだから。告白を選択しなかった『オレ』の恐怖も、痛いほどわかる。
「じゃあ、オレはもう行くよ」
 オレは石橋に向かって歩きだす。帰り方があっているかは、わからない。けれど『オレ』がそっちから走ってきたから、同じようにしたら帰れるんじゃないかと思った。
 鳥居を出たところで、背中越しに後ろを見る。
『別の世界の村上』はやっぱり険しい顔をしたままで、荒船がその後ろでこっそり手を振っていた。オレも手を振り返してから、石橋を渡った。
 


「起きたか」
……オレ、寝てた?」
「まあ、そんな感じだな」
 目を開けてすぐに、荒船の顔が飛び込んできた。
「急に起き上がるな」
 慌てて起き上がろうとすると、荒船に額を押し返された。大人しく元の位置に戻る。後頭部が弾力のあるものに包まれる。ひざまくらをしてくれるのはとても嬉しいが、荒船の脚が痺れないか心配だった。
「痺れてきたら遠慮なくどかすから、気にすんな」
 オレの考えなんてお見通しらしい。頼もしい言葉に甘えて、少しの間ひざを借りることにした。
 オレを見下ろす荒船からは、お香のいい匂いがした。荒船の浴衣の衿が崩れかけていたので、寝っ転がりながら手を伸ばし、衿を整える。荒船はちょっとだけ呆れたように唇を歪め、オレの額を右手の指で弾いた。
「荒船、あのさ」
「おう」
「花火、終わっちゃったな」
 オレは静まり返っている夜空を指差した。 
「また来年見ればいい」
 荒船は空には目もくれず、オレをじっと見据えた。そしてオレの目尻を優しく撫でた。
 みぞおちのあたりが、ぎゅうっとなった。オレはゆっくりと起き上がり、荒船の背中に腕をまわす。
『別の世界の荒船』が、いいなあ、と呟いたときの、あの寂しい響きが忘れられない。
 ——きっと、彼はまだ。
 こちらの世界のオレと荒船が恋人同士だということを、『別の世界の荒船』に教えたのは良くなかったかもしれない。それでも知ってほしかった。村上鋼は荒船哲次を愛していると、羨望の眼差しでオレを見つめていた彼に知っていてほしかった。
 善意の押しつけであり、卑怯な真似だ。それに『オレ』の代わりに『荒船』へ想いの薄片を渡したからといって、彼らの世界は何も変わらないのかもしれない。
 それでも、と思う。
 オレは眼の前の荒船を、強く抱きしめた。
「こう」
 労るように囁く荒船の肩に、顔を埋める。荒船はいつも同じ力で抱き返してくれる。手を振り払われることだってない。なのに、胸の奥から涙がこぼれそうな気分だった。
 オレは、いつか『別の世界のオレたち』が手を繋いで生きられる、そんな未来を願わずにはいられなかった。