めまめ
2024-08-15 22:59:24
8077文字
Public 穂荒
 

【加筆修正版サンプル】とこしえの

穂荒 ※R15
ボーダーにいた頃の記憶を封印された穂刈君が、荒船君と再び出会う話。大学生設定。
全文は本発行に伴い非公開中のため、サンプルのみです。

webイベントのあらうけ!で展示していたものを全文にわたり加筆修正し、本にしました。そのため10,000字程度増えています。

※軽いですが流血描写あり
※記憶封印措置や記憶について捏造が多々あります
※喋るモブがたくさん登場します

 一


 穂刈が目覚めたとき、両親は涙ぐんでいた。
 白い天井、清潔すぎる空気。どれも覚えがなく、しかし父、母、それと中年の男が穂刈を取り囲むように見下ろしていたので、自分がどこかに寝かせられているのだとわかった。母親が涙を拭いながら何かを言っていたが、穂刈のひどくぼんやりした頭は彼女の言葉を理解しなかった。
 穂刈は、ここはどこだと訊ねようとした。ところが音にならず、喉が乾いてつっかえ、咳まで出てくるありさまだった。吸い飲みを手に持った母親に促され、上半身を起こそうとした。だが思い通りに力が入らない。背骨が無くなってしまったかのように身体が傾く。父親に背中を支えられて、なんとか少しだけ起き上がることができた。穂刈は小さな子どものような扱いに羞恥を覚え、水を飲ませようとしてくる母から無理やり吸い飲みを受け取り、そろそろと水を飲んだ。
 両親は、喉を潤す穂刈の様子をじっとうかがっていた。不安げな眼差しの中に、わずかに緊張が混じっている。おそらく心配されているのだろうが、二人分の探るような目つきに居心地の悪さを感じた。
「自分の名前は言えますか?」
 水分が身体に染み渡った頃、ベッドの脇に静かに立っていた男に声をかけられた。首にぶら下げられた社員証のようなものには、ボーダーのロゴが描かれていた。
……穂刈、篤です」
 穂刈が答えると、男はほっとしたように微笑んだ。よく見れば、柔和な顔立ちは白衣に包まれており、穂刈は彼が医者なのだと察した。どうやらここは、病院のようだ。
「篤くん、気分はどうですか? 気持ちが悪いとか、そういったのはありますか?」
「ふわふわするというか……目が回ります、少し」
「そうですか……大事な話をしたいのですが、いまお話ししても大丈夫ですか? あとにしますか?」
「いま聞きます」
 穂刈はなぜか、すぐにでも聞かなければいけないと思った。医者の男は神妙な顔つきで頷くと、手に持っていた封筒から書類を一枚取り出した。
「まず、落ち着いてこれを見てください」
 それは、ボーダーへ入隊する際に書かされた誓約書だった。ボーダーに係るすべての事柄への機密保持の誓い。退職後、知り得た情報は一切口外しないといった内容が書かれている。誓約書の署名欄には、間違いなく己の筆跡で、「穂刈篤」と記入されていた。書き慣れているはずの名前がいつも以上に下手くそなのは、耳慣れない誓約書という文書の仰々しさに怯んだからだ。
 退職したあとの話だろ、こんなもんは。当時の穂刈はそうやってどこかで誓約書の内容をひとごとに感じていたし、サインしたことすら忘れていた。しかし今日、医者の男に誓約書を渡されて、理解した。誓いを果たす日が来たのだと。
「オレは辞めたんですね、ボーダーを」
 噛み締めるように呟くと、めまいのような不快感に襲われた。穂刈は額に手を当てる。両親が近寄ろうとするのを、片手をあげて制した。
 ——辞めたのか、オレは。
 口の中で繰り返し呟く。そうだ、オレは退職した。手に力が入る。誓約書がくしゃりと潰れ、書かれていた名前も歪む。ボーダーに関する記憶のほぼすべてを封じられていると、穂刈はおぼろげながらに確信する。両親がずっと不安そうにしているのは、このせいだ。医者の男がゆっくりと口を開いた
「はい。篤くんの意志によって、篤くんはボーダー隊員ではなくなりました。そして……その様子だと、すでにお気づきかもしれませんね。辞める前のあなたと、城戸、忍田との話し合いのうえで、篤くんの記憶の一部は封印されました」
……なぜ、封印されたんでしょうか。オレの記憶は」
 ボーダーを辞めたことに疑問は湧かないが、記憶封印措置の対象になったことだけは信じられなかった。
「それは言えません。ただ、双方の合意のもと、とだけしかお伝えできません」
 男に毅然と返される。男の口から出た忍田と城戸という人物も、ボーダーにいたときの穂刈の上官に近い人間だったろうに、心当たりはなかった。
 何も覚えてないんだな、本当に。落胆に近いものが胸をよぎった。
「でも、辞めたからといって、篤くんをこのまま放り出すわけじゃないよ。身体に異変があれば、今後もすぐに僕を頼って欲しい。いいね?」
 男はあえて砕けた口調で、穂刈の目を真っ直ぐに見つめてくる。辞めた人間に対して誠実であろうとしてくれるのだから、それだけでもありがたい。「はい」と返事をすると、男も両親も安堵の笑みを浮かべた。
 翌朝の検査で異常が見られなかったため、昼過ぎには退院した。父親の運転する車の後部座席で揺られながら、家族でこれからの話をした。
 穂刈がボーダーを辞めたのをきっかけに、三門市から川を一本隔てた隣のY市に一家で引っ越したのだという。それなのに記憶が封印される前の穂刈は、三門市にいたときと同じように、Y市でもひとり暮らしがしたいと言って両親を困らせたらしい。父親から話を聞いて、わがままにも程があると穂刈自身も驚いた。なぜそこまでひとり暮らしにこだわったのか、今の穂刈には理解できない。けっきょく頑として譲らない穂刈に両親が折れた形となり、実家にマメに顔を出すことを条件にY市でのひとり暮らしが許された。ボーダーの記憶が封じられる以前と以後の記憶も曖昧になっていたから、この目まぐるしい展開についていけなかった。
「ごめんな、迷惑をかけて」
 穂刈の謝罪に、携帯のゲーム機で遊んでいた弟が顔を上げた。
「前の部屋より広くなったから、べつにいいよ」と笑ってくれたので、弟の頭を撫でると照れくさそうに手を払われてしまった。
 後部座席からリアガラスの向こうを見る。市内の中心にそびえたつボーダーの基地が、どんどん小さくなっていく。十数年にも及んだ三門市での生活はあっけなく終わりを迎え、受け止めきれないまま新たな生活が始まる。大切なものを置いてけぼりにしたような気分になり、穂刈はそっと目を伏せた。


 穂刈は白米が好きだが、パンもよく食べる。焼きたての小麦やバターの香りは、白米にはない魅力がある。穂刈が三門市に住んでいたときに足繁く通ったパン屋は、メロンパンや焼きそばパンといった素朴なものが看板商品だった。穂刈はひさしぶりに、そこのパンが食べたくなった。
 両親は、穂刈が三門の地を踏むのを快く思っていない。行くなと制限されることはないが、うっかり三門の話題を出すと、あからさまに歯切れが悪くなる。ボーダーに所属していた息子が記憶をいじられたとなれば、もちろんいい気はしないだろう。だがその心配がやや窮屈で、やはりひとり暮らしを選んでよかったと思ってしまう。
 穂刈はY市の実家で数週間過ごしたあと、ひとり暮らし先のアパートに移った。二階建てのアパートの階段をのぼり、一呼吸おいてからドアを開ける。1Kの部屋には、すでにベッドやラックといった家具が大雑把にだが設置されていた。部屋の真ん中にはダンボール箱も積まれており、箱の側面には黒のマジックで、筋トレ関係、食器、といった具合に中身が記されていた。
 家具の位置をざっと調整してから、穂刈は洋服と書かれた箱に手をつけた。荷解きが終わるまで食事は外食で済ませればいいが、着るものがないと困る。ガムテープを剥がし、蓋を開ける。箱の中には、服がみっしりと隙間なく詰まっていた。そのせいで何着か皺が寄っている。服の皺を伸ばしつつ、しまっておくもの、ハンガーにかけるものと仕分ける。繰り返していくと、服屋に陳列されている商品のように、ピシッと畳まれたワイシャツが出てきた。手に取ってまじまじと眺める。
 こんな几帳面な畳み方、やったことがないし、知らない。箱の側面をもう一度よく確かめる。洋服と書いてあるが、穂刈の字ではない。穂刈よりも、少しだけ右上がりがきつい文字。友人か、ボーダーで知り合った人物が書いてくれたのか。半分の箱はその人の筆跡だったので、引越し業者が荷造りを手伝ってくれたのかもしれない。
 穂刈は苦笑した。記憶がないというのは不便だ。ラックの上段にワイシャツを据える。きれいに畳んであったので、形を崩すのがもったいないと思った。穂刈は満足しながらワイシャツを眺め、荷解きを再開したのだった。

 そうやって整えた新たな部屋での暮らしは、順調ではあったがどこか満たされなかった。大学にも復学してちょうど疲れていたのかもしれない。パン屋を口実に、穂刈の足は自然と三門に向かっていた。
 パン屋のある商店街は活気にあふれていた。人にぶつからないように気をつけながら、のんびりと商店街の屋根の下を歩く。八百屋も魚屋も、主婦や家族連れが行き交い、どの店も繁盛している様子だった。
 三門は特殊な土地だ。幾度となく近界民に攻め込まれても住む人間が居なくならないのは、ボーダーの守護があるからだ。そしてオーバーテクノロジーといってもいいボーダーの技術によって、穂刈は一部の記憶を失った。
 そもそも、記憶が封じられる範囲は決まっている。ボーダーに入隊したという記憶ごと封じることもできるようだが、それは特例中の特例だ。所属している隊員も、ボーダーに保護された一般人と同様に、社会活動に影響が出ないように封印されるのが通常の処理なのだと医者の男が教えてくれた。
 だから穂刈は、ボーダー隊員だったというところまでは覚えている。「封印措置」を言葉通り受け取るなら、記憶は消されたのではなく、穂刈の中に閉じ込められた状態のはずだ。しかしいずれにせよ思い出せないのだから、封印でも消去でもとくに差は感じられないな、と思った。
 うまそうな匂いに釣られ、穂刈は通りかかった肉屋のほうを向く。店頭には簡易的なテーブルが置かれ、そこで惣菜が売られている。ここのコロッケは絶品だ。後ろ髪を引かれつつ通り過ぎようとすると、「今日は牛肉コロッケが安いよ」と声をかけられた。穂刈は足を止める。惣菜を買う予定はなかったが、昼食がパンなのでひとつくらい買っていってもいいかもしれない。なにより、揚げ物の香りが食欲をそそる。
「ひとつ、お願いします」
 長く愛されている店の証拠のように、重ねた年齢が手にも顔にも現れている婦人は、コロッケを手際よくパックに詰めた。
「あの男前なお友達、今日はいないのねえ。喧嘩でもしちゃった?」
 婦人の言葉に、小銭を用意する手がぴたりと止まった。彼女の言っている友達とは、おそらくボーダーの関係者だ。この商店街にも肉屋にも立ち寄った記憶はあるのに、誰といたかまでは思い浮かばなかったから。穂刈は小銭入れに指を突っ込んだまま、硬貨をじゃりじゃりと混ぜた。
 今日は、というくらいだから、きっとその友達とは何回か商店街を訪れたことがありそうだ。何も答えられないでいると、婦人は目元の皺をさらに深くして、
「これ、おまけであげるから。はやく仲直りしてちょうだいね」
 とたおやかに笑った。
 婦人からビニール袋を受け取る。中には、コロッケがふたつ。穂刈はお礼を言って、また歩きはじめる。
 その友達とケンカをしたことがあるんだろうか、過去のオレは。
 ボーダー内だけの、仕事だけの関係で終わらずに、プライベートでも付き合いがあったと思われる、男前の友人。女性に男前と称賛される顔を見てみたいと思った。どんな話をしながらここに来たのか空想するだけで楽しくなるのに、穂刈の足取りはわずかに重くなる。
 記憶が半端に残っていると、こういうときに遣る瀬ない。記憶と嗅覚は深く結びついていると聞くが、ビニール袋から漂ってくるコロッケの香りを嗅いでも、何も思い出せなかった。つい、ため息がこぼれた。
 丁字路を曲がったところに目的の店はある。一軒家に挟まれた、小さなパン屋。周囲を漂う香ばしい匂いを嗅いだだけで、腹の虫が鳴った。白と赤のストライプの屋根には、カタカナで店名が書いてある。コロッケを買った肉屋と同じくらい趣のある店だ。
 出入り口の横にはかわいらしい黄色のベンチが設置されている。二人で座るにはちょうどいいサイズで、穂刈もよく買ったばかりのパンをここで食べた。今日はそこに帽子をかぶった男が座り、ホットドッグに齧り付いていた。穂刈は薄れた思い出の影を探して、ついまじまじとベンチを眺めてしまった。
 帽子の男は、食事を楽しむというより、ホットドッグをただ胃に詰めているだけに見えた。若いのに、くたびれたサラリーマンのような面持ちで、淡々とパンを口に運んでいる。男の雰囲気がなんとなく気になってしまい、不躾に眺めすぎた。そのせいで帽子の男と目が合った。
 男は、目を見開いた。口もあんぐりと開けている。まるで幽霊でも見たかのような反応に、穂刈も驚いてしまう。
 何か憑いてますか、オレの背中に。そう訊きたいくらいだった。不躾に見ていたこちらが悪いのだが、男のあんまりな反応にそのまま店に入っていいのか迷い、とりあえず会釈をしてから当たり障りなく話しかけた。
「おいしいですよね、ここのホットドッグ」
…………はい。同僚が、ここのパン好きみたいなんで、買いにきました」
 おっかなびっくり喋る男はパンを食べる手を止めて、忙しなく帽子のつばを触った。視線が泳いでいる。見知らぬ人間に話しかけられて、警戒しているのかもしれない。
「そうなんですね。……じゃあ、オレも買ってきます」
 不審がらせて申し訳ないと思い、早々に話を切り上げパン屋に入る。ドアが閉まる直前まで、男にじっと見られている気がした。
 食べたかったパンを買えたことに満足しながら外に出ると、男の姿はもうなかった。穂刈はベンチの横を二、三歩通り過ぎたところで立ち止まり、急いで振り向く。見間違いではない。パン屋のロゴが入ったビニール袋が、ぽつんと置き去りになっていた。袋に近づく。ホットドッグが二つと、他にも数点パンが入っていた。おそらくあの男が購入したものだ。穂刈は頭を抱えた。こんなもの、どうやったら忘れられるんだ。
 同僚が、と男は言っていた。ということは職場に差し入れるために買ったのだろう。なら、パンを忘れたことに気がついて途中で引き返すかもしれない。追いかけて入れ違いになったほうがまずい。穂刈は悩んだ。このままにしておくかと決めかけたとき、袋の中にパスケースが紛れているのを発見してしまう。穂刈は再び頭を抱え、次の瞬間にはビニール袋を掴んで走り出していた。
 駅前の広場で、帽子の男を捕まえた。
「忘れてませんか、これ」
 穂刈は肩で息をしながら、袋を男の眼前にずいっと差し出す。往来の激しい駅前で、背が高くもない彼をすんなり見つけられたのはかなり運がよかった。穂刈に呼び止められた男は先ほどと同じか、それ以上に目をまん丸にした。駅のほうをちらちらと見ながら、
「ありがとうございます! あの、おれ、もう行きます、届けてくれて本当にありがとうございます」
 早口で言った。男は何度も何度も癖のように帽子を触っている。男の顔に浮かぶものは焦燥だろうか? さっきから妙に引っかかる態度だが、急ぎの用事でもあるのかもしれない。穂刈もこれ以上、男を引き止める理由はない。久しぶりに本気で走って疲れたが、忘れ物を渡せた達成感もある。穂刈がきびすを返そうとしたときだった。
……半崎? どうした」
 穂刈は、声のほうへ、弾かれるように振り返った。
 彼が視界に入ったとたん、喧騒が消えた。時間が止まったのではないか。そんなふうにすら感じた。声の主は、一度見たら忘れられない、夕暮れ色の瞳を持っていた。
 半崎と呼ばれた少年は、パンの袋を抱きしめたまま立ち竦んでいる。あとから現れた男は穂刈の存在に気がつくと、帽子の下にある整った顔をわずかに歪めた。
 唇をうすく開いては、閉じる。それは呼吸にも似ているのに、ひどく苦しげだった。漏れ出そうとする強い感情を、ぐっと押し込んでいるようにも見えた。なのに、硬質な視線は穂刈から決して逸らされない。穂刈も、男の持つ紫色から目が離せなかった。

(中略)


 穂刈とはどういった関係か。もし誰かに訊ねられたとしたら、荒船は迷わず「身体の関係があるただの友人」と答える。
 人間関係を築くとき、たとえば友達になろうだとか、これからよろしくといった挨拶がある。恋人になるにも相応の言葉があるはずだ。だが荒船と穂刈の間にはそれがなかった。だからセックスをしても、ただの友人のままだった。
 荒船には、神経がひりついて昇華できない日がある。大学生になって息抜きはうまくなったほうだが、それでも胃がぐるぐると不快感を訴えてくると、うまく言葉に表すこともできず、感情を持て余してしまう。高校生のときからこうだ。刺々しいものが全身に溜まって、どうしようもなくなるときがある。
 だから、ほぼ八つ当たりのようなものだった。荒船はふてくされたように2DKのうちのもうひとつの部屋——穂刈の部屋へ——前触れもなく押し入った。座椅子と折り畳みのテーブルで大学のレポートを作成していたらしい穂刈は、荒船の突然の登場に唖然としていた。困惑の視線を無視してズカズカと部屋を横切り、勝手に穂刈のベッドに寝転がった。
 穂刈は何も言わなかった。何も言わない代わりに、静かに観察されているような気はした。荒船は目を瞑り、へたり気味の枕を掴む。穂刈の視線から逃れるようにして、枕をぎゅっと顔に押しつけた。
 穂刈はやはり、文句も疑問も口にしなかった。パソコンのキーボードをリズミカルに叩く音だけが部屋に響く。荒船はこっそり薄目を開けて、穂刈の横顔を見つめた。
「もっとそっちに寄ってくれ、狭いから」
 穂刈はレポートの作成が終わってもなお寝床を占領している荒船を、ころりと壁側に転がした。空いたスペースに窮屈そうに身を収め、こちらを向いて目を閉じた。
 こんなに狭いのに、このまま寝るのか。
 荒船は思い、出ていくべきは自分だと思い直す。でも何も言われないから、ここにいてもいいんだろうか。枕を抱きしめたまま、少しだけ穂刈のほうへにじり寄る。シーツからじわじわと温かさが伝播してくる。荒船も目を閉じた。胃の不快感は消えていた。 
 
 先に触れてきたのは、穂刈だ。
 荒船は次の日も、穂刈のベッドでごろごろしていた。寝転がりながらスマートフォンで映画の予告を観ていると、穂刈が荒船の腰のあたりを跨いで座った。
「荒船。ストレス解消にいいらしい、抱き合うと」
「どこの情報だよ、それ」
 荒船はため息をついた。半身を起こし、穂刈を睨む。
「ネットだ。書いてあったぞ、ハグがいいと」
「おい待てふざけんな。その手はなんだ」
 穂刈の長い手が翼のように広げられている。その真面目くさった顔に、嫌な予感がした。
 同じベッドで寝るのはともかく、ハグなんて暑苦しいだけだ。冗談じゃない。
 こちらに向かって伸ばされる手を押しのける。穂刈は表情ひとつ変えず、荒船に抱きつこうと躍起になっている。二人で暴れれば暴れるほどベッドのスプリングがぎゃあぎゃあと悲鳴をあげた。手を躱し、掴み合う。筋肉量では負けていても、体術ならいい勝負になるはずだ。荒船は勝負を決めるために、寝技を繰り出そうとした。
 けっきょく荒船は、純粋な筋肉に負けた。寝技をかける前に穂刈に抱き込まれ、ベッドに沈んだ。うっすら汗をかいた肌がくっつくと、さらに暑くなった。
「どうだ? 荒船」
 満足げな表情で見つめられては、もう邪険にできなかった。何がそんなに楽しいんだか荒船にはわからなかった。諦めて肩の力を抜き、おずおずと抱き返す。なんだかいい匂いがした。うっとりしているうちに、朝になっていた。穂刈の腕の中で寝落ちした翌日から、抱き合って眠るのが習慣になった。