めまめ
2024-06-24 21:19:05
11490文字
Public 村荒
 

【サンプル】メリーゴーラウンドの灯りが消えた日

村荒
以前イベントに出した村荒本のサンプルです。
R18に設定していますが、とってもぬるめです。挿入なし。触りあってる程度。

左手が動かなくなったあらふね君が、治療のために大規模遠征を控えたむらかみ君の部屋で一緒に寝たり一緒にお風呂にはいったり(付き合ってない)、痛がったりする話。原作程度の欠損描写あり。

 一
 
 茜色に染まりつつある空に、左腕が一本、ふわりと舞うのが見えた。腕はわた雲の中を泳ぎ、二階建ての屋根から地面に吸い込まれていく。持ち主から切り離されてもなお、弧月を握ったままの左手。間違いない。あれは村上に剣を授けてくれた彼の腕だ。では、通信を介して聞こえるうめき声の正体はやはり……
 腕の持ち主が、膝から崩れ落ちた。左肩を押さえ、屋根瓦に両膝をついて背を丸めている。村上の背中を、つ、と冷たい汗が撫でた。村上は、つい一時間ほど前のことを思い出していた。

 英文が書かれたノートの上を、指先が軽やかに滑る。主語、動詞、目的語、ピリオド。村上はじっとそれを見つめる。きれいなカーブを描く爪の先が、不格好な大文字のKに触れた。
「村上くんって字が上手だよね」と女子に褒められたことがあるが、英語を書くのは少し苦手だ。もっと丁寧にノートをとればよかったと後悔した。
「おい、聞いてるか」
「え?」
「見たことない単語だから、意味知ってるなら教えてほしいんだが」
「あ、えっと……
 荒船の怪訝そうな声に我に返った。荒船の指の下にある英単語。先日配られたプリントにも説明が書いてあったはずだ。教授がスペルを間違えやすいので気をつけるようにとも言っていた。講義中の記憶をひっくり返すが、単語の意味は思い出せない。覚えるのが得意なくせに、どうしてこういうときにすぐ出てこないのだろう。
「鋼、疲れてんならちゃんと言え。そろそろ時間だし、最後に辞書で調べて終わろうぜ」
「ごめんな。任務のときはもっと集中するから」
「そこは心配してねえよ」
 ボーダーに所属する隊員の大半は学生だ。そのためテストや進学時期のシフトは乱れやすい。なおかつ今年は遠征選抜試験を挟んだために、防衛任務でもチーム単位ではなく、任務に当たれる人間同士が組むといった臨時の部隊が多く組まれたのだが、村上は運悪く荒船と組む機会には恵まれなかった。
 今日は、かなり久しぶりに荒船隊と防衛任務に就ける。
 だから昨日の夜、荒船に「明日はよろしくな」とメッセージを送った。任務の話をきっかけに、ただ連絡をとりたかっただけというのもある。そのまま他愛もないメッセージを送りあっていると、荒船が任務の時間まで空いているというので、大学が終わったあとに合流して一緒に勉強しようと提案した。
 勉強といっても通っている大学も専攻も違うので、ただ基地のラウンジで各々レポートをまとめたり課題をやるだけだ。高校生のときのように、荒船に教えてもらうことは無くなってしまった。それでも村上にとっては荒船と過ごせる貴重な時間だ。それに、こちらの講義内容に興味を示して質問してくることもあるので、気が抜けないのも良い。
 村上は電子辞書を手に取り、スペルを打ち込んだ。
「へえ……そういう意味があるのか」
 荒船が興味津々といったふうに身を乗り出し、村上の肩と軽くぶつかった。
 ラウンジにはテーブル席以外にもカウンター席があるのだが、ほとんどは大人たちが利用している。カウンター席では必然的に横並びに座らなければいけないので、大人数でくつろげないといった理由から学生には人気が無かった。そのおかげで、賑やかなラウンジにあってもカウンター席では比較的静かに過ごすことができる。勉強するにはうってつけの席だった。
 それに、と村上は思った。荒船を正面から眺めるのももちろんいいが、物理的な距離はこちらが近い。世の中にカップルシートというものが存在しているわけを、身を以て体感した。
 村上は弾む鼓動を隠し、辞書で調べた内容をさっとメモに取る。そのメモとノートを一纏めにして、トートバッグに突っ込む。荒船も筆記用具やプリントをリュックにしまっている。
「いてっ」
 荒船が、びくりと肩を震わせた。
「荒船? 大丈夫か」
「んー」
 荒船はリュックから引っ込めた左手を、魂が抜けたようにぼうっと見つめ、それから小さく口を開いた。
 唇の隙間から、濡れた舌が現れた。中指を咥え、もご、と頬を動かす荒船の表情は明らかに落ち込んでいる。なのに村上はそれに釘付けになってしまった。滲んだ血を飲み込んでいるのだろう、すっと伸びた喉が上下している。村上は震えそうな手で財布から絆創膏を一枚取り出し、荒船に渡した。
 太一にも貼ってあげられるし持っておくと便利だよね、と微笑んだ来馬に倣い、日頃から持ち歩いていたものだ。
「ありがとな」
 唇から中指を離すその音がまたうっとりとするもので、村上は無理やり意識を逸らす。
「かなり深く切ったのか?」
 ぎこちない手つきで絆創膏を巻きながら、荒船が苦笑した。
「俺、人一倍痛いのが苦手なんだと思う。こうやって紙で切っただけでもぞっとするし……痛えなってずっと考えちまって」
「そうだったのか? 知らなかった……
「わざわざ言うもんでもないしな。いまでもたまに、トリオン体でダメージ受けると『うわ』って思うことがあんだよな。まあ、生身と違って痛覚いじれるから助かってるけど」
 痛がりの荒船。村上は口の中で繰り返す。
 いつ見ても涼しげな顔をしているから、イメージが湧かない。しかもさらっと告げられたが、かなりデリケートな内容だ。換装した状態でも痛みを強く感じるときがあるのなら、任務に支障はないのだろうか。
「鋼はどうだ?」
「え?」
「トリオン体の痛覚、あんまり気にならないか?」
「そうだな。オレも最初はびっくりしたけど、いまはとくになにも感じないかな。……それがどうかしたか?」
 ここ最近は、トリオン体でのダメージを痛みとすら認識していなかった。村上にとっては身体を欠損したことによって生じる痛みよりも、行動を制限されることのほうが耐え難い。
「いや、なんでもない。おまえいつも平然としてるから、どうなんだろうと思っただけだ。……行こうぜ」
 村上を推し量るように注がれていた荒船の視線が、ふいっと外れた。荒船はそのままリュックを背負い、椅子から立ち上がる。荒船の態度が少しだけ引っかかった。ただの世間話かとも考え、しかし質問してきた彼の表情は世間話というには真剣そのものだった。疑問を抱きつつ、荒船の背中を追いかけた。

『荒船くんどうしたの? 動ける?』
 加賀美の緊迫した呼びかけに、村上も再び荒船を見る。荒船は蹲ったまま、微動だにしない。
 任務中、一箇所に集中して発生した門に対応するために荒船隊と合流した。鈴鳴第一と組むとき、荒船は狙撃手ではなく攻撃手として動く。元攻撃手、と呼ばれることもあるが、その腕前に衰えはない。荒船は屋根の上で狙撃の援護を受けながら敵を斬り払い、村上は隣家の屋根に飛び上がってモールモッドを捌いていたときだった。
 荒船の背後に、別の門が開いた。二体続けて出現したモールモッドが回避しようとした荒船の体勢を崩し、もう一体が左腕を刈り取ったのだ。二体のモールモッドはすぐに荒船隊の狙撃によって破壊され、そして荒船はその場に崩れ落ちた。
 片腕を失った程度で戦闘を中止する隊員は、B級以上にはほぼいない。なにせ本来の肉体ではないのだ。村上たちが操縦するトリオン体という容れ物は、人間そっくりではあるが、ただの器にすぎない。手足がもがれても戦闘は続行できる。多くの隊員はトリオン体が壊れるまで戦闘を続行するか、戦況と再構築のコストを鑑みて自発的に離脱する。
 だが隻腕になった荒船は、そのどれもをしなかった。離脱するでもなく、目を奪われるような軌跡で弧月を振るうでもなく、ただ地面に蹲っている。苦しげに丸まった背中。残った右手を必死に切断面に押し当てていた。それは失われていくトリオンを留めるためではなく、流れるはずのない血を止めているような必死さがあった。
『荒船くん! ベイルアウトはできる?』
 加賀美の呼びかけにも返答が無い。ひたすら喘鳴が聴こえてくる。 
 荒船の身に、尋常ならざることが起きている。
「荒船!」
 モールモッドを捌ききった村上は、荒船に駆け寄ろうとした。荒船が顔を上げる。帽子の下の苦悶の表情は一転した。近付こうとした村上を鋭く射抜き、その眼差しだけで村上は動けなくなった。まるで自分の仕事をしろ、と叱られているようだった。
 足を止めると、荒船が口元に笑みを浮かべたように見えた。村上は、深く息を吸った。
 ——戦うときは呼吸を整えろ。
 剣を教わった当初から、荒船に再三言われていることだ。
『荒船隊の、荒船です』
 荒船の全体通信だ。息をひそめて耳を傾ける。
『すみません……俺は離脱させてもらいます。待機の部隊から応援を呼んでいますので、少しだけ待ってください』
『来馬、了解』
 荒船はハキハキと喋ろうと努めているようだが、ひどく生気の失われた声色だった。村上は再び深呼吸する。そうでもしなければ、二人の通信に割り込んでしまいそうだった。
『みんな。聞いてたと思うけど、荒船隊長が離脱した。応援が来るまで気を抜かないで』
 来馬自身も、ふう、と気を引き締めるように突撃銃を構えなおす。
「鋼も、平気?」
「もちろん。いけます」
「よし。じゃあ時間まで頑張ろう」
 来馬が平気かとわざわざ訊いてきたのは、村上の心境を慮ってのことだ。荒船のもとに駆け寄ろうとしていた姿を見ていたのかもしれない。それなのに諌めるでもなく、頑張ろうと寄り添ってくれるのがありがたかった。
 燃えるような空に流れ星が放たれ、基地に吸い込まれる。あれは、荒船だ。
『荒船さん、どうしたんすかね』 
 村上は飛びかかってきたモールモッドを弾き飛ばし、来馬の追撃が敵を完全に沈黙させる。
『いまはわからない。太一、油断するなよ』
『りょーかい!』
 別役に返事をしながら、村上は孤月を痛いくらいに握りしめた。べっとりとこびりつく不安を、後輩にだけは悟られたくなかった。

「引き継ぎはぼくがやっておくから、鋼はこのまま本部に行っておいで」
 交代の時間がやってくると同時に、来馬に優しく肩を叩かれる。
「でも……
 本来なら防衛任務後は支部に戻って事務処理などを済ませなければいけない。それを個人の事情で丸投げするなんて。
「いいから。今ちゃんたちにはぼくから言っておくよ」
 まごつく村上に、来馬はことさら柔らかく微笑んだ。
 太陽は完全に沈み、星の暗幕が引かれている。人々はとっくに帰路につき、家族との団らんを済ませ、寝る準備をしている頃だろう。荒船が離脱してから、かなりの時間が経っている。
「ありがとうございます、来馬先輩」
 躊躇っている暇はない。村上は、地面を力強く蹴った。「気をつけてね!」と叫ぶ声が背中をさらに押してくれる。心の中でもう一度礼を言い、基地へと全速で駆けた。
 基地に到着してからも、村上の足は止まらなかった。換装を解除し、荒船隊の作戦室へと小走りに急ぐ。すれ違う職員やC級隊員たちが奇異の眼差しを向けてくるが、会釈を返す余裕は無かった。
 それにしても、こんなときに限って顔見知りに出会わない。誰かいれば荒船の居場所を訊けるのに。思わず舌打ちが漏れた。村上は廊下の端に移動しながらスマートフォンを取り出す。画面にぼとりと垂れた汗をパーカーの袖で乱雑に拭い、穂刈の電話番号を呼び出した。
 暑かった。袖を捲る。無機質な呼び出し音が鳴ったままだ。穂刈も、電話に出られないほどの状況なのだろうか。もし荒船が基地以外の、たとえば病院に運ばれているとしたら。タクシーを呼んでおくべきか?
 一度電話を切っては何十秒後にかけなおしてしまう。村上はスマートフォンを耳に当てながら、廊下を行ったり来たりする。そもそも、基地に来る前に荒船隊の誰かに確認しておけばよかったのだ。詰めの甘さが己への怒りへと変わりつつあった。壁を殴りたいような衝動に駆られた瞬間、
『鋼か』
 村上からの電話を予想していたような、落ち着いた声だった。
「っ穂刈、荒船は!」
『医務室にいる。さっきまで寝てたんだが起きたらしくてな。いまからオレも医務室に向かうところだ、寺島さんの説明を聞きに』
「そ、うか……
 村上は目を閉じて、何度も頷いていた。病院ではなく医務室にいるということは、命に関わるほどの事態ではないのかもしれない。様子がわからないので安心はできないが、穂刈が電話に出てくれたことで、ようやくまともに呼吸ができるようになった。
「すまない。何回も電話してしまって……
『いいんだ。他に訊きたいことがあれば訊いてくれていい。話せるぞ、歩きながらにはなっちまうが』
「ありがとう。……もし可能だったら、オレも医務室に行っていいだろうか」
……そればっかりは判断できねえな、オレだけじゃ。少し待っててくれ、荒船と寺島さんにすぐ確認する』
「わかった。よろしく頼む」
 村上は廊下の壁に寄りかかった。着信にすぐに気づけるように、スマートフォンを手に持っておく。暗くなった画面には自分のぼさぼさとした頭が映っていて、手櫛で適当に整えた。
 他のチームのことに首を突っ込みすぎているかもしれない。しかし眼の前であんなふうになれば、誰だって心配もする。それに、他でもない荒船のことなのだ。
 やがてスマートフォンが震え、村上はすぐにまた走った。


 自動ドアが開くと、中の話し声がピタリと止んだ。三人の視線が村上に注がれ、わずかに緊張しつつ、病院の診察室のようなつくりの部屋を進む。どこか張り詰めた空気の中に、スニーカーと床が擦れる音が響く。穂刈と目だけで挨拶を交わし、村上はその横に立った。
 ノートパソコンが置かれたデスクの前には、寺島と隊服を纏った荒船が、それこそ医者と患者のように向きあって座っていた。
「お邪魔してすみません、寺島さん」
「村上も現場を見てたみたいだし、なにより荒船本人が良いって言ってるからね。オレとしては問題ないよ。ただ、これから喋る内容はいたずらに広めないでくれると助かる」
「はい。それはもちろん。……荒船、ごめん。オレも同席させてほしい」
 荒船が丸椅子を回転させた。
「穂刈から聞いた。シフト終わりなのに、むしろ来てもらって悪いな」
 帽子を取って見上げてくる荒船の声には、覇気がなかった。表情も硬く、トリオン体からでも彼の憔悴ぶりが伝わってくる。それでも村上に気を遣わせまいと、口角を無理やりあげていた。
「よし。全員揃ったし、始めようか」
「よろしくお願いします」
 寺島はじっくりと確かめるように、荒船の両肩から手の甲にかけて満遍なく揉んでいく。その都度、荒船が首を横に振ったり頷いたりと、なにかしらの反応を返す。村上は、審判を待つような気分で二人のやりとりを見つめた。
「どう? 医務室に運ばれてから時間が経ってるけど、あれから変化はある?」
 荒船はすぐに、
「やっぱり、左腕の途中から指先まで感覚がありません。二の腕から下は、重い粘土がぶら下がってるみたいです」
 荒船がそう申告した部位は、夕方の任務でモールモッドに切り落とされた部位と完全に一致する。村上は両目を一瞬だけつむった。荒船の左腕が地面に転がる様が、目に焼きついてしまっていた。
「わかった。じゃあ次は、換装を解いて生身になって」
 荒船が頷くと、ワイシャツにジーンズといったラフな格好の荒船が現れた。寺島が先ほどと同じように生身の肩や腕を検分していく。
 紅茶色の髪が横に揺れるたびに、村上の心臓がバクバクと不快に乱れる。半崎と加賀美の姿がこの場にないのは、どのような診断が下ってもいいように、荒船が立ち会わせなかったのかもしれない。
 荒船はまっすぐ寺島を見て、言った。
「生身も同じです。左腕はまったく感覚がありません。動かそうと思っても反応が無いというか……遮断されている、というのが近いかもしれません」
「そんな……
 村上は思わず呟いていた。トリオン体どころか、生身の腕の感覚まで無いだなんて、そんなことあっていいはずがない。村上は震え出しそうな手を下で組んで押さえつけた。穂刈もひどく苦しげに眉を寄せている。
 なのに、当事者の荒船だけが落ち着き払っていた。青白い顔で、背筋をしゃんと伸ばしたまま、寺島の診断を待っている。彼のそういった冷静さを好んでいるが、逆に今は不安になる。腕が動かないと知って、荒船はなにを感じているのだろうか。
「教えてくれてありがと」
 寺島は、椅子の背もたれに深くもたれかかった。思案するように唸り、「やっぱりこれかな」と言うと、身を起こしてクリップで留められた書類を手に取った。一枚ずつ迅速に目を通し、デスクに戻していく。
「荒船が寝ている間に色々とデータを遡ったんだよね。確かに珍しいけど、こういう……現象というのかな。とにかく前例が何件かあった」
「そうなんですか?」
 一番に反応したのは穂刈だった。「すみません、口を挟んでしまって」
 穂刈は驚きと喜びが混じった声で、すぐに頭を軽く下げた。寺島は気にしてないといったふうに首を振る。
「トリオン体はさ、メシも食えるし汗もかく。制限しているとはいえ痛覚もある。人体構造はほぼ生身と同じだ。だから、思い込みの力っていうのかな。トリオン体と生身の意識的な境界が曖昧になっちゃうことが、まれに起きるんだ」
「曖昧?」
 荒船が訊き返す。
「荒船の場合は、トリオン体に受けたはずの攻撃を、本来の肉体へ攻撃されたって脳が誤認してるんだと思う」
……なら俺の脳みそは、左腕が切断されたと思い込んでるってことですか」 
 寺島が軽く目を見張り、感心したように頷く。
「うん。荒船の言う通り。生身の脳がそう思い込んでるから、換装後の腕も動かせなくなってる」
「なるほど。なんとなく理解しました」
 寺島の説明は、うっすらだが村上にも理解できた。訓練生時代、トリオン体の精巧さに逆に戸惑った記憶がある。斬った斬られたの対人戦に慣れることができず、辞めていく隊員もたくさんいた。
「寺島さん。この腕を治す……、改善する方法はありますか」
 荒船の声は、微かに揺らいでいた。左腕をしきりに触っている。いくら動揺していないように見えても、腕が動かなくなって平気なわけがないのだ。
 村上は、胸が痛くなる思いだった。寺島に質問したいことはたくさんあった。しかし答えを一番求めているのは荒船であって、自分たちが無遠慮に訊いていいものではない。ただただ歯痒かった。その場にいる全員が、固唾を呑んで寺島の言葉を待った。
「ある」
 寺島ははっきりと言い切った。
「不便だと思うけど、最初はなるべく換装せずに生活してほしい。それで左腕に積極的に刺激を与えたり、運動させる。ちゃんと腕はあるって脳が正常に認識してくれれば、良くなっていくはずだ」 
「リハビリ、みたいなものですか」
「そういうことだね。保管されていたデータに、それで回復したと書いてあった。常駐してる医師ともこの方向で意見が合致したよ。……荒船」
「はい」
「過去の例では完治するまでの期間にばらつきはあったけど、回復したって結果がしっかり残ってるから」
「はい、ありがとうございます……!」
 荒船が身体の力を抜いたのがわかった。村上も穂刈も、胸を撫で下ろす。寺島の口調は平坦だが誠実さがあり、データや数字を重視するエンジニアの言葉に心の底から安堵した。
「生身が動かせるようになったら、トリオン体でも試してみよう」
「わかりました」
「それでさっき言った期間なんだけど、三日で治った子もいれば、一ヶ月近く長引いた子もいてね。申し訳ないけどこれに関しては個人差というしかない」
「問題ありません。なるべく早く治るように、リハビリ頑張ります」
 荒船は穏やかに頷く。
「あー、そうだ。レイジから聞いてるけど、荒船も筋トレするタイプの人間なんだって? 怪我が怖いから、治るまで本格的なのはやらないでよ」
 寺島が揶揄うように肩を竦めた。
「さすがにやりませんよ」
「絶対だよ。っていうか穂刈も筋肉鍛えるの好きなんでしょ? よく見たら村上もがっしりしてるし……高校生の間では筋肉愛でるのが流行ってるの?」
「オレはそこまでじゃ……穂刈に比べたらまだまだです」
「いや。いい線いってるぞ、鋼も」
 村上が焦って否定すると、部屋にはようやく笑いが生まれた。回転椅子でぐるんと振り返った荒船の表情も明るく、「安心した」と微笑むのにつられ、村上も笑い返した。
「そういえば荒船は実家だっけ」 
「はい、実家です」
「その腕で家に帰っても平気そう? 必要なら忍田さんから親御さんに説明してもらおうか」
「そうですね……親もなんですが、とくに祖父に心配をかけたくなくて……
 荒船が思案するように口元に手をやった。荒船の祖母は、第一次大規模侵攻の際に亡くなったのだと話してくれたことがあった。それ以上は語らなかったが、悲哀と赫怒の入り混じった荒船の眼が、全てを物語っていた。悲しい思いをした祖父には、元気な孫の姿を見せていたいのだろう。
「なら、治るまで本部に泊まってもいいよ。ただ、今は研修の職員が来てるからすぐに空室が無くてね。三日くらい仮眠室暮らしをしてもらって、空いたら移動って流れになると思う」  
「もう少し、考えてもいいですか?」
「わかった。オレはその間に渡す用のデータまとめておくから」
 寺島はそう言って、パソコンの方を向いた。荒船は寺島のキーボードを叩く勢いに面食らいつつも、ふーっと大きく息を吐き出す。
 仮眠室のベッドにはひとつずつカーテンが備えてある。しかし、人の出入りも多く、プライベートの確保は充分ではない。慣れない片腕生活では気苦労も多いはずだ。いずれ移動するにせよ、仮眠室で三日も過ごすとなると精神的にも疲労が溜まるだろう。村上は荒船に声をかけようとして、いったん口を閉ざした。
「来るか? うちでよければ。オレと同じ部屋になっちまうが」 
「穂刈も実家だろ。それに弟に気を遣わせるのもな……
「気にするな。むしろ喜ぶぞ、荒船さんが泊まりに来てくれたって」
 穂刈が目元を和らげた。荒船はそんな穂刈を見上げながら、どうするかと悩んでいる。
 二人は同じ隊で、真っ先に相談しあうのは当然だ。なのに侘しさは澱《おり》となって積もっていく。積もったのなら奥底で沈んだままでいてくれればいいのに、ときおり激情に駆られたように心の上のあたりまで濁らせてくるのが厄介だった。そしてそうなると、村上はたまに抑えが利かなくなってしまう。
「あの、」
 荒船どころか寺島までこちらを不思議そうに見ている。村上はつっかえそうになりながら、なんとか言葉を紡いだ。
「オレの住んでるアパートに来るのはどうかな。リビングと、あとはひと部屋しかないんだけど、それなりに広くて。支部も近いから、なにかあれば来馬先輩たちにも相談できるから……もちろん荒船が、よければ、だけど……
 本部の方が安全なのではないか。穂刈の家の方が心置きなく過ごせるのではないかと、自ら提案したくせに不安になってくる。ひとり暮らしのため家事も自分たちで全てやらなくてはいけないし、荒船にとって村上の部屋にくるメリットは少ない。しかし微力だとしても、悩んでいる彼の助けになりたかった。
 恐る恐る反応を窺うと、荒船はすっと椅子から立ち上がった。
「もし、鋼が本当にいいなら。世話になってもいいか?」
「もちろん! 明日から、ぜひうちに来てくれ」
「残念がるな、弟が」
「穂刈の家はまた改めて遊びに行かせてもらうな」
「決まったみたいだね」
 タイミングを見計らっていたのか、寺島が茶色の封筒を荒船に渡した。
「同じ内容をメールでも送るから、見やすいほうで確認しておいて。それと大変だと思うけど、毎日ボーダーの端末から経過を送ってほしい」
「わかりました。すみません、寺島さん。遅くまで付き合っていただき、ありがとうございました」
「いいよ、これも仕事だから気にしないで。エネドラの相手をするより疲れないし」
 ぶっきらぼうにも聞こえるが、これが寺島なりの気遣いであることは交流の少ない村上にもわかった。
 夜遅いこともあり、三人とも基地に泊まることにした。荒船は念のために医務室、村上と穂刈は仮眠室だ。パソコンを借りて仮眠室の使用を申請していると、
「荒船、念のためもうひとつ確認していい?」
 寺島は、村上と穂刈をちらりと見た。荒船は「構いません」と頷いた。
「最近、なにか心配ごとはある? もしくは心境の変化」
「それは……
 荒船は肯定もしなかったが、否定もしなかった。さらに、自分でもどうしていいかわからないといったふうに、そのすっきりした眉を寄せた。静寂の中に、ひと匙の緊張が落とされる。
 もし荒船が心配ごとを抱えているとして、それは心身に影響を及ぼすほど、彼にとって重大なものということだ。だとしたら聞いてはいけない話かもしれない。寺島と荒船に気づかれないように、穂刈とアイコンタクトを交わす。村上が外に出ていましょうかと言う前に、
「まあ、なんかあったら連絡してよ」
 さあもう寝よう、と寺島は空気を変えるように大きく欠伸
 をした。 



(中略)


 どうしてこうなったんだ。いや、自業自得か。でもあれは冗談として互いに流したはずなのに、蒸し返して実行に移すなんて思ってもみなかった。村上は足が伸ばせるほど広々としたバスタブで、膝を抱えていた。
 浴室は広めに作られているが、二人同時となるとさすがに洗い場が狭い。なので村上が先に身体と髪を洗い、湯を張った湯船に浸かりながら荒船を待っていた。
「入るぞ」
 荒船が顔を覗かせた。荒船は充満した湯気を掻き分け、濡れた床をぺたぺたと歩く。鏡側に備えつけられたシャワーヘッドを手に取り、村上に背を向けて立ったままシャワーを浴びている。湯の雨は荒船の身体に纏わりつきながら、腰のタオルを濡らしていく。荒船の肩甲骨が動くと、水滴が生き物のように蠢いた。
 喉が渇いていたはずなのに、どっと唾液があふれてくる。このままここにいたらまずいかもしれない。秘密を強制的に暴かれるような感覚に、村上は覚えがあった。軽率だと悔いるにはもう遅すぎた。目の当たりにした清艶さで茹だった頭は理性という留金を外し、ある意味で純粋に彼を欲してしまっていた。だからまずいと思っていても、村上は浴室から出ていかなかった。
 荒船は持ち込んでいたもう一枚のタオルで顔を拭いてから、遠慮がちにバスチェアに腰を下ろした。
「鋼、いいか」
「うん」
 村上は湯船からあがった。シャンプーを手に出し、荒船の正面から髪を洗おうとして、硬直した。俯くように首を曲げた荒船の顔が、ちょうど下半身のあたりにくるのだ。村上もタオルを巻いていたし、荒船は目を閉じているので気がつかないだろうが、万が一目を開けてしまったら驚くだろう。それ以前に、こちらの精神が耐えられないと思った。そそくさと正面を外し、身体ごと横にずれる。
「シャンプーつけるぞ」
「頼む」
 人の頭を洗うのは初めてだった。村上は床屋での経験を思い出しながら短い髪の毛に指を入れる。村上とは髪質が違うのか、柔らかな指ざわりだった。
「かゆいところはないか?」
「美容師みてえ」
「サービスがいいだろ?」
「ほんとにな。かゆいところはない、大丈夫だ。あと、流すのは自分でやりたい」
「わかった」
 湯を出した状態のシャワーヘッドを荒船の右手に握らせる。荒船はバスチェアからゆっくり立ち上がり、後頭部から泡を流しはじめる。泳ぐのが苦手だと聞いたことがあるから、入浴にもこだわりがあるのかもしれない。溶かされた泡が蔦のように荒船の肢体に絡むのを眺めた。
「あー、すっげえすっきりした!」
「このまま背中も洗おうか」
「いいのか?」
 荒船がくふくふと笑っている。村上の奥底に潜んでいるものが、よりうるさく暴れて仕方がない。その幸せそうな姿を愛おしく感じるのに、めちゃくちゃにしてやりたいとも思う。思えば思うほど、とめられなかった。
(腹が、減ったな)