都会の星空の下、ネオンに光るナイトプールに二人は佇んでいた。宿泊施設であるビルの屋上に作られたこのプールは夜空と夜景が同時に堪能できるとあって、巷の話題に上がっていた。
Crazy:Bとナイトプールとのコラボ企画が立ち上がり、撮影のため連れてこられたこの場所に、こはくは少し浮かれているようだった。
撮影前から「水が光っとる……!」とライトアップされたナイトプールに目を輝かせていたこはくは、撮影が終わって解散の号令がかかるやいなや、水着の上から羽織っていたパーカーをさっさと脱ぎ捨てて水の中に体を沈めた。数ヶ月前に恋人という関係になったHiMERUをプールサイドに一人残して。
恋人関係といっても今までの付き合いの延長線上みたいなもので、手を繋いだことは何度かあれど、キス以上の行為に踏み込めた試しがない。清い関係といえば聞こえがいいが、恋人としてお付き合いをしているからにはそろそろ互いに愛を確かめながら唇を重ねてみたい。
HiMERUはひとつ息を吐き、今回のコラボ商品のひとつとして試作されたはちみつレモンスカッシュを手にプールサイドのデッキチェアに腰かける。夜風を受け続けた座面は肌が触れるとひんやりと冷たかった。
もう片方の手に握っていた空のグラスはサイドテーブルに置いた。早々にレモンスカッシュを飲み干したこはくに押し付けられてしまったグラスだ。両手が塞がれてしまい、でプールへと飛び出していく背中を捕まえて引き留めることもできず、見送るしかなかった虚しさといったらなかった。
ロマンチストという訳ではないが、多くのカップルを魅了してきたであろうこのロケーションの力を借りれば、関係が多少は進歩するかもしれないとわずかな期待を抱えていたのは自分だけだったのだろうか。
弾ける液体を湛えたグラスを傾けて燻る感情と一緒にレモンスカッシュを流し込むと、パチパチと甘酸っぱい刺激が喉を通り過ぎる。口の中ではレモンの爽やかな酸味とはちみつの深い甘さが混ざり合って、舌の奥へと溶けていく。
ふと、ファーストキスはレモンの味、なんて使い古されたフレーズが頭を過って自嘲する。こはくとのファーストキスはいつになるんだろう、なんてらしくなく感傷的になってしまうのは、気まぐれに吹く夜風が冷たく肌をなぶるからだろうか。
ついさっきまでレモンスカッシュを片手に「美味しいな」「そうですね」と隣で感想を言って微笑みを交わしていたのに、今のこはくは視線しか届かない遠くで水と触れ合っている。
様々に色を変えていくネオンの水面を肌に反射させながら、こはくは水を手で掬ったりフローライトをつついたりして戯れている。
水面をぼんやりと見つめるこはくは、燐音の挑発に乗り水を掛け合ってはしゃいでいた昼間の様子とはうってかわって、今は水の感触を確かめるように静かに戯れている。月明かりとネオンに照らされる横顔は大人びて見えて、昼間の表情とのギャップに思わず目が奪われる。
中身が半分残ったグラスをこはくと重ねると、薄黄金色の泡が立ち上るプールの中にその体が浮かぶ。その中で心地よさそうにゆらゆらと鴇色の髪を揺らすこはくは水槽で泳ぐ熱帯魚のようだ。ガラスに映った姿に口づけても唇に感じるのは冷たく無機質な感触だけで肌の感触には程遠い。
手の上のアクアリウムを堪能していると、不意に視線がこちらに向けられてギクリと胸が鳴る。邪な視線に気づかれてしまっただろうか。
すいーっと滑らかな動きでHiMERUが腰かけるデッキチェアの近くまでやってくると、ちょいちょいと手招きする。招かれるままにグラスを置いて立ち上がり、こはくが浸かっているプールサイドの縁まで近づいて屈む。
「えらい澄ました顔で座っとるけど、HiMERUはんは楽しないん? せっかくの機会なんやから楽しまな損やろ」
プールサイドの縁に肘をついてHiMERUを見上げながら不服そうにむくれる。
ネオンの水面に照らされるこはくを眺めているだけで十分楽しかったとは言えず返事に窮していると、こはくの濡れた腕がHiMERUに向かって伸びてくる。HiMERUを水の中へと誘おうとしているらしい。
水に浸かった後の濡れた体を乾かすのが面倒だとかそんなことは恋人からのお誘いに比べれば些末なことだったし、何よりこはくから触れてくれることに舞い上がりそうなほど嬉しかった。
伸ばされた手に自分の手を重ねてその感触を噛み締めるようにゆっくりと握る。濡れた手は夜風よりも冷たくて、少し身震いする。
がしっと想定よりも力強く手を握り返され、HiMERUを見上げるこはくの口角の片端が吊り上がって悪戯っぽい笑みに変わる。その目はギラギラと輝いていて、まるで真夏の太陽のような──
バッシャーーーン
次の瞬間にHiMERUの体はネオンに揺らめく水面に叩きつけられていた。握った手を力一杯引かれ、そのまま上半身から水中へと引きずり込まれたのだ。
勢いよく水面から顔をあげたHiMERUは、濡れた前髪を掻き上げて、同じ高さになったこはくの顔を睨み付ける。
「コッコッコ♪ これぞまさに水も滴るええ男、やな」
HiMERUが飛び込んだ時のしぶきで顔までもびっしゃりと濡れているにもかかわらず、こはくはけらけらと楽しそうに肩を揺らす。
「桜河……っ!」
喚くように開いた唇は、噛みつくようなこはくの唇に塞がれた。突然何をするんだとか危ないだとか、ぶつけたかった文句はこはくの口内に消えてしまって、苛立ちも瞬く間に驚きで塗り替えられる。
勢いのあまり互いの歯がぶつかった痛みだけが辛うじて現実であることを教えてくれる。
「……HiMERUはん、顔まっか」
はにかみながら揶揄うこはくの頬もまた朱に色づいて見えるのはきっと、ピンクネオンの水面を反射しているせいではないはずだ。じわじわと唇の感触に実感が伴ってきて、頬がだらしなく緩んでいくのを止められない。
「桜河こそ」
濡れて額に張り付いたこはくの前髪を掻き分けると、肩がぴくりと跳ねて反射的に目が閉じられる。それも一瞬のことで、やがておずおずと様子を伺うような瞳が上目遣いに開かれる。分かりやすく照れている初心な表情がどうにも可愛らしくて、心ごと蕩けていく。
ブルーネオンに色を変えた水面がこはくのすみれ色の瞳に映って揺れて、その美しさに吸い込まれるように唇を寄せた。今度は歯をぶつけないように距離を計りながら近づいていくと、それに呼応してこはくの目もゆっくりと閉じられる。湿った唇同士が触れ合うと、脳髄がしゅわしゅわと痺れる感覚に溺れていく。
濡れた塩素の匂いとレモンの甘酸っぱい香りが混じり合って、上弦の月夜に溶けていった。
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