大型連休で賑わう世間に呼応するように、Crazy:Bの野外ライブもまた盛況を見せ、連休の最終日と同時に幕を閉じた。ライブの宣伝も兼ねてここのところメディアへ立て続けに出演し怒涛の日々を過ごしていたが、今日のライブの成功をもってようやく一区切りついた。今はその慰労と打ち上げを兼ねてCrazy:Bで集まり、各々好きなものを好きなだけ飲み食いしていた。
こはくは想い人のHiMERUの隣を陣取り、ニキの料理に舌鼓を打ってご機嫌にしていた。好きな人を横目に口にする好物は一仕事終えた達成感も相まって格別だった。
こんな風に密やかに想いを寄せながら同じユニットでずっとやっていけたらいい。想いが通じ合うならこれ以上幸せなこともないと思うが、それは贅沢だと弁えていた。
そんな中、どういう話の流れだったか詳細は忘れたが、同性愛がどうとか酔った燐音がHiMERUに話を振っていたように思う。こはくは気にしていない風を装ってデザートを口に運びながら聞き耳を立てた。
「世間には徐々に受け入れられ始めていることは知っていますし理解もできますが、自分の身に置いてとなると……」
途切れた言葉の先が気になって視線を向けると、こちらを一瞥したHiMERUと目が合ってどきりと心臓が締めつけられる。盗み見ていたことがバレてしまった気まずさはもちろんあるが、HiMERUの瞳が困惑の色を映していたことが一番心臓に悪かった。言い澱んだその先の言葉は聞きたくなかった。嫌な予感がした。
もう一度隣へ視線を遣るが、HiMERUは既に燐音の方へと向き直っていた。
「少し、困ってしまうかもしれません」
自分のことを好きになってくれるな、と牽制されたと直感した。
想いを告げる前に砕けた心に引きずられて背骨までもがらがらと崩れていくようだった。たかが惚れた腫れたの話でここまで腑抜けるなんて。けれど、初めてだったのだ。初恋だったのだ。おそらく。きっと。初めての恋で初めての失恋で、初めてだらけで心が追いつかなかった。
気がついた時にはガーデンテラスのベンチに体を預けていた。あれから何を食べて、何を喋ったのか、どうやってここまで来たのかまるで覚えていない。けれど、そんなことどうだって良かった。陽が落ちた後の涼風が頬を撫でて孤独な夜の香りを連れてくる。
手の中で煌々と光る端末の画面に一枚の画像を呼び出す。いつの日か一緒に出掛けた時にシャッターに収めたHiMERUの横顔だ。愛おしげに頬を緩めるその表情は仕事で見せるクールでセクシーな印象と異なり、よりプライベートに密接した穏やかな微笑みで、こはくの気に入りの写真だった。こんな愛情に満ちた眼差しで見つめられて、そっと抱き寄せられる妄想を何度だってした。けれど、この横顔がこちらに向けられることはなかった。写真の中のHiMERUの視線は彼自身の腕の中に向けられていて、そこには一匹の猫がいる。こっそりシャッターを構えても全く気づかないほど、HiMERUは街中で懐いてきた野良猫に夢中になっていた。その横顔が好きでたまらない気持ちとこちらを見向きもされない悔しさとが別々のベクトルで引き合って心臓を絞るみたいに締めつけた。
甘くて苦い当時の思い出に耽る間に端末の画面は真っ暗なスリープモードに移行していた。その上でちかちかと明滅して通知を知らせるランプが鬱陶しく感じて、視界の外へ伏せて置いた。
どこか遠くへ行きたい気分だ。時折凪ぐこの風みたいにふわりと浮いて自由気ままに流れてみたい。
あの猫になれたら、彼の視線を独占できるんだろうか。
暗闇に溶けていく意識の最後に、夢物語を描いた。
体が浮き上がる感覚に意識が呼び戻された。憔悴した心身では指一本動かすことすら億劫で、抱えられるまま身を委ねる。周りは不気味なほど静かで、肌寒さから夜が深いことを感じ取る。
抱え直されて服の繊維が鼻頭に押し当てられると、煙草の臭いがツンと鼻腔を刺して目眩がした。好きな匂いとは言い難く、心地よさなど到底感じられるわけはなかったが、思考を濁らせるその感覚を借りて、現実から目を背けるように再び意識を手放した。
向かいに座る燐音から漂う煙たい臭いにHiMERUは顔をしかめた。
「天城、さては直前までパチンコにいましたね。煙草の臭いで料理の香りが台無しなのです」
「んだよ、いつものことだろォ。今日はちゃあんと時間通り来たんだから褒めてくれてもいいんだぜェ、メルメル?」
打ち上げの翌日の昼、Crazy:Bの面々は打ち合わせのために再びカフェシナモンに集合していた。珍しく燐音の思いつきではなく元々決まっていたスケジュールだ。これまた珍しく燐音が時間通りに顔を出しているが、理由は容易に想像できた。
「今日はどうせ負けが込んで早々に切り上げて来たのでしょう」
「キャハハ! よく分かってんじゃねェか。さてはメルメル、俺っちのこと大好きっしょ?」
「質の低い冗談ですね。天城が時間通りに来た事実も理由もどうでもいいのですよ」
背中を走る虫酸と煙草の臭いを紛らわすためにコーヒーを一口啜る。
HiMERUには燐音が時間通りに行動していることより気になることがあった。
「それよりHiMERUは桜河がいないことの方が気になります。連絡はありませんでしたよね?」
改めて手に握った端末の画面を確認する。新着のメッセージはない。
真面目な性格のこはくは約束した時間の五分以上前に来ていることがほとんどで、遅れる時は必ず連絡を寄越してくる。時間通りに来ないどころか打ち合わせの開始時刻を五分過ぎても連絡のひとつもないことは不可解だった。
「寝坊しちゃったとか? 電話かけて起こしてあげます?」
燐音とHiMERUが軽口を叩き合っている間にあらかた食事を平らげたらしいニキが口元を拭いながら提案する。
「桜河が寝坊なんてそれこそ珍しいですが。試しにこちらから連絡を取ってみましょうか」
待っていても埒が明かないと判断し、こはくの連絡先を呼び出して発信ボタンをタップする。プルルと呼び出し音が鳴ってほどなくプツリと音が途切れ、通話状態に入る。寝坊していたにしては反応がやけに早い。
「桜河? いまどこに」
「あー……HiMERU?」
こはくの声でないことはすぐに分かった。ハスキーでありながら穏やかな波のように甘く優しく響くその声をHiMERUは知っていた。
「……漣」
第一声がこはくの声でないことに胸騒ぎが起こる。こはくと同室である彼が部屋ですやすやと眠っているこはくの代わりに電話に出たというのであればまだいいが、そこにいるなら起こして本人を出せばいいだけなはずだ。電話が通じたのは良かったが、手放しでは喜べなかった。向かいに座る燐音とニキも同じ考えなのか、辺りに緊張が漂って空気が乾く。
「どうしてあなたが桜河の携帯を手にしているのですか。桜河はそこにいるのですか」
不安か焦りか鋭く低い声で捲し立ててしまう。早くそこにいると肯定してほしい。昼前だというのにぐっすりと眠っていると呑気な声で言ってほしい。
けれど、与えられる不自然な沈黙はHiMERUの祈りを叶えてくれそうになかった。
「……いや、いないっす。いないんすよ」
返ってきた声に指先が冷めたくなる。黙ったままでいるHiMERUへジュンは説明を続けた。
「今さっき泊まりのロケから帰ってきたら、サクラくんの携帯がベッドに置きっぱなしになってて。手に取ったらちょうどあんたから電話がかかってきて……。その様子だとあんたもサクラくんの居場所は知らないみたいっすね」
「漣が最後に桜河と会ったのはいつですか」
「昨日の朝。俺が仕事に出掛ける時です。晩飯のデザートにって置いてったケーキに手がつけられてないんで、サクラくんは昨日の晩から帰ってねぇみたいです」
「そうですか……。桜河の携帯をこちらに渡してもらうことは可能ですか」
「そうしたいんすけど、この後すぐにまた出なきゃいけないんで事務所に預けとくんでもいいっすか?」
「分かりました。お願いします」
「……サクラくんが見つかったら俺にも連絡くださいよぉ。俺も何か分かったことがあれば連絡します」
「ええ」
短く答えて電話を切った。こはくを気にかけてくれる人が他にもいることに安堵し、頭が冷静さを取り戻していくと同時に途方に暮れた。
「ジュンジュンは何て?」
固い表情のまま訊ねる燐音にHiMERUは聞いた情報を整理しながらゆっくりと話した。
「どうやら桜河は昨日の夜から帰ってきていないようです。漣は当日の朝から部屋を空けていたので手がかりはないに等しいでしょう。桜河の携帯は事務所に預けておくと言っていました」
シン、と空気が静まる。昨日の余韻を引きずって浮わついていた先程までの空気はあっという間に霧散していた。燐音はしばらく考え込んだ後、口を開いた。
「こはくちゃんに急遽別の仕事が入った可能性を考えて、今から事務所に行ってあいつ個人のスケジュールを確認する。俺っちはコズプロ、HiMERUはニューディだ。他に心当たりがあればそこも当たる。こはくちゃんが遅れてやってくるかもしれねェからニキはここで待機。三十分後にもう一度ここに集合して情報共有だ。いいな?」
燐音の采配にHiMERUもニキもアイコンタクトを交わして頷く。やることが決まれば行動するのみだ。燐音とHiMERUは足早に店を後にした。
「青葉さん」
ニューディの事務所に到着し、中を覗いて見知った人物の背を見つけて声をかける。振り返った彼の動きに合わせてウェーブがかった濃紺の髪がふわふわと靡く。HiMERUを見つけた金色の目が驚いた様子で開かれるが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「HiMERUくん? おつかれさまです。こんなところで珍しいですね。俺に用事ですか?」
「突然呼び止めてすみません。伺いたいことがありまして。今日は桜河やDoubleFaceに仕事は入っていますか」
「ええっと、少し待ってくださいね」
青葉つむぎは首を傾げてから手元のタブレットを手早く操作する。ニューディ所属のアイドルのスケジュールを把握している彼に会えたのは運が良かった。
「……うん。やっぱり今日から三日間は桜河くんにもDoubleFaceとしても仕事は入っていないみたいです。まぁ、DoubleFaceは事務所を通さず突発的に仕事を引き受けていることもあるので、その場合は把握できないんですけど」
苦笑いを浮かべたつむぎのある言葉が気になって聞き返す。
「やっぱり、とは?」
「今朝、三毛縞くんからも桜河くんのスケジュールを訊かれたんです。今改めて確認しても予定が入っていないことが分かったのでやっぱり、と」
「三毛縞さんが……」
もしかして斑もこはくの居場所を探しているのだろうか。人探しには彼の方が長けているだろう。そう思いついたHiMERUはつむぎと別れた後、ホールハンズを通してこはくを探していること、見つけたら連絡を欲しい旨を伝えた。
その後、入れ違いで帰宅している可能性にかけて、星奏館へ向かいこはくの部屋を訪ねたがノックをしても返事はなく、新たに手がかりを掴めないまま再びカフェシナモンへ戻った。
「これ、おめェが持ってな」
再集合してすぐ、先に戻ってきていた燐音から端末を手渡される。群青がかった籠目模様のボディにははっきりと見覚えがあった。
「これ、桜河の……」
「事務所に向かう途中のジュンジュンとばったり会ったからそのまま受け取ってきた」
手の中の端末の背を指で撫でる。見慣れたものではあるが、自分の手に収まっているのには強い違和を感じる。早く持ち主の元に返してやらなければ。決意と共に端末を自身のポケットにしまった。
「んで。肝心のこはくちゃんの行方についてだけどよ。有力情報得た奴いるか?」
座り直した燐音の言葉に首を振る。
「HiMERUの方は、今日を含め三日は桜河にニューディ関連の仕事は入っていないと分かったくらいですね。念のため寮の部屋にも行きましたが帰ってきていないようでした」
「来てたら連絡してるんで二人とも分かってると思うけど、こはくちゃんはここには来なかったっす。どこ行っちゃったんすかね、こはくちゃん……」
ニキは既に空になったパフェの器を縁を指先で撫でながら視線を落とした。
「俺っちもメルメルと似たようなもんだな。っつーことは分かったことといえば、今日の打ち合わせの後こはくちゃんは連休に入る予定だったってことくらいか」
燐音は顎に手を置いて深く溜め息をついた。
消息の手がかりこそなかったものの、こはくが休暇に入っていたことは幸いだった。この休暇の間にこはくが戻ってくれば、彼の仕事に影響が出ることはない。大事になる前に見つかるといいのだが。
今日一日探して何も掴めなければ公的機関に協力を仰いだ方がいいだろう。他の事務所、特にニューディの方にも状況を報告して……。
そこまで考えを巡らせてから、ひとつ共有していない情報があったことを思い出した。
「そういえば。ニューディへ桜河の予定を訊ねた時に聞いたのですが、今朝方三毛縞さんも同様に桜河のスケジュールを確認してきたそうなのです」
「あァ? 何で」
「HiMERUが知るわけないでしょう。彼も桜河に用事があったのではないですか? 一応HiMERUから桜河の居場所に心当たりがないかメッセージを送ったのですが、返信はありませんね」
「ふぅん……」
HiMERUの話を聞いた燐音が再び考え込むように視線を落とした時、その足元を白い影が床を這うように横切ったのが見えた。
「にゃ」
「おわっ!?」
テーブルの下から鳴き声が聞こえ、思考を巡らせることに集中していた燐音は不意なノイズに驚いて飛び上がった。
「お前っ、こんなとこまで着いてきちゃダメっしょ」
「何ですか急に。大きな声を出さないでください」
足元に向かって慌てた様子で声を上げる燐音を訝しく睨み付ける。向かい側に座る燐音の足元で何が起こっているのかはテーブルが障害物となりHiMERUからは伺い知ることができない。
「ちょっと燐音くん~、ここは基本的に動物連れ込んじゃダメっすよぉ」
「わーってるっつの! こいつが着いてきちゃっただけで俺っちのせいじゃねェって」
テーブルの下を覗き込んで確認したニキは口を尖らせて燐音を窘める。必死に弁解する燐音に拾い上げられ、それがHiMERUの前に姿を現す。
真っ白な毛並みの猫だった。子猫というには大きく、恐らく成猫に近い齢だろうと想像できた。長毛寄りで細身の胴体は燐音に両脇を抱えられてぶら下がっているせいで更に縦に伸びている。形が良くピンと立った三角耳の中は綺麗なピンク色の皮膚が見えていて、何より特徴的なのはその目だった。HiMERUに向けられたまんまると大きな両目は澄んだ紫色をしていた。その宝石のような美しさに吸い込まれるように目が離せない。
「綺麗な猫っすけど、どこで拾ってきたんすかぁ」
「拾ってねェっての!……昨日の夜、パチンコの帰りで道のど真ん中で呑気に寝てたから安全な場所に運んでやったンだよ。さっきはESビルの前にいたが、中には入れねェからって追い払ったんだけどよ。匂いを覚えてて恩返しに来たってかァ?」
「にゃっ! にゃ!」
猫が燐音の両手の間でもぞもぞと暴れだす。吊られるように抱えられていることが不満なのか、毛を逆立てて燐音に対し威嚇のような素振りを見せてはいるが、長いしっぽは燐音の腕にしっかりと巻きついていて、心細い感情が透けて見えている。
虚勢を張る姿が誰かに似ているような気がして、あ、と思い出した瞬間には口に出してしまっていた。
「桜河……?」
HiMERUのこぼした呟きに燐音とニキが「何言ってんだこいつ」と言いたげな苦い表情を向ける。言った本人だってそう思っている。
しんと冷えた空気に居たたまれなさを募らせていると「にゃおん」と元気な鳴き声が三人の中心で響いた。
「おわっ、お前動くなって!」
身を捩って燐音の両手からするりと抜け出した猫はテーブルへと華麗に着地した。微かにだけ揺れた卓上で食器が小さく音を鳴らす。
猫は軽やかな足取りで食器の隙間を縫うように進み、あっという間にHiMERUの前までやってきた。呼び出しに応えたかのように背筋を伸ばしてお行儀良くテーブルの端で手足を揃える猫に、まさかと思いもう一度口を開いた。
「桜河?」
「にゃうんっ」
猫はまるで返事をするように鳴いて、その様子に三人で同じ表情を突き合わせた。
「マジ?」
「いやぁ、そんなまさか。人間が猫になるなんてあるわけないっす」
「でも、返事……しましたよね?」
全員でもう一度猫へと視線を向ける。猫はHiMERUの目の前で嬉しそうにゆらゆらとしっぽを振っている。
そんなことがあり得るのだろうか。行方知れずの人間が姿を変えてここにいるなんてそんな非現実的なことが。
半信半疑のような祈るような気持ちでもう一度口を開く。
「桜河……」
「にゃ! にゃ!」
猫はくるくるとその場で回ってHiMERUの膝へと飛び込んできた。服に身体を擦り付けて、その様子は「ここにおるよ」と言っているようにも思えた。
目の前で起こる現象を飲み込みきれず、縋る気持ちで燐音に目を向けるが苦笑いを返される。
「いやでもそれは流石に無理があるっしょ……人間が動物になるなんて故郷にいた頃から聞いたことねェって」
「では、この猫の反応はなんだと言うのですか?」
「ンなの、たまたまだろォ? とりあえず野生に返すかしかるべきとこに預けるしかねェな」
言って、燐音が猫を取り返そうと立ち上がると、敏感に察知した猫はHiMERUの背中とソファーの間のスペースに素早く隠れた。影から鼻先だけを出して周囲の状況を伺い、強く警戒しているようだ。
「そこにいられても困るので出てきてほしいのですが」
「にゃあ……」
HiMERUが身を捩って背中から猫を追い出そうとすると、甘えた声を出して背中にしがみついてくる。
「あらら。HiMERUくんにすごく懐いてるみたいっすね~」
「だなァ。ついでにメルメルがしばらく面倒みてれやれば?」
「は? どうしてそういう話になるのですか」
「こはくちゃんだってそっちの方がいいよなァ?」
「にゃ!」
「ほらァ」
「勝手に決めないでくださいっ」
さっきまで信じていなかったくせに調子だけはいい燐音の態度の変わりように辟易する。
「ま、そういうコトで」
「とりあえずテーブル片付けちゃうのでHiMERUくんは猫を連れて外に出てもらえると助かるっす」
ニキまで結託して猫を押し付けようとするものだから、数の上で不利になってしまったHiMERUはとりつく島をなくして、背中から顔を覗かせる猫をじっと見つめた。HiMERUを大きな紫色の瞳はやはりどことなくこはくのそれと似ているように思えた。
カフェから追い出される形となったHiMERUと猫は人の少ない緑地のベンチに腰を降ろした。二人きりになった途端、猫は張り詰めていた警戒心をすっかりと解いて、HiMERUの胸に体を預けて大人しく運ばれていた。動物を抱き慣れていないHiMERUの腕の中は居心地がいいとは言えないだろうに、猫の表情はやけに満足そうに見えた。
膝の上に降ろすと猫はそのまま寝そべる形に横たわった。その背を撫でると小さく鳴いて心地良さそうに目を閉じる。
絹のように滑らかで柔らかな手触りの下の温もりは、呼吸に合わせて規則正しく上下していて、確かな命の感触に畏怖に似た感傷を得る。
無防備に体を晒してゴロゴロと音を鳴らす喉を擽ってやればその音がさらに大きくなった。前足をHiMERUの手に添えて甘えるように擦り寄ってくる姿は愛らしく思う。
「桜河」
呼ぶと猫の片目が薄く開かれる。
「本当に桜河なのですか?」
しつこく問いかけるHiMERUに猫は大きなあくびで返して再び目を閉じた。宙で揺れる長い尻尾は肯定なのか否定なのか分かるはずもなかった。
連絡のとれないこはくと、桜河と呼ぶともれなく返事をする猫。辻褄が合うような気がして、HiMERUの中で半信半疑の天秤が傾きつつあった。
しばらくこの猫を飼うことになるのだろうか。猫どころか動物を飼った経験がなく、適切な飼育環境に皆目検討がつかなかった。悩みの種がどんどんと増えてくる。ため息をついて視線を上げた先には時計があった。目に入った時刻にHiMERUは冷や汗をかいた。
午後から入っていたインタビューの時間が迫っていたのだ。急げば充分に間に合う時間ではある。しかし問題は膝の上の猫だ。迂闊な預け先は選べない。HiMERUが面倒を見れない間の預かり先を吟味し、手配する余裕もなかった。
「うにゅ?」
HiMERUの焦りを察したのか目を擦りながら起き上がった猫が小首を傾げる。
「HiMERUはこれから仕事なのですが、あなたのことはどうしましょうか……?」
「にゃあ」
猫に言ったところで仕方のないことを口走ったが、膝から飛び降りた猫はどうぞと言わんばかりにひとつ鳴いた。
HiMERUが歩きだすと猫はその後をちょこちょことついてきた。もしや、現場までついてくるつもりなのだろうか。
道中で何度も振り返るが猫はちゃんとついてきている。とうとうそのまま目的地のESビルの入口まで到着してしまい、HiMERUは頭を悩ませた。流石に中までついて来られるのはまずい。
「にゃあ~」
立ち尽くし、足元を一瞥すると猫は傍の植え込みまで歩いていき、日陰に寝そべった。
ここで待ってると言わんばかりの仕草に目を見張りながら、時間もなかったHiMERUはそのままビルの中へと早足で入った。
インタビューの間もこはくと猫のことが半分ずつ何度も頭をよぎったが、インタビューの回答はある程度準備していたので、つつがなく終えることができた。
仕事と用事を済ませるうちにビルに入ってから三時間ほどが経過しようとしていた。これだけ時間が経っていれば普通の野良猫ならどこかへ姿を消していても不思議ではなかった。
ビルを出て、一応辺りを見回してみるが白い影は見当たらない。やはりただの野良猫だったのかとどこか落胆も混じったような心地で息を吐く。最後に猫を見た植え込みを何の気なしに眺めていると、足首の辺りにくすぐられるような感覚がして飛び上がりそうになった。視線を下に移すと白猫が足首に巻きつくように体を擦り寄せていた。
「本当に待っていたのですか」
「にゃう」
しゃがみ込んで頭を撫でると猫は紫の瞳を嬉しそうに蕩けさせた。
そうやってどこへでもついてくる猫であったが、日が暮れて寮へ戻ろうとすると、猫は玄関口へ入る直前に逃げるように姿を消してしまった。すぐに追いかけて敷地内を探したが見つからず、諦めて部屋へと戻った。目を離してもまた戻ってくるような確信めいた自信がどこかにあった。
部屋の電気は消えていて、同室の二人はまだ帰宅していないようだった。
猫を飼っている嵐に猫の飼育について助言を貰おうと思ったが、いないのなら仕方がない。帰りを待つ間に疲弊した心身の回復に努めようとベッドに横たわった瞬間、急激な眠気に襲われる。今日起こった事件で思ったより消耗していたらしい。閉じていく瞼の重さに抗えず、そのまま意識を失った。
次に目を開けた時には朝を迎えていた。慌てて身体を起こして部屋を見渡すが人影はない。既に二人とも出掛けた後だった。後悔もそこそこにひとまずホールハンズで嵐に「猫の食事について相談がしたい」と連絡をとる。猫の飼育方法について知りたいことは山ほどあったが、当面の気掛かりは食事だった。すぐに返ってきたメッセージには「昼過ぎに一度寮へ帰るから門の前で会いましょう」と書かれていた。
昼食を済ませて門の前で待機していると、見慣れた容姿が近づいてくるのを見つけた。真っ直ぐに伸びた背筋に、全くブレのない歩き姿は遠くからでも目を引く美しさで分かりやすかった。
「HiMERUちゃん! ごめんなさい、ちょっと待たせちゃったかしら」
「いえ、今来たところですから」
早足でやってきた嵐はショッピングへ出掛けていたようだった。両手にいくつもの紙袋を提げている。上品な紙袋には一度は見たことのあるファッションブランドのロゴが記されている。
「買い物の途中だったのですね。呼び立ててすみません」
「いいのよぉ。ちょうど休憩がてら荷物を部屋に置こうとしてたところだから。それよりも、猫のご飯の相談だったわよね。HiMERUちゃんも飼うのかしら?」
「そういうわけではないのですが……」
「あらぁ野良猫!? ダメよぉ、野良にエサをあげちゃあ」
もっともな叱責にドキリとした。確かに野良への餌付けは褒められたことではない。不用意な発言だった。
「の、野良猫というわけでもないので心配は要らないのです」
すかさず否定すると嵐はくすくすと肩を揺らした。
「ふふ。分かってるわよぉ。HiMERUちゃんのことですもの、そういう迂闊な真似はしないって知ってるわ。きっと何か事情があるのよね。根掘り葉掘り追及する趣味もないし、深くは聞かないであげる」
言って嵐はぱちりとウインクを向ける。嵐のさっぱりとした性格に助けられ、ほっと息を吐く。追求されてもまともな説明なんてできそうもなかった。
「それにしても、どんなねこちゃんなのかしら」
「えぇっと、猫の大きさは鳴上さんのにゃんこと大きく変わらないくらいで、種類は分かりませんが、白い毛並みをしています」
「種類は分からないのねぇ。それなら比較的どんな猫にも合いやすいこの辺りがいいかしら。ペースト状なんだけど、スティック袋に入ってるから直接あげる時に手が汚れなくていいのよねェ、コレ」
嵐の手元で揺れるいくつもの洗練されたデザイン袋の影にポップで可愛らしい袋を見つける。その中から嵐が取り出した小ぶりなパッケージには猫の写真が印刷されている。
「もしかしてわざわざ買ってきてくださったのですか?」
「にゃんこのご飯を買いに行くついでよ。HiMERUちゃんにはいつもお世話になってるし、気にしないで」
にこやかに差し出されたそれを礼と共に受け取る。猫の飼育という未知の体験に晒され、不安で満ちていた心にその優しさがじんわりと染み渡る。
「あらっ」
嵐が不意に肩に向かって手を伸ばしてくる。距離が近づいてふわり、と甘いパフュームの香りが漂う。嵐がいつも身につけている香りだ。ジャケットの襟の表面を撫でるように指を動かして嬉しそうな声をあげる。その指には白い動物の毛が握られていた。
「もしかして、HiMERUちゃんの服についてるこの毛が噂の子のものかしら。うふふ、きっと綺麗な猫に違いないわぁ」
指先の白猫の毛が昼下がりの光を反射して嵐の笑顔と共にきらきらと輝く。
「ええ、とても。紫色の大きな瞳も特徴で……」
猫の話をしているはずなのに、脳裏にはこはくの面影が浮かび上がっていた。
「うふふ、HiMERUちゃんってば、その子のことが大好きなのね。とっても優しい顔してる」
「え?」
「いっけない、次の予約の時間に遅れちゃうわ! じゃあね、HiMERUちゃん」
手元の時計を確認した嵐はそう告げるとスキップのような軽やかな足取りで寮の方へと向かってしまい、その場に取り残される。
大好き、って。誰が、誰を?
嵐の指摘に戸惑い、自問に近い問いかけを繰り返していると、視界に見覚えのある白色が映った。
「桜河……」
敷地内に置かれたベンチの陰に猫がいた。HiMERUが出てくるのを待っていたのだろうか。やはりただの野良猫とは思えない利口さに感心する。
「ちょうど良かったのです。お腹は空いていませんか?」
当初の目的を思い出し、ベンチに近づくがどうも猫の様子に違和感がある。昨日はHiMERUを見かけるなり一目散に寄ってきたのに、今は陰から出て来ようともしない。屈んで様子を伺うと、吊り上がった大きな紫色の瞳が鋭利な光を放っていた。空腹で気が立っているのだろうか。
「シャーッ!」
唸る猫を落ち着かせようと手を伸ばすと、体を畳むように背中を高く突き上げて毛を逆立てた。明らかな威嚇行動に怯んでいる間に猫は脱兎のごとく逃げ出した。
「えっ……?」
美しい毛並みが光を反射して波のように流れながら遠ざかっていくのをただ呆然と見つめた。殴られたような衝撃に一切の思考が止まる。強い拒絶に思ったより堪えている自分がいた。昨日の片時も離れまいと言わんばかりに甘えてくる姿を見ていた分、ショックが大きいのかもしれない。
「キャハハッ、逃げられてやんの」
不快感を煽る笑い声と共にどこからともなく燐音がやってくる。一体いつからそこにいたというのだろう。
「見ていたのですか。趣味が悪いのです」
今は燐音の相手をする気分が微塵もない。早くこの場から立ち去りたかった。
「逃げられたからって俺っちに八つ当たりすんなよメルメル~。嵐チャンと仲良さげにしてんのが気にくわなかったんだろ。嫉妬だよ、嫉妬」
「嫉妬? どうして……」
HiMERUの言葉に燐音の片眉がぴくりと上がる。
「おいおい。お前がそれを言うのかよ……知らないとは言わせねェよ。ほんとは気づいてんだろ?」
細められたターコイズブルーの瞳の奥が鋭く光る。全て見透かすような冴えた色に気圧されて思わず目を逸らした。
「……天城は桜河が心配ではないのですか。このまま桜河が元に戻らなかったらどうするつもりですか」
ままならないこの状況にも仲間の一大事に嫉妬だのなんだのとからかう余裕のある燐音にも腹が立って語気が強まる。
「どうってなァ……そりゃ三人と一匹でやってくしかないっしょ。賢い猫チャンだから人気でるぜェ?」
「いい加減にしてください! こんな時ですら真剣になれないのかあんたは……っ」
普段と変わらぬ軽薄さで軽口を叩く燐音に込み上がってくる怒りのまま言葉をぶつける。握った拳の爪が手のひらに食い込む。その痛みで我に返って見上げた燐音の瞳は、面食らったように見開かれていた。
「……上出来。今のメルメルをこはくちゃんにも見せてやりたかったなァ」
取り乱すHiMERUに燐音は口の端を上げた。この期に及んでまだ笑うのか。
「んな怖ェ顔すんなって。心配しなくてもこはくちゃんはちゃんと帰ってくるって。そん時に笑ってこはくちゃんを迎える準備しとくのがてめェの今の務めっしょ」
「帰ってくるという確証が何かあるというのですか」
燐音は何も答えずにHiMERUの髪をぐしゃぐしゃに撫でるだけ撫でてから、ひらひらと手を振って去っていった。
「はぁ……?」
いつものことながら意図の見えない燐音の言動に、乱された髪を掻き上げて青い空を見上げた。
「ということがありまして」
「なはは、逃げられて残念でしたね」
カフェシナモンに場所を移して、アルバイト中のニキを捕まえて猫に威嚇されたことへの愚痴をこぼす。
「でも、猫って飼い主からいつもと違う匂いがすると警戒しちゃうって聞いたことがあるし、そういうことじゃないっすか?」
「猫とはいえ、桜河ですよ?」
「あの猫がこはくちゃんだってすっかり信じてるんすね」
「椎名も見たでしょう? 桜河と呼んで返事をする姿を」
「見たっすけどぉ。とはいえ信じがたいっすよ」
どうしたら信じてもらえるだろうか、と躍起になっている自分に驚く。何故こんなに必死になっているのか、少し考えれば気づいてしまう。
姿を消したこはくが猫になったことにして安心したいのだ。彼が消息を絶った不安と寂しさから目を逸らしたかった。こはくは自分の前からいなくなったのではないと思い込みたいのだ。
浮かんだ答えが随分と身勝手な感情であることに自嘲した。
「猫向けの料理作りましょうか。洋食と和食で用意して和食の方を好んでくれたら僕も少しは信じられるかもしれないっす」
「バイト中でしょう。忙しくないのですか?」
「連休明けの平日だから、そんなに混まないんすよ。現にこうしてHiMERUくんと駄弁る暇もありますし。あっそうだ、使わないならHiMERUくんが持ってるキャットフード貰っていいっすか?」
もて余してカウンターに置いていた未開封のパッケージを持ち上げる。空腹に耐えかねてつまみ食いでもしようというのだろうか。スティックに口をつけてストローのように吸い上げるニキの姿を想像して思わず眉を寄せた。
「……正気ですか?」
「あ、HiMERUくん、これを僕が食べると思ったでしょ。違うっすよ、レシピの参考にするだけっす」
「まぁ、椎名が何を口にしようがHiMERUの知るところではありませんし。椎名の料理なら桜河も機嫌を直して口にしてくれるかもしれません。頼みましたよ。彼にひもじい思いをさせるわけにはいきませんから」
食事のあてが見つかり、ひとまずの安堵と共にコーヒーを一口含む。返事のないニキの視線がHiMERUに注がれているのに気づいて訝しむ。
「何ですか。HiMERUを眺めていてもレシピは思い浮かばないでしょう」
「いやぁ……HiMERUくんってこはくちゃんがいない時は愛情表現が素直だなぁと思って」
「は?」
「あれっ、言葉のチョイス間違ったっすかね? 上手く言えないっすけど、うーん……まぁいいや。考えてもお腹が空くだけなんで。じゃあ、僕はご飯考えてくるっす。人間以外の動物にご飯を作ることなんて滅多にないから腕がなるっす~!」
HiMERUの疑問への回答もそこそこに腕捲りをしながらニキは厨房の奥へと消えていく。踊るように揺れていたグレーの髪が見えなくなってすぐ調理器具が擦り合わさる金属音と陽気な鼻歌が聞こえてくる。
料理に対するニキの集中力は凄まじい。声をかけても会話は困難だと判断し、「出来上がったら連絡をください」とメッセージを飛ばす。
何の気なしに店内を見回して目に入ったオススメメニューの中にあんみつのプレートを見つける。こはくが美味しそうに頬張っていたことを思い出して、嬉しさに綻んでいた横顔を記憶から呼び起こす頃には店員を呼んで同じものを注文していた。十数分ほどして運ばれてきたそれを残っていたコーヒーと共に平らげてカフェを後にした。
『ほんとは気づいてんだろ?』
ベンチに腰掛けて燐音からの言葉を反芻する。その度に頭が重く痛む。
確かにこはくから好意を寄せられていることは薄々気づいていた。それが友情なのか愛情なのかについては深く考えずにいた。知らない振りをした。罪悪感を押し殺すくらいには今の曖昧な関係が心地いいと感じていた。ずるい、のだと思う。だからバチが当たったのだろうか。
打ち上げの夜の燐音との他愛もない雑談で不意に同性からの好意をどう思うか、と訊かれいの一番にこはくの顔を思い浮かべてしまったが故に咄嗟に保守的な返答をしてしまった。それからこはくの様子がおかしいことに気づいてはいたが、どう声をかけていいものか思案に暮れている内にこはくの姿は夜道に溶けていた。
あの覚束ない背中を引き留めていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
栓無いことを考えては天を仰いで深く息をする。頂点を過ぎた太陽は徐々に西の空へ傾き始めている。
白猫の体に手のひらを滑らせては、撫でたこともないこはくの髪の感触を無意識に重ねていたこともあった。優しく触れれば猫のようにとろける瞳で微笑んで甘えてくれるんだろうか。
想像して心臓が泡立つように高鳴ったのを感じた。胸の奥に影のように潜んでいた欲望が顔を出して、自覚した途端みるみるうちに膨らんでいく。
本当は気づいていた。自分の気持ちにも。
こはくを好ましいと思う気持ちの本質に、気づいていた。のめり込んではいけないと目を背けていた感情が輪郭を顕にしていく。この気持ちに名前がついてしまう。
振り切るように立ち上がったHiMERUはトレーニングルームへと足を向けた。悶々とした思考を整理するにはじっと俯いているよりも体を動かす方が早い。
端末から通知音が鳴ってランニングマシンを停止させ、足を止めた。タオルで汗を拭いながら確認すると、予想通りニキからの連絡だった。「出来たっす!」と簡素なメッセージではあったがそれで十分だった。寮の中庭で落ち合う約束をして、汗を流すためにシャワー室へと向かった。
外へ出る頃には既に太陽は赤みを帯び始めていて、辺りに夕餉の香りが充満し始めていた。
ニキは両手にビニール袋をいくつか提げてやってきた。
「お待たせっす~。デリバリーサービスっすよ~」
「随分と大荷物ですね」
「なはは~僕の晩ごはんも入ってるっすからね。猫のはこっちっすよ」
言いながら、ニキは容器を二つ取り出してベンチの上に広げた。ひとつは魚や鰹節ベースで作られており寿司を彷彿とさせる。もうひとつには肉や野菜とパンの欠片のようなものが入っており、いわゆるハンバーガーに近い構成に思えた。言わずもがな前者が和食、後者が洋食ということだろう。素材の色がそのまま反映されているところを見るに、猫の体に悪影響のある調味料などはほとんど使われていないのだろう。料理人を自負しているだけあって器用なものだと流石に感心する。
「さて。肝心の桜河を探しにいかなくてはいけませんね」
腰に手を当てて息を吐く。昼間の様子を鑑みるとなかなか姿を現さない可能性が高かった。そう遠くまで逃げていないことに賭けて猫が逃げた方向、つまり寮の中庭から捜索を始めるのが得策だろうと考え、集合場所をここにした。
既に周囲は暗くなりかけている。出来るだけ早く見つけたいところだが。
動き出そうとしたところで、か細い猫の鳴き声が聞こえた。見回すと花壇の影からこちらを窺うように頭だけを出す白猫を見つけた。
「なぅ」
視線が合うと猫はまたひとつ小さく鳴いた。昼間のような尖った雰囲気はなく、警戒しているというわけではなさそうだ。耳がぺたりと伏せられている様は、叱られることを覚悟している幼児のようで、威嚇したことに罪悪感を抱いているように見えた。
「お昼のことは怒っていませんから、こちらへどうぞ」
「にゃうっ」
夕餉の入った容器を揺らすと、猫はぴんっと耳と尻尾を立てて一目散に駆けてきた。
「あっ!」
料理に飛び付く猫を見てニキが興奮したように声をあげた。
「和食っす!」
猫が夢中で貪る容器を指す。どうやら白猫は和食に飛びついたらしい。
「にゃ」
あっという間に一皿平らげた猫は隣に置き去りにされていた洋食の盛り付けられた容器の縁をつつく。
「んぃ? もしかしてこっちも食べたいんすか? いいっすよ。余ったら僕が食べようと思ってたっすけど、君が食べてくれるならそれが一番す!」
「にゃ!」
ニキの言葉に猫は尻尾を振って料理に口をつけた。気持ちのいい食べっぷりをみるに、かなり腹を空かせていたようだ。大事になる前に間に合って良かった。
「何だか僕もこの子がこはくちゃんに見えてきたっす……」
小さな口で懸命にご飯を食らう猫を見つめてニキが呟く。HiMERUも同じことを考えていた。今の猫の姿はニキの作った料理を美味しそうに頬張るこはくの横顔と重なる。
しばらく眺めていると、自然と腹の虫が疼いてくる。それは隣のニキも同じだったようで、自らの胃の辺りを擦っている。
「見てたらお腹空いてきたっすねぇ。お弁当を多めに拵えてきたんすけど、HiMERUくんもどう?」
言ってニキは袋から取り出したパックを掲げる。断る理由はなかった。
「では、お言葉に甘えていただきます」
食べ始めてしばらくすると、料理を平らげた猫がベンチに上がってきた。隣に座った猫はその額をHiMERUの腕に擦りつけてきた。
「にゃ~?」
「食べ終わるまで待っていてくださいね」
「にゃっ!」
あやすように喉を撫でると猫は返事をするように元気な鳴き声をあげた。
すっかり夜を迎えた空中庭園の椅子にHiMERUは腰かけていた。揃えた膝の上で猫は毛繕いをしている。
あの後、持ってきた弁当を全部平らげたニキは明日の仕込みがあるからとカフェに戻っていった。ニキを見送るやいなや、急に走り出した猫を追いかけていく内にここまでたどり着いていた。
あの時は利口に外で待っていたESビルの中にあっさりと入り込み、内部を熟知してるかのように人の少ない通路や非常階段を駆使して走り抜けていく猫に振り回されながらも何とか見失わずに来れた。
HiMERUをここに連れてきたかったように思えたが、ここは特段変わった様子もない。ただの気まぐれで連れてきただけのようだ。
猫の目がHiMERUを見上げる。その紫色を見つめ返す度に人間だった頃のこはくに思いを馳せてしまう。こはくが猫になってからもう丸二日以上も経つ。本当にこのまま戻らないかもしれない。何か手がかりはないかと端末の検索エンジンを立ち上げワードを入れようとして馬鹿馬鹿しくなって止めた。人間が動物に変わるなんてまるでおとぎ話だ。
おとぎ話のようにキスをしたらもとに戻るのだろうか。次いでそんな思考が過った。呪いで動物に変えられてしまった王子様がお姫様のキスで美しい人間の姿を取り戻す。そんな寓話が王道としてこの世に溢れている。
馬鹿馬鹿しいとは思うが、恥を捨てて試せることは全部試すべきなのかもしれない。
両手で抱えた猫を視線の高さまで持ち上げる。猫はぱちくりと瞬いて呑気に欠伸をしている。一縷の望みをかけてその小さな顔へ唇を近づけていく。
猫にしては甘い体臭を鼻腔に感じて、次に訪れる感触に備える。
ふにゅり、と唇に感じた感触は獣の口にしてはやけに柔らかく、ちくちくとした毛の感触もなかった。目を開けて確かめると、唇に当たっていたのは猫の肉球だった。キスはおあずけと言わんばかりに両足を自分の口とHiMERUの唇の間に滑り込ませている。
「にっ」
めっ、と叱るように短く鳴いて肉球で唇を押し返されている。唇を離して深いため息を吐いた。込み上げてくる羞恥心と、拒絶された悲しみで消えてしまいたくなった。
目の前の猫が何を伝えたくてどうしたいのかがまるで分からない。告白もしていないのにキスをするなということなのだろうか。
こはくが人の姿であった時にたくさん話しておけばよかった。好きだと伝えておけばよかった。
膝の上に降ろした猫の瞳を見つめて深く息を吸うと、呼吸の音に反応したように猫の耳がぴくりと震えた。
「桜河、好きです……だから、」
帰ってきて。伝えたいことがたくさんあるから。
「なぁ、それ、ほんま?」
項垂れた頭上から振ってきた声が心臓を撫でて、反射的に顔を上げる。
夜に浮かぶ桜色の髪と花のように可憐な紫の瞳。探し求めていた色がそこにあった。
「おう、かわ……」
「うん。わしやで」
「本物……ですか? 猫になったのでは……」
「えっ、なにそのけったいな話。猫ぉ?」
興味津々に大きな瞳を更に丸くして、ころころと笑う。愛しい笑顔が目の前で花開いて、手を伸ばさずにはいられなかった。
頬に触れて確かめる。滑らかで暖かな手触りは紛れもなく人の肌で、確かな実感をHiMERUに与えてくれた。
「ひ、HiMERUはん、なんなんいきなり人の顔触って……びっくりするやんか」
こはくの顔がみるみる赤く色づき、熱をもっていく。左右に大きく振れる瞳は動揺と戸惑いを如実に示していた。
「すみません、つい」
ようやく不躾に触れていたことに気づき、即座に手を離すとこはくは安堵したように息をひとつついた。
「で、なんやっけ。わしが猫になったって? まさか、HiMERUはんが大事そうに抱えとるその白い猫にか?」
「はい。……あれ?」
こはくが指し示すHiMERUの膝の上には白い毛並みの猫が背筋を伸ばして座っていた。ずっとこはくだと思って接していた猫が、今もそこにいた。猫がこはくであるとするなら、人の姿のこはくが現れたと同時に姿が消えていなければ辻褄が合わない。
「どうして……」
こはくと猫を交互に見遣って声をこぼすと、膝の上の猫は「にゃう」とひとつ鳴いてHiMERUの腰の回りを一周した後、椅子から飛び降りて駆けていった。
立ち去った猫を視線で追っていくと、遠く離れた空中庭園の出入口から猫の鳴き声と人の声が風に乗って聞こえてきた。
「こんなところにいたの。帰ろう」人の声はそう言っていたように聞こえた。
人影は小さいがどうやらESのスタッフのようだと認識できた。飼い猫だったのだろうか。それにしてはただの飼い猫がES内を自由に出歩けるのは不自然に思える。
考えられるとすれば、ESで飼っている猫、つまり動物タレントである可能性が思い浮かんだ。そう仮定するとあの知能の高さも納得がいく。
どのみち、こはくが猫になったというのはHiMERUの大きな勘違いだったことに変わりなかった。
静かな夜に取り残されて、所在なくこはくを見つめると、彼は微笑みながら眉を下げた。
「えらい不安にさせたみたいでごめんな」
「どこに行っていたんですか。連絡がつかなくてHiMERU達がどれだけ心配したか……!」
不安から解放されて押し留めていた感情が口から溢れ出す。その言葉の継ぎ目でこはくは「ごめん」と目を伏せる。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。無事で良かったと抱き締めたいのに。感情が上手くコントロールできない。
猫になっていなかったのなら今までどこで何を。何も知らないことが寂しくて辛かった。
「しばらく斑はんに連れ回されとってな。携帯はどっかに置いてきてしもたみたいやし、隙を伺って斑はんのを使おうにもロックかかって使えんしで、わしからは連絡できんでな」
「三毛縞さんと一緒ということは、DoubleFaceの仕事ですか?」
掛け持ちしているもうひとつのユニット。良くない噂も時折耳にする。危険な香りの絶えないユニット。浮かんだ懸念に心が翳ったが、こはくは小さく首を振った。
「わしもそうかと思うたけどもう終わっとった。打ち上げの後ガーデンテラスでうたた寝しとったところを拾われたみたいでな。目が覚めたらあれよあれよと言う間にバイクの上じゃ」
肩を竦めて呆れたようにため息をついたこはくはHiMERUの隣に腰かけた。肩同士が触れあって、とくりと心臓が小さく跳ねた。
「バイクに乗った時に上着から濡れた煙草の臭いがして、こいつはまた独りで"仕事"しにいったんやなっち分かってしもた。せやから、捨て置くことができんかった。そのまま行き当たりばったりな小旅行の始まりじゃ」
うんざりとした口振りで話す割には清々しい顔をしている。何があったのか気になって仕方ない。斑と朝も夜もない二人旅、何かあってもおかしくはなかった。
「なし崩しに始まった旅やったけど、考え事するんにはちょうど良かった。知らん景色を見ながらずうっとHiMERUはんのこと考えとった」
「HiMERUのことを?」
小さく頷いてこはくは言葉を続けた。
「HiMERUはんへの気持ちの諦め方を探しとった」
「諦め方って……」
こはくの視線が遠く夜空へと向けられる。夜闇を映す瞳は夜の海よりも寂しげだった。
バイクの後部座席の上でヘルメットのシールド越しに流れる景色を目に映しながら、どれほど思い悩んだのだろうか。
「とにかく、全部すっぽかしてしばらく帰らんでもええかなっち思うたけど、やっぱりあかんかった。HiMERUはんに会いとうなってしもて。帰りたいっち斑はんに伝えたらあっさり帰してくれたわ。あれは一体、何やったんやろな?」
「そういう事情なら三毛縞さんの方から連絡のひとつくらい寄越してくれても良かったのに」
HiMERUの言葉にこはくは首を傾げた。
「連絡入ってへんの? 斑はんは燐音はんに連絡しといたっち言うてたで。あいつも流石にそこまでくだらん嘘はつかんと思うけど」
こはくの言葉にHiMERUは絶句した。彼の話が事実だとするならば少なくとも燐音はこはくの無事を知っていて、こはくが猫になっているという荒唐無稽な出来事がHiMERUの勘違いだったことも知っていたはずだ。
昼時に燐音と交わした会話を思い出して項垂れる。今さらに彼のやたらと含みのある言動に合点がいった。要するに、燐音の思惑通りに事を運ばされていたということだ。
絶妙のタイミングでHiMERUのスマホが震える。メッセージの到着を知らせる通知だった。黒の画面にポップアップされたのは一度連絡を送ってたから一切音沙汰のなかった斑からのメッセージで、短い文面をさっと目でなぞる。
『迷子のこはくさんはちゃんとお家に帰れたかなあ?』
その文章に口の端がひきつった。HiMERUからの連絡を無視していたことや皮肉めいた言い回しから、ただの揶揄だけではないことが感じられた。
冗談交じりながらもこはくのことを「うちの子」と称したり、傷心旅行に連れ出すくらいには斑にとってもこはくは放ってはおけない存在らしかった。
だから、彼もまた知っていたのだろう。こはくのHiMERUへの気持ちと葛藤を。それを弄んでいたHiMERUの狡猾さも。
灸を据えられた気分だ。穴があったら入りたい。悔しさだか羞恥だか様々に押し寄せる感情の処理に追われ、額に指を当てて俯く。
「どないしたん、気分でも悪なったん?」
心配そうに眉を下げて覗き込んでくるこはくの優しさが愛おしくて強く抱き締めてしまいたくなる。目の前にいてこうして言葉を交わせることがありがたいと思った。一度失ってからでなければ気づけなかったことが悔しかった。
大丈夫ですよ、と笑みを返した時、ポケットの中が震えて、もう一つ端末を持ち歩いていたことを思い出す。
「これ、HiMERUが預かっていたのでお返しますね」
「ん、あぁ。おおきに。おんもはこれがないとほんまに不便やな」
受け取ったこはくは端末のスリープを解いて画面を呼び起こした。
「中身は見ていませんのでご心配なく」
「あはは。疑っとらんよそんなこと……わっぎゃ!」
画面のロックを解除するやいなやこはくは奇声を上げて飛び上がった。反射的に隣に視線を移すと、こはくの手から離れて翻った端末の画面が目に入ってしまう。決して動体視力が悪いわけではないHiMERUの目はしっかりとそこに映った画像を捉えてしまった。
「……見た?」
地面に落ちる寸前で端末を両手で挟み込むように受け止めたこはくは震える声でHiMERUを振り返った。申し訳なさを感じながらも、曖昧に笑ってイエスを返した。見てませんと嘘をつくのも忍びなかったし、何より夜闇に煌々と浮かび上がったその画像に言及したくて仕方なかった。
「その写真、HiMERUですか?」
見えた画面にはHiMERUが映っていた。おそらく横顔。詳細は分からないが、一緒に出掛けた時のどこかでいつの間にか撮られていたのだろう。どうしてHiMERUの写真を大事にとっているのか、淡い期待を込めて確認のために発した言葉にこはくは表情を青くした。
「ちゃうねん、隠し撮りとかそんなんとちゃうくて、つい弾みで……ああっそれでも盗撮には変わりないんか」
「お、桜河……?」
「HiMERUはんの顔が綺麗で魔が差したっちか、好きやなっち思って、あっ好き、ってちゃう! いや違わへんけどっ、」
「桜河、桜河。大丈夫ですから、落ち着いて」
青くなったり赤くなったり色を変えながら忙しなく弁明するこはくを宥める。想像以上の取り乱し方を前にしてフォローを入れる隙も心の余裕もなかった。
肩を落としてすごすごと隣に座り直したこはくは「言ってもうた……もうおしまいや」と呟いて膝を抱えて俯いてしまった。
唯一見えている耳が赤く色づいているのを見つけて、胸がじわりと熱くなる。顔が見えないのが惜しくて耳朶にそっと触れると、肩が震えてほんの少し表情が垣間見えた。
「嬉しいですよ、桜河の気持ち」
「え、HiMERUはん、同性に言い寄られるんは困るっち言うてたやんか」
不安げに眉を下げるこはくに、やはりあの日の発言を引きずっていたのだと分かって罪悪感に全身を刺される。
「天城の前で正直に公言するわけにはいかなかったのでああ言いましたが、あなたがそこまで気に病むとは思わず……すみません」
「な、なぁ、そしたらさっきHiMERUはんが言うとったこと、ほんま? わしのこと好きっちいうの」
期待を孕んだ瞳で告白を蒸し返されて、心臓が直接触れられたかのようにギクリと震える。今回の騒動の真相を咀嚼するのに必死で失念していたが、猫に愛の告白など思い返してみると自分も大概な告白をしたものだ。この数分の間にずたずたになった自尊心を立て直す時間が欲しかったが、ここで変にはぐらかすことは悪手だと重々に承知していたし、想いを伝えてくれた彼に対しても不誠実だと思った。後悔はもう御免だ。夜風がもたらす冷気に負けず火照る体が、本音を後押ししていく。
「好きです。桜河のことが」
風の音が消えて、自分の声がやたらと響いて聞こえた。
HiMERUの言葉を聞いたこはくの目が大きくきらきらと輝きを増す。
「嬉しいわぁ。わしもHiMERUはんが、すき」
言葉を噛み締めるようにゆっくりと呟いて、うっとりと表情を緩めるこはくが、心底愛しいと思った。
「猫みたいにわしのことも可愛がってくれるん?」
わずかに開いていた隙間も埋めるように距離を詰めてぴとりと肩をくっつけてきたこはくは上目遣いで控えめに訊ねてきた。
「猫みたいに?」
やけに具体的な指定に首を傾げながら、手を伸ばす。頼まれなくても猫よりずっと可愛がるつもりだが、こだわりでもあるのだろうか。
こはくの髪に触れて、体が覚えてしまった手つきでそのまま鋤くように撫でるとふわりとした感触が伝わった。猫の毛並みとは違った芯のある柔らかさで、その感触が愛おしかった。こはくの頭の形はこんなだったのだな、と指の腹でその輪郭を縁取る。
「あ……」
吐息をこぼしたこはくの顔を覗き込むと、前髪の隙間から薄く膜を張ったすみれ色が姿を覗かせていて、驚きのあまり指先が石膏のように固まる。
「ど、どうしました?」
「ほんまに撫でてくれると思わんくて、びっくりしたっちいうか……それに、HiMERUはんに触られたとこが擽ったいんかぞくぞくって変な感じするんよ」
「触られるのは嫌ですか?」
こはくはぶんぶんと大きく頭を振って懸命に否定する。安堵して、試しに頭を撫でていた手のひらを首筋の方へと下ろしていくと「ん、」と唇を震わせた。肌を滑る感覚に慣れないのか身を固くして伏せた目を泳がせている。
想定していたよりもずっと初心な反応に心臓が鷲掴みにされた心地だった。疼きだした欲望に導かれて指先が自然と動いていく。
耳の下を通って顎先へ、骨格をなぞるように滑らせた指の終着点は、薄く色づく唇だ。熱っぽい視線を送りながら下唇をそっと押し潰すHiMERUの意図を察したこはくの顔が茹で蛸のように赤く染まった。おずおずと見上げる瞳に緊張の色はあれど忌避感は見えなかった。
「いいですか?」
「ん……」
こはくが小さく頷いたのを確認し、真っ赤に熟れた頬を両の手で包む。こはくの肌の熱が手のひらを通してじんわりと伝わってくる。繊細な果実を落とさないよう掬い上げて、持ち上がった菫色の瞳がHiMERUを見つめた。引き絞られた唇からもこはくの緊張が伝わってくる。
「目を、閉じてください」
張り詰めた糸を弛めるように、出来るだけ柔らかな音で伝える。ごくりと喉を鳴らしたこはくがゆっくりと瞼を降ろしていくのに合わせて、唇を近づけていく。星々の瞬く音と期待に踊る胸の鼓動だけがこの瞬間のすべてだった。
しかし、唇に訪れるはずの感触は柔らかさをもたぬ骨ばった感触だった。
薄く開いた眼前には真っ赤な顔のままのこはくが口元を指先で覆っている。というよりも手のひらを差し出して、HiMERUの唇を指の腹で受け止めていると表現した方が適切かもしれない。つまり、HiMERUの唇はこはくのそれには届かなかったということだ。
「か、堪忍……やっぱり心の準備が間に合わんくて」
罪悪感に視線を彷徨わせた瞳が伏せられて、震えた指先が再びHiMERUの唇を押し返す。
「ふ……っ、ふふ……」
猫にもこはくにも同じように唇にお預けをくらう。重なる偶然があまりに滑稽で、喉から笑い声が零れる。
「ご、ごめんって……!」
体を震わせるHiMERUに怒っていると勘違いして慌てふためくこはくの体を引き寄せて抱き締める。ふぎゃっ、と抜けた悲鳴をあげたこはくは自分の置かれた状況を把握して全身を硬直させた。あの白猫のように甘えてくれるようになるまではもうしばらく時間がかかりそうだ。けれど、それくらいがちょうどいいと思った。
「おかえりなさい、桜河」
「……うん、ただいま。HiMERUはん」
こうやって互いに触れあいながらこれから少しずつふたりの愛を形作っていこう。
こはくの輪郭を全身で感じて踊る心の感触に浸るように目を閉じた。
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