ペンを走らせる音と紙が擦れる音。今、この部屋にはそれだけだった。送られてきた手紙に綴られる文章を視線で追う毎に喜びと感謝が次々と浮かび、返したい言葉が溢れてくる。その言葉を丁寧に文字へと起こしていき、紙の上にペンを滑らせる。今夜はひたすらにそれを繰り返していた。
事務所に届いたHiMERU宛のファンレター。その返事をしたためる時間を月に二、三回ほど確保している。今日はまさにその日だった。夜半まで作業することになるため、同室者へ配慮して、返事を書くときは星奏館に入寮するまで自宅としていた部屋を利用している。
二人用のダイニングテーブルには色とりどりのファンレターとそれに充てる返事用のレターセットが広がっている。スタンドライトが放つ蛍光灯に木目が照らされて落ち着きを与えてくれる。
作業が終わればすぐに眠れるよう明日の支度も寝支度も早めに終えた。手元の明かり以外は全て消灯して、静けさと光の中で黙々と机に向かう。
時折、カップホルダーに置いたコップを取って口にする。冷たいながらも香ばしい風味が喉を通って静かな鼓動に沁みわたる。水出しのほうじ茶だそうで、これは桜河が淹れてくれたものだ。というのも、今日は桜河が泊まりに来ている。
今日のレッスン終わりに寮とは別の方向へ向かおうとすると声をかけられ、事情を話すと付いていきたいとねだられた。
断るつもりは元々なかった。しかし、明かりを制限した特殊な環境であるためどうしても過ごしづらさが生じてしまう。それを伝えてなお、それでもいいから一緒にいたい、と目尻を緩ませて言われてしまえば、尚更断る理由などなかった。
共に夕食を食べ、片付けも含めて小一時間ほど談笑をして、HiMERUから先に湯を浴びた。諸々の準備を整えて作業に取り掛かる直前、一言断って部屋の電気を常夜灯に切り替える。寝室へ寝支度を調えに向かう桜河へと、長くなるから先に寝ていて欲しいと声を掛けて椅子に腰を下ろした。
そこからは周りの音も気配も何もかもが気にならなくなるほど、愛と言葉のやり取りに没頭した。その中でただ一度だけ、部屋の常夜灯が消されて自分の周囲以外が完全な真っ暗闇になった時には「桜河が寝たのだな」と頭の片隅で意識が向いたことだけを覚えている。
ファンレターの返事を書き終えて軽く伸びをする。大分集中していたようだ。固まった筋肉が引き伸ばされる感覚が心地よい。
ホルダーのお茶をとり、一口飲んで息を吐く。時間が経ち温くなってなお損なわれない香ばしさが喉をするりと通って、安らかな心地を与えてくれる。きっと淹れた人の腕がいいのだろう。
時計に目を遣ると既に日付が変わっていた。そろそろ眠らなければと立ち上がろうとした時、左手にするりと滑り込む感触があり、不意な感覚にぴくりと肩が震える。
左手に視線を落とすと、自身の左手が別の手に絡めとられている。幽霊でもいない限りこの部屋には自分と恋人の二人しかいない。指を絡めてくる手は確かな実体と体温をもっていて、もちろん幽霊などではあり得なかった。
「桜河?」
呼ぶと、暗がりの中で影が揺れる気配がした。眩いライトと室内との明暗差に慣れてきた目が、蛍光灯の奥で鴇色の髪が花明かりのように浮かび上がるのを見つける。気配を消すことが上手な彼は暗闇との相性がいい。目の前に居たのに触れられるまで気づかなかった。いつからそこに居たのだろう。
呼ばれて桜河は手元に注いでいた視線をHiMERUの顔へと移した。すみれ色の瞳が何か言いたげにじっと見据えてくる。
「まだ眠っていなかったのですか。HiMERUのことは気にせず先に寝ていていいと言ったのに」
声をかけるも桜河は黙ったままで、抱えていた両膝の上に頬を乗せた。落とした視線は恋人繋ぎに絡まった指先に向けられている。
……怒っているのだろうか。
桜河の反応にそう推測する。思い当たる節しかなかった。
ファンレターの返事を書き始めて数時間は経っている。その間、手紙に集中して彼を顧みないどころか目の前にいることにも気づかないまま放置していたなんて不機嫌になるのも仕方がない。
「HiMERUがファンレターに夢中だったこと、怒っていますか?」
問いかけに対して桜河は小さく首を振って否定した。
「んーん。そんなんやあらへんよ。お手紙の返事は大事じゃ。それは分かっとる。せやけど、先に寝ろなんてHiMERUはんが意地悪言うから」
「意地悪?」
「終わるまで待っとけっち言うてくれたら待っとくやんか。せっかく二人で過ごしとるっちゅうのに薄情や」
唇を少し尖らせて絡めた指先に力を込める。拗ねた子供のような様子を見るに、不満はあるが確かに怒っているわけではないらしい。
ただ、影を落として静かに揺れる瞳が濡れているように見えて、思わず手を伸ばした。
左耳の鴇色がくしゃりと乱れる。見開かれた瞳に涙の色は見えず、ひとまず胸を撫で下ろした。
右の手のひらに桜河の柔らかな頬の温もりが伝わって心臓が熱を帯びる。手と手を重ねて頬を擦り寄せた桜河はゆっくりと瞬きひとつして、椅子から腰をあげたHiMERUを見上げた。
見つめ合うと高鳴る鼓動の音が聞こえる。卓上の蛍光灯が期待を滲ませる桜河の顔をスポットライトのように照らして、ライトを反射したすみれ色の瞳のそれ自体が星空を閉じ込めたみたいに瞬く。互いの呼吸と胸の高鳴りが聞こえそうなほどの静寂。鼓動はチクタクと部屋に響く秒針の音よりずっと早い。
星空の瞳が水面のように、一度ゆらりと揺れて閉じられる。ぴったりと閉じられていた唇が緩んで薄く開かれた。
それを合図にして顔を近づける。添えていた右手を顎の下に滑り込ませて持ち上げる。初々しくささやかに差し出された桃色の唇に同じものを重ねて、目を閉じる。
柔らかさを押し潰す感触を一瞬だけ味わって唇を離す。そっと目を開くと熱をもった視線とぶつかった。
「寂しいならそう言えばいいのに」
「さ、みしくなんか……」
互いの息がかかるほどの距離で呟くと、桜河の目尻が薄く色づく。図星だったのか動揺した瞳がいつになく頼りなげに彷徨った。実年齢以上に自立した精神をもつ彼のことだから適度な距離感が好みなのだと思っていたがどうやら違ったらしい。寂しい思いをさせてしまったことには申し訳なさを覚えるが、求めてくれることに心が踊らないではいられなかった。
「桜河が求めるならHiMERUはいくらでも応えますよ」
繋いだ指の腹で手の甲をすりすりと撫でると、観念したように桜河の眉尻が緩やかに下がる。
「せっかく誤魔化そうとしたのに、甘やかさんといてや」
照れ隠しにはにかんで今度は桜河から唇を重ねられる。
ちう、と下唇を柔く吸われるのに誘われるまま舌を桜河の口内に滑り込ませる。
ざらりと舌を撫でると絡まる桜河の指に力がこもる。
「ん、ふ……ぁっ」
顎の下を指でくすぐると、唇の端から甘さを含んだ吐息が零れる。舌と鼻腔で感じる香ばしい苦味。味わい慣れたコーヒーの香だ。HiMERUを待つ間のどこかで飲んでいたようだ。
彼が夜にコーヒーを口にするのは睡魔に抗う時と決まっていた。HiMERUが手紙を書き終えるまで眠るわけにはいかないと耐えていたのだ。健気さに胸がぎゅうっと掴まれる。脳髄がじわりと熱くなって、夢中で口内のコーヒーの残滓を貪る。愛おしくてたまらなかった。
「んぅ、ん~~~っ」
桜河の爪先が繋いだ手と掴まれた服の裾に食い込んで、彼の限界を訴える。
後ろ髪引かれながら唇を離すと未練がましい銀色の糸が二つの唇を繋いで、やがて切れる。
顔を朱に染めて肩で息をする桜河を呼吸ひとつ乱さず見つめる。猫をあやすように首もとを指で撫でると、敏感な身体がぴくりと跳ねる。
ほう、と息を吐いてHiMERUを見上げる瞳は今にも溶けて零れ落ちそうだ。
「これくらいで蕩けているようでは先に進むのはまだまだ遠そうですね」
「さき……?」
酸欠の思考では言わんとすることを汲み取れなかったのか、たどたどしいおうむ返しが返ってきて、笑みがこぼれる。
同衾をねだるわりには夜のことにはとんと疎くてほとほと困っているのだ。邪気のないところは好ましいに違いないのだが。
「そろそろ寝ましょうか」
「もう、ええの?」
「えっ」
絡めたままの指を引いて寝室の方へと誘うと、引き留めるような桜河の声が返ってくる。
言葉の真意を図りかねて押し黙る。貪られた唇はまだ乾ききっておらず、蛍光灯の光でつやりと誘うように光っている。もう一度キスをねだっているのだろうか、はたまた『先』を望んでいるのだろうか。
次の一手を決めかねて丸い瞳を見つめ返していると、「お手紙」と補足的に主語が添えられて、一気に脱力する。単に作業の進捗状況を気にしていただけようだ。期待するにはまだ早かったらしい。
「心配いりません。今日の分は終えましたので」
「HiMERUはんがお返事書いとるお顔好きやのに。もう終いか」
何気なく呟かれた言葉がとすりと胸を撃つ。
「お手紙と向き合っとる時のHiMERUはんはいつになく優しい眼差しをしとって、ほんまに幸せそうで見とるとこっちまで嬉しゅうなるんよ」
先程までの光景をひとつの頁として捲るように振り返り、目尻を下げる桜河に全身の血液の速度が上がる。いつから見ていた? もしかして、ずっと?
無防備な姿を晒した気恥ずかしさと、数時間分の桜河の熱視線を想像して顔に熱が集まるのが分かる。
「それに」
「も、もういいですから」
語りの止まらぬ唇を止めると、その唇は愉しそうに弧を描いた。
「何や。もしかして照れとんの? 普段わしが何しても表情ひとつ変えへんのに。めずらしっ」
部屋を暗くしていたことが幸いし、桜河からは動揺しきった表情は見えていないようだった。からかう口調で笑いながら顔を覗き込もうとする桜河の動きに合わせて身を引いて、スタンドライトが作り出した深い影に身を隠す。
桜河の追尾を躱す毎に、むしろ彼の表情が明かりに晒される形となり、ライトに負けず輝く好奇心を湛えた瞳が煌々と照らされる。幼稚な攻防戦に夢中になっている自分達が滑稽に思えて、くすりと声を溢すとこだまするように桜河からも同じ音が返ってくる。溢れてくる幸福感に指先までじんと温かくなっていく。手放したくない愛おしさに強く手を握り直した。
「わわっ、真っ暗になってもた」
ライトの電源を落とすと唯一の光を失った部屋は真っ暗な闇の色に染まる。桜河が上げたはしゃぐような声を頼りにその顔を引き寄せる。
「桜河といる時もHiMERUは幸せな気持ちでいっぱいなのですよ。いつだって求めてくださいね」
溢れる気持ちのすべてが余すことなく届きますようにとひとつひとつの音を丁寧に紡ぐ。
桜河が息を呑むのが空気を通して伝わった。
「……うん」
掠れた低い声が空気を揺らし、繋いだ手をぎゅっと握り返される。返事はそれだけで充分だった。
暗闇の中で肌を寄せて目を瞑ると、呼吸も温度も鼓動も全てがひとつに融け合う感覚になる。耳に届くとくとくと温かく弾む鼓動のリズムが、ふたり同じであればいいと誰にでもなく祈る。
時間の経過と共に温かくなる桜河の手を伝ってこちらにも安らかな眠気が訪れる。
寝ましょうか、と声をかけて今度は常夜灯を灯す。ひととき見えた桜河の瞼は優しい睡魔に包まれてゆったりと瞬きを繰り返していた。
今夜の静寂はいっそうの愛の温もりで満ちている。
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